大パンデミック前夜
2043年11月17日(火)
茨城県土浦市
陽の沈む時間が早まり、灯りの届かない場所はすでに薄暗かった。
空気は、外気に晒された手や顔を刺すように冷たく、例え教室の中と言えども、窓側の席は肌寒かった。廊下や外はさぞかし冷たかろう。
それでも、平和な環境で育った生徒たちの大半は、退屈な授業から解放されるとあって、表情が明るかった。
「それじゃ、今日のホームルームは終わり。最近、学校周辺で不審者が目撃されてるから、帰り道に気をつけて帰れよ」
「「は〜い」」
担任の先生が教室から出ると、クラスは友達とお喋りする人や部活に速攻で行く人で騒がしくなった。
その光景を、一人の男子生徒は頬杖をつきながら眺めていた。
「拓也ぁ〜。なにぼーっとしてんだよ」
と、背後から話しかけられた小宮拓也は、振り返りもしないで答えた。
「ん、ちょっと考え事」
拓也が素っ気なく返すと、クラスメイトで親友の菅原知樹が隣の席から椅子を頂戴して、ニヤニヤしながら言った。
「雪ちゃんのことでも考えてんのか?」
「バーカ、他のことだよ」
と拓也は背筋を伸ばしながら答えた。
拓也と知樹は、同性異性問わず人気な、クラスのマドンナ廣瀬雪を見た。
雪が拓也たちの視線を感じたのか、長く滑らかな髪を揺らして拓也たちの方を向いた。
拓也と知樹は、慌てて視線を戻し会話を続けた。
「いつ見ても、めっちゃ可愛いな。たまには雪ちゃんを妄想しろよ、根暗」
「お前がしろよ、小童」
「言われなくとも。今日暇か?俺ん家でゲームしようぜ」
「悪ぃ、美由紀が待ってるからまた今度」
「だったら一緒に帰ろうぜ」
「ああ」
拓也がそう答え、やっと帰りの仕度をし始めると
「拓兄ぃ〜! 早く帰ろうよぉ〜!」
と怒鳴る、一人の女子小学生が中学部の教室に入ってきた。ここは小中一貫校なので、中学部の教室に小学生が来る光景はあまり珍しい光景ではなかった。
「ボリューム下げろ、アホ」
少女はほっぺを膨らまし、そっぽ向いた。
「私を待たせるからだよ! 根暗め!」
「飴ちゃんあげるから大人しくしろって」
拓也は、カバンから飴をいくつか取り出して、妹の美由紀にあげた。
「わぁーい、飴ちゃんだぁー。大人しくするねぇー……って言うと思ってるの、ピーマン嫌いの根暗君?」
そう言って、飴を頬張りながら機嫌を良くする美由紀を余所目に、拓也は、ヘリの爆音で聞こえなかったフリをしながら、帰りの仕度を整え、教室を出た。
長い下り坂に細い歩道を歩く三人。すぐ横の自動車道を走る車が次々と走り去る中、拓也は、知樹と美由紀が楽しく喋ってる後ろで、下を向きながら考えふけってると、前から唐突に絡まれた。
「拓也ぁ、いくら家族だからって、妹のケツをジロジロ見るのはどうかと思うぜぇ…?」
「拓兄の変態っ!」
目線を上げた拓也は、ニヤニヤしながらこっちを見る二人が見えた。
「俺をイカれ変態にすんな、ボケ」
と拓也は冗談ぽく半ギレで答えた。
「親父さんになんかあったのか?」
真面目な表情の知樹が急にそう言い、拓也が美由紀の方に目線をずらすと、美由紀も真面目な眼差しに変わっていた。
拓也は知樹の野生動物並みの勘に敬服し、ため息をつき、口を開いた。
「3日前に父さんの部隊が行方不明になったんだよ」
ーーー2日前ーーー
「え? どうゆうことなんですか?!」
気を取り乱した拓也は、カラオケボックスに付いているマイクを床に落とし、身を乗り出して言った。
「落ち着け、拓也君。言った通りだよ。君のお父さんがいる部隊から、調査地に入って任務を始めると連絡がきたんだが、それを最後に途絶えたんだよ」
と、拓也の父元治と同期で、去年まで同じ部隊に配属されていた根本弘樹が、拓也をなだめるように言った。
同期の息子拓也とは、昔からの知り合いで、同期の元治に隠れてちょっとした機密も話す付き合いだったが、拓也がこんなにも気を取り乱す姿を見たことがなかった。
拓也は我に返り、呼吸を整えながらイスに座って、再び聞いた。
「おかくないですか? 新型感染症かどうかを調査するための部隊で、どこの国とも戦争してないのに、連絡が途絶えるってことありえるんですか?」
「正直、俺も驚きを隠せないでいる。だが実際、お父さんの部隊がそうなっている。空自と陸自が必死になって探しているんだ。ただ、装備品や車両こそ発見されたが、未だ誰一人も発見されていない。現場の状況からして、争た形跡があり、多数の血痕が残されているが、現場のすぐ外には一切血痕が残されていない」
それを聞いて、拓也は体から魂が抜けるような感覚に襲われ、口が重くなった。
「血痕から採取したDNAから君のお父さんのDNAが検出されなかったから、まだ希望はある。気を落とすな」
少し気が楽になったが、まだ気が重かったので、拓也の口が開くまで時間がかかった。
「誰の犯行なのかわかりませんか?」
「自衛隊も警察も、人間の犯行だと思ってないようだ」
「え? 事故なんですか?」
「まだわからない、と言った方が正確だね。それに血痕から極少量ながら謎のDNAが検出されたんで、新種のレイビズXウイルスなのかどうか調べた。そしたら、一部の塩基配列が一致したものの、大部分が違ってた。いや、複数の動物のDNAが混ざってると言った方がしっくりくる」
「え?」
拓也は、思考がショートしたかのように戸惑った。弘樹は戸惑う拓也を見て、DNAの挿入を理解していない、と勘違いした。
「生物のDNAの挿入で、知ってることは?」
「え? えっと、普通DNAの挿入が起こるのは、ウイルスか転写翻訳のミスか人為的の場合しかないけど、複数のDNAが混ざることがあるなんて聞いたことないですよ」
「そうなんだよ。君の言う通り、俺も他種同士で、複数種類のDNAが混ざるなんて、聞いたこともないんだが、そう思わざるを得ない代物だったんだ。ああ、これ以上は国家機密に指定されてて、言えないんだ。すまないね」
「さっきまで言ってたことも機密ですよね」
拓也は、呆れたように目を細めながら言い放った。
目を丸くした弘樹は、こりゃぁ一本取られたと笑いながら言った。
「だね。だから、あまりこのことは他人に言ってくれるなよ?」
「はいはい、今日僕は弘樹さんから何も聞いておりませんっ」
「ははは、ありがとうね。それじゃ、お父さんについて何か掴んだら、連絡するよ」
そこで、丁度時間になったので、弘樹と拓也は一緒に店を出た。
「なるほどねぇ。それで、それ以降、連絡はきたの?」
拓也は黙って、顔を横に振った。
「なら、自衛隊の部隊が行方不明になって3日も経ってるのに、どうしてニュースにされてないんだ?」
と言って頭の後ろをかく知樹を見て、拓也は極当たり前なことに気づかなかった自分を少し恥じた。
美由紀が拓也の袖を引っ張り、電話が鳴ってる
と伝えた。
話に夢中になっていた拓也は、慌ててポケットからスマホを取り出した。
「母さんからだ。もしも〜し、何か買ってきてほしいの?」
『今、美由紀と一緒にいるの?』
拓也は、何か慌てる拓也の母凛花の声を聞き、不吉な予感を感じながら答えた。
「うん、今ここにいるよ。あと、知樹もいる」
『なら良かった。すぐに、お家に帰ってきなさい。急いで!』
そこで電話が切れ、知樹と美由紀にすぐに家に向かわないといけないことを伝えた。
拓也たちは、地平線に沈む紅い夕日を背に急いで家に向かった。
張り詰めた空気の中、TVキャスターの声だけが部屋中に響き渡った。
『え〜。現在福島県相馬市近郊からヘリで中継が繋がってます。川島さん?』
画面が中継に変わり、ヘリに乗っている男性アナウンサーが切迫した声で眼下の光景を伝えた。
『は、はい! ご、ご覧ください! たった今、陸上自衛隊がレイビズの大群と衝突し、激しい戦闘が繰り広げられてます!』
ミニチュアサイズに映る4両の戦車が、ほとんど沈んだ夕日の茜色で赤く輝く、砲火を同時に上げた。
赤い目をした犬と馬っぽい動物の群れに、砲弾が炸裂し、木っ端微塵に吹き飛ばした。
急にカメラがズームアウトし、戦闘が繰り広げられている場所から程遠いところを映し出した。
画面を埋め尽くす無数の赤い点。そして、大量の赤い点の中央がクローズアップされると、一際大きな黒い物体が映った。
すると、まるでカメラに気づいたかのように、黒い物体が向きを変えて、他の点よりもずっと大きい赤い目が露わになった。レビスだ、それも今までに確認されていない大きさの。
(遠すぎて、はっきりと見えないけど、まるで、アリクイの口が付いた四つ這いのゴジラみたいだ)
画面に釘付けされた拓也が、そう思った。
再び画面が切り替わって、総理の記者会見でお馴染みの場所が映し出された。
一人の男性が画面の横から現れた。
『国民の皆さん、こんにちは。第109代目総理大臣の渡哲也です。ご周知の通り、現在日本はレイビズに上陸され、感染が拡大しつつあります。ですが、ご安心ください。自衛隊が、全力で皆さんの生命と安全をお守りします。何卒、慌てーー』
急に画面が暗くなり、拓也はびっくりして、後ろを振り返ると、真っ青になった顔をした母がリモコンを右手に持っていた。
顔を真っ青になるのも無理もない。
4ヶ月前、インドでレイビズXウイルスが発見された。ただの狂犬病の新型としか思われていなかったXウイルスは次々と感染者をレビスに変え、人々を襲わせた。レビスの襲撃が世界中に報道され、人々に恐怖を植えつけた。
しかし、大半の人たちはどこか他人事のように思い、まだ自分の国は大丈夫だと思っていた。レイビズの感染力は人々の予想をはるかに超えていることに気づかずに。
「知樹君、早く家族の元に帰りなさい。お父さんとお母さんが心配してますよ」
母はどこか生気を失ったような声で知樹に言った。
「そうさせてもらいます。おばさん、拓也、美由紀ちゃん、元気でね」
いつも、ニタニタして明るかった知樹は、完全にその面影をなくし、悲しげな声でそう言って、拓也の家を出た。
冷たい外気の中、拓也は、美由紀が震えながら袖をギュッと握ってくるのを感じながら、暗闇の中に消える親友の後ろ姿を見つめた。