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何が起きたのか。

 ある宿屋でのことです。怜が階段から落ちました。人が上から落ちてきてそれに巻き込まれたのです。

 ジークは追い抜いた人が妙な声(おそらくは踏み外して驚いたことによるもの)を発したの聞いて振り向いて彼が落ちるところに手を伸ばしましたが間に合いませんでしたし、ジークの焦った声を聞いたエドワードが何事かと下を見た時には怜ともう一人は階段の下で大きな音を立てていました。

 怜は落ちただけでなく彼女を落とした人の下敷きになってしまいました。

 エドワードとジークが急いで階段を降りていくと、二人と同じく慌てた人が廊下を駆けてきて、怜の上に乗った人をどかしました。乗っていた人の顔は赤く、酔っているようでした。

 エドワードは倒れている怜のそばに膝をつきました。

「レイちゃん、レイちゃん」

 呼びかけに怜は反応しません。気絶してしまったようです。

 エドワードが怜の頭を確認すると大きなこぶができていました。

 ジークが怜の肩にかかったままの鞄をそっと外しました。

 宿の従業員がやって来て状況を確認すると、エドワードに近くの医者について話しました。時間的にまだ診てもらえるはずだと。

 教えてもらった病院に連れていこうとエドワードが手を伸ばした時、怜の目が開きました。

「レイちゃん」

「……ぉ……」

 怜は声を出したもののそれはエドワードへの返事というわけではなさそうで、ぼうっとした様子で頭をさすりました。

「血は出てないよ。階段から落ちたのわかる?」

「……」

 怜はのそのそと起き上がると周囲を見回しました。

「……なに……」

 呟くその姿は状況を理解できていないことを示していました。

「レイちゃん」

 エドワードに呼ばれて彼に目を向けた怜は不思議そうな顔をしました。

「僕のことわかる?」

「……」

 怜は五秒程経過してから首を横に傾けました。

「わからない……?」

 怜の反応にエドワードとジークが猛烈に不安になっていると、

「私に見せて」

 二十代半ばと思われる女性が二人に声をかけました。彼女は手に杖を持っており、魔法使いであるようです。

「私、魔法で治療できる」

「この子、魔法にかなり強いんですけど、大丈夫ですか?」

「本人が受け入れる姿勢であればそこまで効果は落ちないはずだよ」

 エドワードは魔法使いに場所を譲りました。

 落ちて頭を打ったことをいまだわかっていないのか不安そうな顔をしている怜の頭を魔法使いが確認します。

「ぶったとこ見せてね……ああ、こんなになっちゃって。吐き気はある? 頭の他に痛い所は?」

「……」

 魔法使いの問いかけに怜は困った顔をするばかりで答えません。

「自分の名前言える?」

 魔法使いがじっと見つめると怜はとても居心地が悪そうにしました。顔を伏せないあたり自身の状態を確認されているのは理解しているようです。

 宿の人がもう一人やってきて、濡れた手拭いをエドワードに差し出しました。エドワードはお礼を言って手拭いを受け取りました。

「レイちゃん」

「?……つめたっ」

 手拭いをたんこぶに当てられた怜は悲鳴に近い声を出しました。

「んん? んー?」

 魔法使いが何かに気付いたようです。

「拳を作ってそのままでいて」

 と言いつつ自身の手を閉じたり開いたりするのを怜に見せました。すると怜は魔法使いと同じ動きをしました。

「やっぱりそうだ。この子、イリム語通じてない」

「……へ?」

 エドワードは魔法使いの言ったことを理解するまでに時間がかかりました。なぜなら怜は神によってイリム語を覚えさせられたはずで、神のしたことであるそれが階段から落ちた衝撃で機能不全に陥るなどというのはエドワードには考えられないことだからです。

「頭ぶって言葉飛んだってのは聞いたことないけど、身振り手振りでの指示には従うのに、言われたことだと理解できてなさそうだし質問に答えない、ってのは言葉がわからないからだと思う」

「……言われてみれば……」

 怜は先程からイリム語を話していません。

 イリム語が駄目ならアルスリア語でとジークが話しかけてみました。怜に通じた様子はなく、彼女は困り切った顔をしてぽつりと何か言いました。その声は弱々しく、かなり自信がなさそうでした。おそらく「何を言っているかわからない」という感じのことを言ったのでしょうが、それを言うだけにしては慎重にしているようにも見えたので、今のはもしや英語ではないかとジークは思いました。

 これは大変です。怜がまともに話せるのは日本語だけとなってしまったのですから。

「……じゃあ、もしかして……」

 エドワードは怜に自分で手拭いを持たせると、空中に一本の線を描きました。

「へっ?」

 線を見た怜はぽかんとしました。ちなみに魔法使いが「わ、すごい」と呟きました。

 エドワードは空中の線を増やしていきます。

「は……え、え、え……!?」

 怜が驚いた様子を見せてばかりなのでエドワードとジークはさらに暗い気持ちになりました。魔法のことまで忘れてしまっていると悟ったのです。魔法を忘れているということは、ここにいる理由もわからないでしょう。

 ジークがエドワードの横に来てささやきました。

「どうする。今のレイはきっと魔法で治療できるなんて思ってない」

「でもお医者さんに見せても頭ぶったなら結局魔法だよな……。魔法陣から何か出るの見たら、あ、待てよ、教会行くのが正解か?」

「神様は何も言ってきてない。把握してないとは思えないから神様的には大したことじゃないんだと思う」

「後回しでいいか、人間が対処できることってわけか。じゃあやっぱりこの人に頼もう。魔法を理解させるのは、魔法陣見せるだけでもいけそうじゃないか?」

「呪文聞いた途端に魔法への期待より謎の現象への疑問の方が強くならないか」

「……なりそう……。まあ、だめだったらその時はその時で」

 エドワードは改めて魔法使いに魔法での治療を依頼しました。そして魔法使いからどのように治療するかを聞き、それを怜に伝えるために空中に絵を描きました。

 まず描いたのは階段から落ちる棒人間の図で、それに棒人間を指し示す矢印を足し、そのすぐそばに「レイ」と書きました。怜に教わったとおりに。

「わたし、かいだんからおちたんですか」

(レイちゃん……)

 わかってはいましたが、実際に落ち着いた状態ではっきりと日本語で話されるのはエドワードにはショックなことでした。

「ごめんね、僕は君が何を言ってるかわからないんだ」

 それでも確認のための質問だと思ったエドワードは絵である程度は伝わったと考え、二つめの図を書くことにしました。

 階段の図の隣に、ベッドとそれに寝る棒人間を描き、棒人間にまた怜の名前を添えました。そしてベッドのそばに「bed」と書きます。字の並んだ形が横から見たベッドっぽいので覚えた英単語です。

 エドワードの言いたいことが伝わったらしく怜が鞄を掴んで立ち上がろうとしました。エドワードはそれを留めると、鞄をジークに預けさせ、それから怜を背負いました。そして慎重に階段を上ります。

 二階の廊下を進む時、エドワードの後ろを行くジークは怜が天井を見ていることに気付きました。この宿は照明に道具を使わない魔法を採用しています。天井に魔法陣が彫られており、魔力の強い従業員が定期的に溝に沿って指を動かし金色の魔法陣を描いて呪文を唱え、明かりを灯します。魔法陣のすぐ下に光の球が現れるタイプで、球が放つ光で魔法陣はあまり見えません。怜は天井で何が光っているのかわからないのだとジークは察しました。



 怜が利用している部屋の前に到着するとエドワードは怜を下ろし、

「鍵はレイちゃんが持ってるよ」

 と言って彼女の衣服のポケットを軽く叩きました。

 怜はポケットを探り、取り出した鍵と部屋の戸に付いているプレートを交互に見ました。

「おなじ……?」

 エドワードが期待したとおり怜が自分で鍵を開けました。

 この宿は各部屋でも魔法の照明を利用することができます。ただし客にまあまあの強さの魔力が必要で、ジークは自力では使えません。廊下とは違い、魔法陣の溝は壁にあります。

 怜の部屋には小さな明かりが灯っていました。しかし壁の魔法陣を利用したものではありません。怜が部屋を出る際に力業で空中に作ったものです。

「これはこの子? あなた?」

 魔法使いが明かりは誰が作ったのかをエドワードに尋ねました。

「この子です」

「そう。普段はさぞ頼れる子でしょう」

「はい、とても」

 壁の魔法陣を魔法使いが指でなぞり、呪文を唱えます。その様子を見つめる怜をエドワードたちは観察しました。怜は魔法陣を不思議そうに、興味深そうに、そして目を輝かせて見ていました。呪文については「つける」の一言だけの短いものなのでそれが日本語だとは思わなかったようでした。

 部屋がしっかり明るくなると、魔法使いの指示で怜が室内に一つだけある椅子に座りました。怜は神妙な顔をして服の裾を握っており、不思議な明かりへの好奇心よりも自分の置かれた状況への不安が勝っている様子です。そんな彼女の後ろで魔法使いが魔法陣を描き始めました。魔法使いは荷物から本を取り出してありますが何も見なくても描けるようです。

「描くのに時間かかるから楽にしててね」

 魔法使いの言い方が優しかったからか怜の表情が少し和らぎました。

 治療の魔法は魔法陣を描くのが大変なものです。小さな切り傷の血を止めるだけの魔法でも大体は複雑ですし、比較的簡単とされるものは単純な図形を大量に組み合わせるので、いずれにせよ線を多く引かなければなりません。

 さて、怜を治療する魔法はというと、ニールグ王国のものと同じで魔法陣が組み合わさった形の大きな魔法陣を用いるようです。魔法陣が一つ出来上がったかと思ったらそれに少し重なるようにしてまた複雑な模様が描かれていきます。

 大きな魔法陣を構成する金色の線が怜の前方に達すると、怜は魔法陣をじーっと見つめ始めました。

「魔法陣に興味津々って感じだね」

 そう言った魔法使いにエドワードは頷きました。

「魔法が大好きなんです。それなのに今は自分が魔法使いだってこと忘れてしまって、きっとそんなこと思いつきもしなくて……」

 一階で移動しようと伝えた時、怜は鞄には手を伸ばしましたが杖のことは自分の持ち物とは思っていない様子でした。

「魔法使いだってことはわかりそうなものだけど」

「この子、魔法の実在を忘れてます」

「え? あっ、一階でのあの反応はそういう?」

「僕らと知り合ったのと魔法を実際に使う人を初めて見たのが同時期なので、僕らのことがわからないなら魔法のこともわからないはずです」

「そう……。あの魔力の強さなら空中に絵を描くことがなかったとはあまり思えないけど……まあ言葉飛んじゃってるならお絵描き体験も飛ぶか」

 魔法使いは怜の頭を魔法陣で囲むと、本と自分の描いたものを見比べ「よし」と呟きました。魔法陣が完成したようです。

「目を瞑って」

 怜の目に手をかざすことで魔法使いはどうしてほしいかを伝えました。目を閉じた怜は不思議な光景を見ることができないのでちょっと残念そうです。

 魔法使いが怜の後ろで呪文を唱え始めると、

「え?」

 怜は驚いて頭を動かしました。

「動いちゃだめだよ」

 呪文を唱え中の魔法使いの代わりにエドワードが怜の顔に手を当てて前を向かせました。怜はおとなしく従うものの困惑しているのが顔によく出ています。

 魔法使いが呪文を唱え終えると魔法陣が輝き、怜の頭を照らしました。エドワードもジークも眩しくて目を閉じました。

「あれ。あれー?」

 魔法使いの戸惑う声が聞こえてエドワードたちは目を少し開けました。魔法陣自体の光は弱まっており、魔法陣が産み出す光の粒が怜の頭に降り注いでいるのですが光の粒は頭に触れるなり大半が消滅します。ニールグの治療魔法がろくに効いていない時に見られる光景とよく似ています。

「魔法、ほぼ無効化されてる。なんか急に警戒された気がするんだけど」

「急に知ってる言葉が聞こえたせいだと思います」

「? 魔法の治療を受けた経験がある?」

「この子は会話ができるくらい魔法語を理解してるんですけど」

「はい?」

「魔法のことが飛んだ今、この子にはただの言語の一つで、話せる唯一の言語です」

「そんな、どうなってるの、この子」

「なにぶん特殊な子で……」

 ジークを指し示しつつエドワードがそう言うと、魔法使いは追及をやめました。

 怜のことを普通でないと説明する時、赤毛の人と行動を共にしているという事実が役に立ちます。それを伝えられた人は、怜がなんだかふわふわしているように見えることも相まって自分には理解しきれない神秘的な物事が関与していると考えるのです。

 魔法使いが魔法を中断させました。怜は目を開けると何か言いたそうにしていましたが、エドワードたちが真剣な顔で話し合っているからか静かにしていることにしたようです。

「じゃあどうしたものかな……私じゃなくてお医者さんの方が治療ってわかっていいかな」

「魔法を使うならいかにも魔法使いの方が、いや魔術師なのがいいと思うんです。この子にとって魔法は魔術と同じものです。医者が呪文唱える方がこの子にとっては信用ならないことです。だからあなたに治療をお願いしたんです」

「そうなの。ならどうするか」

「魔法で何か出すのを見せてあげてくれませんか? 手品では出せそうにないものがいいと思います」

「となると……」

 魔法使いは少し考えた後、怜の正面で何らかの魔法陣を描き始めました。

 怜はやっぱり空中に描かれる絵がとても不思議なようで、彼女の目は魔法使いの指の動きを熱心に追っています。

 魔法陣が完成すると魔法使いは杖を掲げて魔術師感を出す演出しました。そして呪文を唱えます。

 怜は再び日本語を発する魔法使いを怪しむ顔をしましたが、魔法陣が強く輝き出すとそれに注目し、

「ほわあっ」

 何事かに驚き、そしてちょっぴり気持ち良さそうにしました。髪の毛が少し動いているので魔法陣から風が出ているようです。

「何してるんですか?」

「あったかい風浴びせてる」

 エドワードは怜の真横に立ってみました。

「おお……」

 布団の中のような心地よい温かさにエドワードが感心しているとジークも移動して温風を体験しました。

「これでわかってくれたかな」

「さっきよりは、たぶん」

 と、魔法使いとエドワードが話している横で、ジークが怜の肩をぽんと叩き、自分に意識を向かせました。そして魔法使いを指差し、

「まほうつかい」

 と日本語を喋りました。

「そんなかんじですけど……」

 怜が何を言ったかわかりませんが、別に会話をしようとしているわけではないのでジークは構わず次に移ります。エドワードを指差して怜が彼を見るようにしました。

 そしてジークはエドワードの真横に立ち、「借りる」と言ってエドワードの剣を少し抜きました。

「ジーク?」

 エドワードは戸惑いましたがジークを信じて動かないでいることにしました。

 怜は最初、何を見せられているかわかっていない顔をしていましたが、ジークがエドワードの靴やら服やらを指差してエドワード全体を見るよう誘導していくと何か気付いた様子で、エドワードだけでなく周囲や自分が着ているものにも目を向けました。そしてジークが見せている物体が何であるかを理解したようでした。

「……」

 怜が剣を見つめます。それがどういう行動かジークにはわかります。そこで剣をさらに抜いて「本物」とイリム語で言いました。

 言葉はわからなくてもジークの伝えたいことを理解したのでしょう、怜は手を握り込みました。これは、剣は本当に切れるものだと判断して少し怖がっているという反応です。

 エドワードもまたジークが何をしたいのか理解しました。怜に魔法を魔法だと理解させるだけでなく、ここは魔法のある世界だと教えようとしているのです。

「……うそぉ……えー? ええぇ……そんなことってある?」

 頭を抱えて混乱中な怜を見てうまくいったと思ったジークは剣を元に戻しました。

「もしかして僕と会う前も魔法なかなか信じなかった?」

「そんなようには見えなかった。いきなり何か出す魔法じゃなくて先にいろいろ不思議があったから受け入れやすかったんじゃないか」

 エドワードは怜から聞いた話を思い出しました。

 起きたら海、変な服の人、ペガサス、昔の異国のような街並み、神様と神様に覚えさせられた言葉。

「あー……。そっか。最初にここがどこかってことを伝えるべきだったんだ」

 見ただけで神であるとわかる存在が現れるという経験がないと結局苦労したかもしれませんが。

「なんか理解して衝撃受けてるところ?」

 魔法使いの質問にエドワードは頷きました。

「次は戸惑ってても受け入れると思います」

「じゃあやろうか」

 再び治療魔法が用意されると、指示されるまでもなく怜は目を閉じました。

 魔法陣が強く輝き、光の粒が放出され始めました。光の粒は今度は怜の頭に降り積もっていきます。

「う、あ」

 何らかの気になる感覚があったのか頭を触ろうとした怜の腕を魔法使いが押さえました。

「触るの我慢ね」

 我慢をするべきとわかったようで怜は腕を下げて膝の上で手を握りました。

 しばらくして魔法陣とそれから出た光が消えました。エドワードが怜の頭を見てみるとたんこぶが小さくなっていました。

「はい、終わり。どうかな?」

「レイちゃん」

 エドワードが名前を呼ぶと怜が恐る恐るといったように目を開けました。

「具合はどう?」

 怜はそっと頭に手をやって状態を確認すると、大変驚いた顔で魔法使いを見ました。

「ほんもの……!」

「もっといけると思ったんだけどごめんね。あなたすごく魔法に強いんだね」

「――」

 怜が真剣な顔で何かを言いました。姿勢を良くして頭を下げる動作とセットだったので会ったばかりの魔法使いにも発言内容が推測可能でした。

「どういたしまして」

 残念ながら怜の記憶はどこかに行ったままのようですが負傷した箇所は良くなっているので治療は成功ということになりました。

「今夜は十分休んで、明日になっても変だったらお医者さんとこ行くのがいいと思う」

「はい。どうもありがとうございました」

 エドワードとジークは魔法使いに謝礼を渡しました。怜が面倒な怪我人だったので多めに。

 お大事にと言い残して部屋を出る魔法使いを怜はじっと見つめていました。


◇◆

「さて。もう少し状況を理解したいよね」

 怜はエドワードに手を引かれてベッドに移りました。そして膝の上に愛用の鞄を置かれました。

「中を見てごらん」

 エドワードの考えが伝わって怜は鞄を開けました。

 まず魔法の教科書を取り出し、自分の鞄に入っていたのに題名が全く読めず首を傾げました。一冊開いて中を見て、

「魔導書?」

 と日本語で呟きました。惜しい。

 次に見たのは文庫本です。普通に日本語なので怜はちょっぴり安心しました。

 紙の束は、初めは完全に謎の書類でしたが、端に日本語でメモが書かれており、しかも見覚えのありすぎる筆跡でした。

「……」

 それがどういうことを示しているのか深く考える前に、判断材料は多い方が良いということで次々と鞄から物を出していきました。

 懐中電灯、財布、携帯電話、折り畳み傘、薬、絆創膏、ぬいぐるみ、高い物には見えないのに箱に入った黒のボールペン、インクが無いに等しい赤のボールペン、電卓、テレビのリモコン、ビデオテープ。

「何でこんなもの……」

 何故持っているのかわからない物の中で特に困惑したのがリモコンでした。

 鞄の中身を確認した怜は自分の持ち物として心当たりがあるものは鞄に戻し、そして情報の塊であろう物を手に取りました。携帯電話です。側面を見てボタンの存在に気付きました。ボタンをポチっと押して開き、電源を入れてみて、暗証番号の入力を求められて諦めました。

 携帯電話の次には腕時計を見ました。女性向けのデザイン、有名ブランドのロゴ、自分の腕にぴったりのベルト。腕から外して裏も見ました。日本製だとわかって、年上のいとこから聞いた「中だけ日本製ならちょっと安い」を思い出し、中も外も日本製であるらしいこれは子供が気軽に買ってつけるような安物ではないと判断しました。

 携帯電話と腕時計。自分の鞄から出てきたものと自分の腕にはまっていたもの。でも自分には高額なもの。それと自分が書いたらしい書類。

 怜は自分の状況を大体理解しました。

「まじか……まじかー……」

 そしてエドワードとジークも怜がどのような状態にあるのかより正確に理解しました。二人は怜に腕時計の話を聞いています。怜の腕時計は高校の入学祝いに祖父母が買ってくれたものですから、腕時計をこれは何だとでも言わんばかりの目で見るということはつまり、少なくとも腕時計を贈られて以降の記憶が無いというわけです。

「ジーク、アラビア数字とかいうの覚えてるか?」

「かん数字の方がまだわかる」

「かんじの方、何書ける?」

「一、二、三、十」

「僕が覚えてるのと合わせてもだめだ……」

 筆談で本人が認識している年齢を聞く作戦はだめそうです。

「あと何かできることあるかな」

 ジークはいろいろ考えましたが、

「もう休ませる」

 と答えました。

「寝られるかな」

「頭を打って困ったことになったのは理解してるから安静にしようとすると思う」

「ああ、そうかも。じゃあ寝かせよう」

 そう決まったので、

「ねろ」

 ジークが以前聞いた呪文を言ってみると、怜はこくんと頷き、布団に入りました。すんなり指示に従った彼女にエドワードはそっと「おやすみ」と日本語で言いました。

「おやすみなさい」

 エドワードに返事をして怜は目を閉じました。

 自分が遠い所にいる理由がわからず、医者でもない知らない男二人がいてはなかなか寝られないかと心配されましたが、怜はあっさりと寝ました。

 しばし観察してみて、何の問題も無いようなのでエドワードとジークも就寝することにしました。しかしやはり一人にするのは心配だったのでエドワードは怜の部屋に留まり、床で寝ました。

◇◆


 朝になっても怜は相変わらずいろいろと忘れたままでした。

 エドワードとジークは朝食の前に怜を教会に連れていくことにしました。部屋を出る際、怜に杖を持たせたところ「おちつく」と呟いていました。

 宿から教会まで歩く間、怜は街並みを珍しそうに見ていました。旅に出てすぐの頃のようにあちこち気になるようでした。

 教会では並んだ長椅子に座った信者たちが神に祈りを捧げていました。エドワードたちは怜を一番後ろの椅子に座らせました。

 すると何かが起きたような気がしました。

 知らないうちに怜が頭に両手を当てています。

「レイちゃん?」

 エドワードが声をかけると怜は頭から手を離してエドワードとジークを見ました。

「ご迷惑おかけしました……」

 イリム語で喋り、しゅんと沈んでいる怜の肩にエドワードは手を置きました。

「良かった……」

 エドワードもジークも安堵しました。

「神様、来た?」

「たぶん後ろに……。頭がっちり掴まれて、びっくりして、振り向こうと思ったんですけど、『じっとする』って言われて、おとなしくしたらいろいろ思い出したんです」

 エドワードたちが小さな小さな声で話していると、

「少しよろしいですか」

 声をかけてきた人がいました。エドワードが振り返ってみれば、そこにいたのはつい先程まで信者たちの前で祈りの言葉を唱えていた神父でした。

「今ここでとても素晴らしいことが起きたように思えるのですが」

(聖職者だからか目ざといな……)

 と思いつつエドワードは「ええ、まあ……」と言いながら愛想笑いをしてこの場から速やかに離れることに決め、怜の手を握って立たせました。他の宗教の聖職者にはあまり近付きたくないので。

「お邪魔しましたー」

 教会を出るとエドワードは怜に尋ねました。

「レイちゃんは自分をどう認識してたんだい?」

「十五歳で中学三年生でした。高校入試に合格したばっかりって感じでした」

「そっか。思ってるのと実際の歳がもう少し離れてたらすぐ気付けたかな? 体の大きさが明らかに違えば、レイちゃんなら」

「そうですね……目が覚めたら未来にいた、って話を中学で借りた本で読んだと思うので、認識が十三だったらもしかしてってわかったかもしれません」

 帰り道、怜が元に戻ったことが嬉しいエドワードは怜にあれやこれやと質問してたくさん喋らせました。



 宿屋の食堂に入った三人は昨夜の魔法使いと会いました。彼女は食事中でした。

「体調はどう?」

「神秘的に治してもらってきたところです」

「神秘?」

「ね、レイちゃん」

 怜はエドワードに頷いた後、

「昨日はありがとうございました」

 魔法使いにイリム語で感謝を述べて深々と頭を下げました。

「おお……戻ったんだ。良かった。どういたしまして」

 魔法使いはにこりと笑い、怜だけでなくエドワードとジークにも「良かったね」を言い、それから相席を提案しました。

 配膳口で食事を受け取ってきた三人が席に着くと、魔法使いがさっそく怜に質問しました。

「ねえ、あなた、魔法語喋れるってほんとなの?」

「はい」

「じゃあ昨日私が風浴びせた時に何されるかわかってた?」

「風を当てられるってことはわかりましたけど、あったかいのはわかりませんでした」

「あれって何て言ってるの?」

「風を送るって言ってます」

 魔法使いと話せて嬉しくて声が明るめになっている怜を、エドワードはにこにこと、ジークはいつもの無表情で見守ります。

「じゃあ、あなたの治療に使った魔法は?」

「治す力を強めろって言ってます。この国の他のと違って指示する言い方で……」

 魔法陣も雰囲気が違う気がするし別の国の魔法を元に作ったのではと怜は思いましたが推測を述べるのはやめておくことにしました。魔法は各国にとって大事なもので、秘密かもしれないことについてこのような場所で語ることは良くないと思ったからです。

「興味深いです」

「へえ。あ、もしかして、それで十分な力あるのに治療の魔法はなんかうまくいかないって人が多いのかなあ……。他の国の魔法はどんなこと言ってるのか知ってる?」

「『これはこういうものだ』みたいなこと言ってるのがあります」

「じゃあ、じゃあ、【とばす】って何?」

「飛ばす、です」

 魔法使いが呪文の意味を尋ねて怜が答えるということを繰り返して、魔法使いは怜が魔法を知っているのではなく魔法語を理解していることを信じました。そして昨夜は考えるのを放棄した疑問を怜に直接ぶつけました。

「何で魔法語話せるの?」

「それは……私は、局所銀河群にある天の川銀河の太陽系の地球って所に住んでるんですけど、地球には魔法使う人はいなくて日本語は普通に言語の一つで、何でと言われてもそこで生まれ育ったからとしか……」

 怜は名詞は全て日本語で言いました。

「……どこの何?」

「実は自分でもどうしたら帰れるのかわからない所から来たんです」

 怜はごまかしつつも恩人にして尊敬すべき優秀な魔法使いにできるだけ本当のことを話します。

「ここの人にとって私が何かは私にもわかりません。もしかすると私の故郷は違う星かもしれません。知ってる星座がなくて、月の模様が違うので」

「……? 模様が違うって、何に見えるかが違うんじゃなくて模様そのものが?」

「はい。月の自転周期と公転周期は同じなので月はいつも私たちに同じ面を向けています。だから違う模様だということは月に何か異変が起きたか私が違う方向から月を見るという大移動をしてしまったかここで月と呼ばれるものが私が見上げてきた月と違う天体であると考えられます」

 怜は魔法の話をする時のように滑らかに、しかし魔法の時とは違ってテンションは別に高くない状態で喋ります。「あっちに進むのもいいな」と思っている学問(宇宙とか生物とか)の話をする時はこうです。

「一番信じられないけど一番可能性が高そうなのが違う天体であることです。さっきも言いましたけど知ってる星座が見つかりません。全然違う位置から宇宙を見ているとしか思えません」

「……えっと……あなた天文学の知識があるんだね?」

「そう言える程じゃないです。学校で習った分と趣味でちょっと星の図鑑を読んだ程度です」

「その学校が結構なものなんじゃない?」

 魔法使いの推測を怜は否定しますが、

「そうなんですよ」

 とエドワードが言いました。頑張ってごまかそうとしている怜を手伝うための発言です。

「レイちゃんの故郷の人は望遠鏡の性能をこれでもかと上げてて、それで星を見て研究してるらしいんです。そういう所の人なので、レイちゃんは流れ星が何かってこととか、夜空の川が川みたいな理由とか、兎の毛の雲が何かとか、突然大きくなったり現れたりした星が何でそうなったかとかを知ってるんです」

 兎の毛の雲というのは、この世界の兎の形をした星座にある雲の切れ端のような天体のことです。だから正確には怜は、類似のものを写真でしか見たことがないということもあり、「たぶんこういうもの」と推測を伝えたのですが、エドワードにとっては真実を教えられたようなものでした。

「やっぱり、私たちから見たら進んでるんだ」

「天体のこと以外にもレイちゃんの故郷はいろいろすごくて、だから、レイちゃんの言ってることが僕らにはわからないことがよくあります。レイちゃんでもわからないなら僕らは諦めるしかないんです」

 エドワードは「な、ジーク」と言って同意を求めつつジークの頭をぽんぽん触りました。いつもならエドワードのこの行動を嫌がるジークですが今回は赤毛に意識を向けさせるためとわかっているのでじっとしていました。

 魔法使いはエドワードの誘導にはまって怜の知識の出どころについて考えることを諦めました。



 食事を終え、食堂を出たところでエドワードたちは呼び止められました。彼らが振り返ると、階段で怜を巻き込んだ人とその仲間たちがいました。

「昨夜は悪かったな」

 事故を起こした本人が謝罪すると、

「いいです」

 怜はあっさり許し……

「でも【今後一ヶ月お酒飲むな】」

 許したと見せかけて魔法をかけました。謝罪の言い方が軽いように感じ、「この人は酔っていたし落ちてもいるのだから階段でのことをあまり憶えていなくて危険な行動をしたという意識が薄そう……」と考えたからです。効果を持続させられるかはさておきしばし恨みに思うことにしたのでした。

「え、何だ?」

 相手は怜に何かされたことはわかりましたが何をされたかはわかりませんでした。

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