珍しいものを見た。
秋のある日のことです。ジークは夕方の山の中を一人で歩いていました。柿を六つ持っています。今夜は野宿で、夕食の足しになるものを調達して戻るところなのです。
どうやらこの山では今が紅葉の見頃のようです。
風が吹いてもみじが一枚降ってきて、柿の上に載りました。綺麗なのでジークはそのままにしておきました。
怜とたき火が待つ場所が見えました。おや? 何か聞こえます。
「なーかーにー」
ジークは足を止めました。彼の耳に届いたのは聞き慣れた声でしたが、聞いたことのない声にも思えました。
「まーつをいーろーどーるーかーえーでーやーつーたーわー」
ジークはそーっと声の主に近付くことにしました。自分に気付かれたらその時点で珍しいものを見られなくなると思ったからです。そして見ました。たき火の前に座り、やや上の方を見ている怜の口が大きめに動いているのを。
「やーまのふーもーとーのー」
なんとまあ本当に怜が歌っているではありませんか。
「すーそーもーよーおー」
怜の歌声をジークが聞くのはこれが初めてのことです。元を知らないので音を外しているかどうかはわかりませんが、聞いていて嫌ではないので下手ではないだろうと彼は思いました。
「たーにのなーがーれーにー」
怜が目線を下げ、声量をぐっと落としました。そろそろジークたちが戻ってくると思ってのことかもしれません。
なかなかに珍しいものを見ることができましたが、そんなことよりジークは紅葉の美しさに感心しました。あまりにも綺麗なので、絵にして残しておけたらいいのにとまで彼は思いました。
怜の歌はすぐに終わりました。短い曲だったようです。
もう歌う気はないようで怜は鞄から本を出しました。魔法の教科書です。あの装丁はクオ皇国のもののはずです。それを開いて彼女は地面と平行に魔法陣を描き始めました。
ジークは心の中で三十数えてからわざと音を立てて動きました。すぐに出ていってはジークが歌を聞いていたことを怜が察してしまうからです。
怜が顔を上げてジークを視界に入れました。
「おかえりなさい」
特に慌てたり恥ずかしがる様子もなく怜は普通にそう言いました。
「ただいま」
ジークは怜から少し離れた位置に座りました。そして怜に何の魔法の魔法陣を描いているのか尋ねました。
「水の玉を出す魔法です。比較的簡単で安全に“宙に浮かぶ水の玉”っていうすごく魔法らしいことができるんです」
魔法陣を描きあげた怜はお手本と自分が描いたものを念入りに見比べました。そして呪文を唱えました。
魔法陣が輝き、ぽんっ、と球状の水が飛び出してきました。直径十五センチはあるでしょう。魔法陣の上で小さく上下する水玉を見て怜が微笑みました。
物珍しいのでジークも近寄って見てみます。
水玉は上下に動くだけでなくふるふると震えています。強い風が吹いて大きく震えましたが、崩れることはありませんでしたし位置がずれることもありませんでした。
怜が水玉にそっと触れました。指が中に入っても水は玉のまま浮いています。
怜が水玉から指を抜いた時です。ジークは後方でガサガサという音がしたので振り返りました。少し遅れて怜も同じ方を見ました。
「ただいまー」
エドワードが戻ってきたのでした。機嫌が良さそうな彼にジークと怜はおかえりを言いました。
「レイちゃん何やってるんだい?」
「えっと……風流?」
「へ?」
怜は説明するより見せた方が早いと思ったのでしょう。赤い落ち葉を一枚拾い、
「もしできたら綺麗かなって」
それを水玉の中に入れました。葉は水面に浮き上がることなく水の中でゆらゆら揺れています。
やりたいことがうまくできたようで、怜はとても嬉しそうな表情になりました。にこにこしたまま彼女は落ち葉を三枚拾い、一枚ずつ慎重に水の中に入れました。
どうやら怜は水の中の紅葉を楽しみたかったようです。
「面白いこと考えるね」
エドワードがそう言うと、怜は「えへへ」と笑いました。その笑顔を見てエドワードもにこっとしました。褒められて嬉しい子供と、そんな子供がかわいい親のようだとジークは思いました。
ジークには、笑顔の怜はときどき幼い子のように思えます。字もろくに書けないような子供です。そう思う理由は、怜が早々にすっかり諦めるしかなかった夢が魔法を使うことで叶っているからではないか、とジークはつい最近考えました。諦めてただ憧れて物語の中で楽しむだけになったけれど、どうにかすれば自分も魔法を使えるんじゃないかと思っていた頃の気持ちをずっと持ち続けてきて、それが顔に出ているのではないかと。
怜の笑顔は長くは続きませんでした。すっと十代の顔に戻った彼女は魔法陣から離れました。すると魔法陣が薄れ、水玉はまるでそれまであった器が突然なくなったかのようにばしゃんと地面に落ちました。彼女がいた所は濡れました。
「ああー……。どうしたんだい?」
「時間切れです」
「そっかあ」
魔法を使った怜よりエドワードの方が残念そうにしています。怜は「これくらいのもの」とわかっていたからでしょうか。
三人は夕食の準備を始めました。
「見て二人とも。珍しいきのこがあったから採ってきたよ」
エドワードが袋からきのこを二つ取り出しました。二つとも同じものですが大きさが違います。
「こっちは売って、こっちは僕らで食べよう。ね、レイちゃん?」
「結構です」
「高級品だよー?」
「結構です」
「前世の死因がきのこだったりするわけ?」
「そんなこと知りません。とにかく味と食感が無理です」
きのこを食べようと言われると毎回強く拒否する怜ですが、不覚にも自分で選んだ料理に入っていた時はおとなしく食べています。ちなみにジークが見た限りでは一番嫌そうにしているのはしいたけです。
この後、エドワードの粘り勝ちで怜は一かけらだけきのこを食べました。彼女はきのこをなんとか飲み込んでから何か呟いていましたが日本語だったのでジークもエドワードも呟きの内容はわかりませんでした。
すっかり夜になった頃。
エドワードは右手にナイフを、左手に柿を持ちました。そしてくるくると順調に皮をむいていきます。彼は調理に関しては好きも嫌いもありませんが、皮をくるくるとむくのは好きです。たまに、いかに長くむけるか挑戦しています。今日は普通にむきました。
「はいレイちゃん、あーん」
怜は無言で両手を差し出しました。エドワードは特に意地悪せずに怜の手に柿を置きました。
怜が柿をかじりました。
「はずれです」
「残念」
エドワードは次の柿に取りかかりました。
柿の渋さで変な顔をしている怜にジークは小さな果物をあげました。皮をむいて切って種と芯を取り除いてあります。梨の一種で「新方針」という名前が付いています。梨とは柔らかく甘いものと思っていたイリム大陸の人々の前に突如現れたしゃりしゃりで甘さ控えめでほのかに酸味のある梨です。やや縦長です。なお命名は二百八十年前の話で、現在のイリム大陸では梨といえばしゃりしゃりの方が一般的ですし、直径十センチ程の丸い果実の品種が人気です。
「ジーク」
エドワードがジークを呼びました。今度はジークが柿を食べてみる番です。
ジークは二口食べて「微妙」と言いました。一口目は良かったのですが、もう一口食べたら渋みがあったのです。
「そうか。じゃあとっておこう」
エドワードは微妙な柿を置いて別の柿を手に取りました。皮をむいて切り分けて、今度は自分で食べます。
「うっ……」
どうやら怜が食べたものと同じではずれだったようです。ジークはエドワードにも梨を渡しました。
結局、六個の柿のうちおいしく食べられたのは一個だけでした。
晩ご飯から約二時間後、エドワードと怜は横になりました。ジークは見張りをするので今は寝ません。
エドワードは左を下に、怜は右を下にしています。怜は丸くなっていて、エドワードは比較的伸びています。野宿の場合は大体こうです。ちなみにジークは左を下にして丸まって寝ることが多いです。
さらに三十分後。怜は完全に眠ったようですが、エドワードは目を閉じているだけでした。
「なあジーク」
目を閉じたままエドワードがジークに話しかけました。
「何だ」
「ここに戻ってくる少し前に紅葉がやけに綺麗だなって思わなかったか?」
「絵にして残したいと思った」
「話は変わるけど、魔法の呪文って歌っててもいいのかな。呪文の発音も重要だって聞いたことあるけど」
ジークは察しました。怜の歌を聞いたのは自分だけではなかった、と。
「明日レイに試してもらったらいいんじゃないか」
恥ずかしがりでも魔法に関わることとなれば歌いそうです。自分たちがそばにいてはかなりもじもじするでしょうが、魔法を教わった時に歌ったという情報をジークは持っています。
「レイちゃん、杖はいつも持っていなさいって言われたらしいけどさ、そうしてたらいろいろ不便だし、実際ご飯の時とかは持ってないし、一人でいる時だってきっと置いておくよな」
「たぶん」
「レイちゃんが杖を持たないで心を込めて人目を気にしないで魔法語でのびのびと歌ったら……何かすごい魔法を使うことになりそうだなって思ったんだ」
「そうか。……そうかもしれない」
エドワードが考えているのは、怜の歌によって紅葉がとても美しく見えたのではないか、ということでしょう。
「……短い時間だったけど、いい夢を見たんだ。同じような夢を見るなら次は春頃がいい」
どうやらエドワードは魔法語で歌ってみてと怜に言うつもりはあまりないようです。今日のようにはいかないとわかっているからでしょうか。
「そうか。俺は冬にも見たい」
「見れるかもしれないな。レイちゃん冬が好きって言ってたから、春より期待できる。……今度こそおやすみ」
「おやすみ」