#9 冬空に想いを(『EveningSunlight』より)
凍てついた空気が、肌に刺さって痛い。風が吹き寄せてくればなおさらだ。
びゅんびゅんと走り去る車が起こしていく風を浴びながら、藤井芙美と蒲田秀昭は暗い歩道をとぼとぼと歩いていた。
時刻は午後十時。目的地──立川駅前のビル群の窓明かりが、彼方の空にぼうと浮かんでいる。
「まだ、遠そうだね……」
芙美はマフラーを結び直しながら、やれやれ、と嘆息した。スマホの地図に目を落とした秀昭が、笑いながら何気なく答える。
「あと一キロ半くらいだってよ。言うて歩けるだろ!」
「歩いて駅まで向かう羽目になったのが蒲田くんのせいだってこと、忘れてないよね?」
すぐさま芙美は反論した。運動部経験者の秀昭は構わないのかもしれないが、芙美はそうではないのだ。一緒にしないでほしい。
「ごめん」
しょんぼりと秀昭が謝った。その様子が不意に可笑しく感じて、芙美は全力を挙げて真顔を死守する。笑ってはダメだ。笑ったら負けだ!
遅々として進まない二人の足を嘲笑うように、頭上の高架線路をモノレールが静かに滑って、追い越していった。
朝の九時半に待ち合わせて、『芙美が秀昭を彼氏とするかどうか見極めるデート』なんていう名目のもとに二人が出掛けたのは、立川駅から二キロ北に位置する大型ショッピングモールだった。
──『多摩都市モノレールの立飛駅から直結だから、便利で通いやすいんだよねー』
──『へぇ、それじゃけっこう頻繁に来てるんだ?』
──『一ヶ月に一回は来てたなぁ。だから俺、この館内ならどこだって案内できるよ!』
自信満々な秀昭のエスコートの腕は、実際のところ、定かだった。
営業終了時刻を迎えるまでの十二時間以上、二人はショッピングモールの中を散策したり、お店でプレゼントを選んだりした。お昼は眺めのいいフードコート。ゲームセンターにも入ったし、併設の映画館で流行りの映画を観たりもした。芙美がちょっぴり泣いてしまったのは、室内が明るくなる前に必死に涙を拭き取って誤魔化した。
夢中になって遊んでいるうちに、気づけば時計は営業終了の午後十時を示していたのだった。そしてその直後、とんでもない事態が発覚する──。
(確かに私もけっこう散財しちゃったけど。帰りの電車賃まで使い込んじゃうとか、信じらんないよ……)
寒さに肩を震わせながら、芙美は隣の秀昭を見た。
真っ白な息が元気に膨れ上がるのを見ている限り、秀昭の体力はまだまだ余っていそうだ。むしろ、残存体力が危険信号を灯しているのは芙美の方である。
「あ、寒い?」
秀昭が見れば分かるようなことを尋ねてきた。芙美はちょっと、頬を膨らませた。
「だからあれだけ言ったのに。二百円くらい貸してあげるからモノレールに乗って帰ろう、って……」
そう。あろうことか、秀昭は完全に予算オーバーしていたのである。残りのお金は立川から家の最寄り駅までの運賃分しかないらしく、それで秀昭は提案したのだ。
『せっかくだから歩こう!』なんて。
「あはは、そうだよな。ぶっちゃけ俺も今、そうしたらよかったなーって思ってる」
秀昭は笑った。芙美はもう呆れ果てて言葉も出ない。もう駅からずいぶん遠ざかってしまったではないか……。
すると何を思ったのか、秀昭はコートを脱ぎ始めたではないか。
「ちょ、ちょっと、何してるの?」
そんなことをしたら秀昭だって寒いだろうに。慌てて芙美が聞くと、秀昭は即答した。「藤井、着るかなって。だって冷えてるでしょ?」
「そりゃあ寒いけど、蒲田くんに無理してもらってまで……」
いいのいいの、と秀昭はコートを芙美に押し付けてしまう。下はパーカーのようだ。ふかふかとして温かなコートを受け取ってしまった芙美は、それからしばらく、着るか着ないかの二択の狭間に迷い込んでしまった。
どうしよう。温かい。温かいということはつまり、これは秀昭の温もりなのだ。これを着るということは、つまり──。
でも、目をキラキラさせながら反応を待っている秀昭を前にして、そのまま突き返してしまうという残酷な仕打ちは芙美にはできそうにないのだった。
「……その、ありがとう」
カバンを足元に置いて羽織りながら、芙美は一応、お礼を言った。
「どういたしまして!」
やけに嬉しそうに秀昭が答えた。
どういたしましてなどと口にする資格、秀昭にはない──。でも、なんだかもう突っ込むだけの元気が出ないので、芙美は黙って秀昭のコートで暖を取ることに努めることにする。
(こういう細かい気配りができるところがあるの、ずるい)
間違っても匂いを嗅いだりしてしまわないようにマフラーで鼻までしっかり覆ってしまうと、ふんふんと鼻唄を歌いながら先を行く秀昭の後ろを、芙美も追い掛けて歩いた。
さすがはクリスマスイブと言ったところか。今日一日で、しかもあのショッピングモールの中だけで、いったい何組のカップルたちを目にしたことだろう。
一年に一度しか訪れない、赤と緑の彩る世界でお互いの愛を確かめ合う機会なのだ。去年の今頃は芙美も秀昭も受験生で、そんなこと、ちっとも考えなかったけれど。
(私たちのこと、周りからはどう見えてたんだろう)
楽しそうにはしゃぐ秀昭の背中を追いながら、芙美は何度か、立ち止まって考え込みそうになった。
ふっと我に返るたびに思い出した。今日、ここでこうして秀昭と遊び回っているのは、決して彼氏や彼女のいない孤独を遊びでまぎらわせるためなんかではないのだと。自分を彼氏に選んでくれるかどうかを見定められるようにと、秀昭がわざわざ設定してくれた機会なのだと。
でも、営業終了時刻まで居残って、こうして寒空の下を歩いている今もなお、芙美には答えが出せていないのだった。
(今日はすっごく楽しかった。それは、本当だよ。本当だけど)
考え込んでしまうと、芙美は秀昭の顔を見られなくなってしまう。なんとなく気恥ずかしかったからでもあるけれど、それは同時に後ろめたいというか、申し訳ないような気持ちに駈られたからでもあって。
(一緒にいて遊んでいたら楽しいのは、友達だって同じだもん。この気持ちが『恋』なのかどうか、私、よく分からないよ……)
ああ。早く結論を出さないと、立川駅に着いてしまったら言い出すべきことも言い出せなくなってしまう。むしろモノレールに乗れないことになって、結果的に時間の猶予が生まれたのはラッキーだったかもしれない。
そんなことを思ってしまう自分に少しばかりの嫌悪感を感じつつ、それから焦りつつ。
芙美は懸命に寒さに耐えながら、秀昭の後ろをついて歩く。
──秀昭がいきなり立ち止まった。
「わぶっ!?」
勢い余って背中に突っ込んでしまった。変な声を上げた芙美を、秀昭は振り返って眺め回す。「どうしたの?」
「ごめん。ちょっと、ぼうっとしちゃって」
えへへ、なんて芙美は照れ笑いしてみた。『実はまだ秀昭を受け入れるかどうか決められてない』なんて、何がなんでもバレないようにしなければならない。そんなことで秀昭を悲しませたくない。
そっかぁ、と秀昭も笑った。
どうしてだろう。秀昭の浮かべる表情はいつも純真で、無垢に思えて、ずっと眺めていると自分が嘘をついているような気分になる。秀昭という人と出逢ってからずいぶん経ったけれど、そのことは昔も今も何も変わらない。
思いを悟られたくなくて、芙美は逆に尋ねた。
「蒲田くんこそ突然、どうしたの?」
すると、秀昭は芙美から視線を外した。
芙美の頭の遥か上へ、上へ。そこにはモノレールの線路があるが、どちらの方向へモノレールも今しがた通過してしまったばかりだ。
(蒲田、くん?)
何を見ようとしているんだろう──。芙美も真似して、秀昭の眺める方向を見ようとした。秀昭の声がした。
「ごめん、藤井」
「えっ?」
「前に藤井に言ったじゃん? 『俺が藤井に相応しいかどうか、藤井の目で判断してよ』って。あれ、なかったことにできない?」
芙美は目を丸くした。
そんな、あんまり突然すぎる。今までそのことで悩み続けていたのに。考えたことのなかった『恋』の定義に考えを及ぼしてまで、秀昭の問いに答えようとしていたのに。
「ど、どうして、急に」
目を何度もしばたかせながら芙美は聞き返した。顔の端がほんのり、赤く染まっているような気さえした。
何かを心に決めたかのように、秀昭は芙美に視線を戻した。やっぱり、笑っていた。
「なんか、今日一日こうやって一緒に遊んでみたら、すっごく楽しくてさ。友達みたいで楽しかったんだ。うん、ほんと」
「…………」
「でも、もし俺と藤井がカップルになっちゃったら、こういう楽しみ方はできないんだろうなぁって思って。それで俺、考え直してみたんだよね。俺は藤井とどういう関係でいたいのかな、ってこと」
その結果として秀昭は芙美を彼女にする選択肢を見失った……。つまり、そういうことなのだろうか。
「今みたいに友達っぽく接してる方が、藤井も気楽でしょ? 俺もなんだか、そっちの方が楽しいかなって思っちゃって」
朗らかに秀昭は言う。傷付いている気色は、確かに感じ取れない。ということは、それが本当に秀昭の本心なのだ。
「私もすっごく、楽しかったけど……」
一応、秀昭には知っておいてほしくて、芙美は正直な感想を述べた。分かってるよと秀昭は微笑んだ。
「楽しそうにしてくれてるなー、って思ってたもん。でもさ、藤井、時々変な顔になってたでしょ?」
「変な顔?」
「悩んでそうな顔」
芙美は返す言葉を失った。バレていたのか!
「藤井を悩ませちゃうくらいなら、別に俺、そこまで無理して藤井と付き合わなくてもいいなって思うんだ。今さらこんなこと言って、ごめん」
いつの間にか秀昭の顔からは、笑みがきれいさっぱり消えてしまっていた。きっぱりと言い切った秀昭は、でも、と畳み掛ける。
「俺、藤井のことは好きだよ。話しやすいし、遊んでて楽しいし、いちいち難しいこと考えなくても関われるって言うか……。恋愛的な意味で好きっていうか、人として好きだったのかもしれない、俺。あんまり上手く区別ができないよ」
そんなの、芙美の本音と同じではないか……。拍子抜けしたような安心したような、とにかく心にぽっかりと空洞ができてしまって、その穴から芙美は深く深く、息を吐き出した。
それじゃあ、もう必要ないのだ。秀昭をどう思っているのか、それがどんな気持ちなのか、頑張って考える必要はもう、ないのだ。
(よかった、のかな。これで)
緊張から解放されたような気分に浸りながら、そう思った。その気分は秀昭には筒抜けだったんだろう。ごめんな、と秀昭が笑って頭を下げる。
「いろいろ振り回したりして」
「やめてよ。私、そんなに嫌になんて思ってなかったよ」
芙美はすぐさま否定した。悄気ている秀昭なんて、見たくなかった。
もとはと言えば今日、こうして芙美が秀昭の受容の可否を問われることになったのだって、高校受験の終わった時に答えるべきだったのに芙美が答えを用意できなかったからなのに。
「とっても楽しかったよ。今日は、ありがとね」
言っていなかったなぁと思い出して、付け加えた。
にやりと秀昭は白い歯を見せた。どんなことであれ、褒められると秀昭は心から喜んでくれる。
「だろ! 次またここに遊びに来る時も、俺に任せろよな!」
「いいけど、お願いだから交通費は余分に持ってきてよね?」
「使い込まないように善処します!」
「善処じゃ困るよー」
二人で笑った。広い車道を通り過ぎる車のライトが眩しく輝いて、芙美と秀昭の並んだ影を何度も壁や電柱に叩き付けていった。巻き起こった風に芙美がまた身体を震わせて、秀昭が言った。
「んじゃ、行こっか!」
そうして芙美の前に立って、ふたたび歩き出した。
すぐ間近に見えているはずの秀昭の背中が、なんだか今、ひどく遠くに感じる。
芙美が違和感に気付いたのは、ふたたび歩き始めたその瞬間のことだった。
何かが違う。いや、何も違わない。上を通り過ぎる多摩都市モノレールも、その足元を真っ直ぐに立川の市街地へ向かうこの道も、歩道の塗装から街路灯や街路樹に至るまで──。
(変わったのは、蒲田くん……?)
そんな風に考えてみてから、それも違う、と思った。むしろ秀昭は変わっていない。初めて見知った時から今に至るまで、秀昭は奔放で、楽しそうで、気分屋で、だけど気遣いのできる優しい人。
分からないまま、秀昭の背中を追って歩いた。遠くの高いビルが少しずつ近付いてきている。さっきまで道の彼方に見えていた大きな病院が、横断歩道を渡った先にまで迫ってきている。
芙美はふと、マフラーで口元を覆うのをやめてみた。
息苦しさがなくなって、イブの夜の冷えた空気が喉に流れ込んだ。同時に、あまり嗅いだことのない──けれどひどく落ち着きそうになる何かの香りが、鼻の周りを、漂った。
それが秀昭のコートの香りだと気付くのに、そう長い時間は必要なかった。
芙美は答えを出せなかった。
秀昭を彼氏として自分の心に受け入れる覚悟を、決められなかったのだ。
そうこうしているうちに、秀昭の方からキャンセルされた。『人としての芙美が好き』『友達でいよう』と、その口からじかに聞かされた。これで話はすべて済んだはずなのだ。
それならどうして、こんなに切ないのだろう。どうして秀昭の背中を眺めながら、泣きたいような気持ちに駆られてしまうんだろう。
私、悔いてる──? そんな考えが脳裏に浮かんで、それが違和感の作り出していた意識の割れ目にぴったりとはまって。
(やっぱり、私)
芙美は唇を噛んだ。
(好きだったのかな……。蒲田くんの、こと)
一度そう思い始めてしまうと、もう二進も三進も行かなくなってしまった。
何を、今さら。今頃になってそんなことを思っても手遅れなのは、知っている。
何だかんだ言って本当は好きなんじゃないか。そう疑ってみたのも、『好きなのかもしれない』なんて結論に辿り着いたのも、思えば今まで何度もあったことだ。だけど、口にする勇気はおろか、それが本心なのかを知ろうとして向き合うことも、芙美はしてこなかった。今日だってそうだ。秀昭の方からなかったことにしようと持ち掛けられるまで、切り出す文句を一言も口にできなかった。どれが本当の想いなのかが分からなくなって、そうする勇気が出なかった。
結果的に蒲田くんが言い出しただけだ。中途半端な関係に甘えていたのは、私の方だったのかもしれない──。胸が締め付けられるような感覚が苦しくて、芙美はうつむいた。秀昭の足が、見えた。
ああ。
秀昭が、遠い。
ひどく、遠い。
昼間はあんなに近くにいて、平気ではしゃげたのに。
ついさっきまでの芙美には、もっと気楽に、簡単に、秀昭のことを見ていられる余裕があったのに……。
賑やかな世界が、近付いてきた。
秀昭が案内してくれたショッピングモールがあるのは、町外れの広大なゴルフ場の跡地だった。多摩で一番の威容を誇る立川の繁華街は、ちょっとばかり夜が更けたからと言って人の往来が減ったりしない。まして今夜は、クリスマスイブ。
「夜遅いからかな、イルミネーションもう終わっちゃってるなぁ」
残念そうに秀昭が言った。「この道のイルミネーション、すっごくきれいだって評判なのに。藤井と見たかったな」
「…………」
「藤井?」
問いかける声が、ぼんやりと彼方で聞こえる。
はっとして芙美は顔を上げた。秀昭の心配そうな顔が目に入って、手を振ってその姿をぼやかそうとした。
「ご、ごめん。何でもない。何でも、ないよ」
「疲れた?」
「……うん」
あんなに歩いたんだから当たり前だよと叫ぶだけの気力が、絞り出せないくらいには。
でも、その気配りは嬉しくて。やっぱり秀昭は変わっていないんだなと、嬉しくなって、切なさが込み上げて。
……その切なさが、不意に激しい熱情になって燃え上がった。
「しっかりしろよなー。ほら、あそこのでっかいデパートの向こうに立川駅が────」
励まそうとしてくれた秀昭に、身体を衝き動かされたようにして芙美は駆け寄っていた。
縮まった距離は一メートルと少し。まばたきよりも早い一瞬のうちに、驚いた様子の秀昭の顔が近くなって、迫ってきて、視界の端を行き過ぎた。
芙美は秀昭の身体を、渾身の力を込めて抱き締めていたのだ。
(って、何てことしてるの私────っ!)
自分でも予想もしていなかった行動だった。無言の悲鳴を上げながらもしがみつく力を緩められず、芙美の顔は突沸したような勢いで耳の先まで真っ赤に充血した。
どうしよう。どうしよう。完全に無意識だった。何をしようと思っていたわけでもないし、この状態からどうしようという考えだってないのに……!
「藤井……、待って、これって……」
うろたえているのは、秀昭も同じだ。
よりにもよって、周囲にこんなに人の目がある場所で……。でも、時間が経っても呼吸はちっとも落ち着かず、そしてそれとは相対的に、芙美の気持ちは冷静さを取り戻していく。
結果論だ。これで、いい。なぜかそう思えた。
これが隠れた本心の暴走なら、それでいいのだ。いっそこの場で爆発させてしまえばいい。一方的に告白されて、一方的に取り消されて、今まで一度たりとも主人公にしてもらえなかった芙美なのだから。
クリスマスイブの夜くらい、ちょっとくらい、わがままになったっていいじゃない!
意を固めた芙美は、ちょっとだけ背の高い秀昭に合わせてつま先で立ち上がった。
それから、抵抗する隙を与えないうちに、思い切って秀昭の唇を塞いでしまった。
キスのやり方なんて分からない。舌を入れるだとか色々な話は聞くけれど、具体的にどうすればいいのかも知らないし、いきなり挑戦するのは、怖い。
だからひたすら唇を押し付けた。
夢中になっていたら息が苦しくなってきて、ぷは、と唇を離した。マフラーを取ってしまった後のような清々しさと心地よさが、津波のように押し寄せてきた後悔の波間に光って、輝く。それが済んでしまうと、
「……ぁぁあああっ」
跳び跳ねるように数歩下がって、芙美は早くも後悔の海に沈み始めた。「ごめんなさい!ごめんなさい、私どうしちゃったんだろ、なんかよく分かんなくなっちゃって、その、悪気はなかったんだけど……何て言うかっ」
秀昭は何をされたのか理解できていないみたいに、芙美が抱き着いた場所から一歩も動かずに固まっていた。
涙目の芙美が見つめること、十秒。ようやく首を動かせるようになったらしい秀昭は、芙美を見て、尋ねた。
「……藤井」
「……うん」
「……今のって」
「…………」
「……好き、って、こと?」
熱湯に放り込まれたかのように芙美は赤くなった。
赤くなりながら、頷いた。純真無垢な秀昭の前で、この期に及んで嘘だけは意地でもつきたくなかったから。
「……知ってほしかった。私だって、蒲田くんのことを好きな気持ち、あるんだよって……こと」
それ以上でも、それ以下でも、ない。
マジか、と秀昭が呟いた。本当だよと芙美は重ねた。スカートのすそを握り締めながら、頑張って、言った。
「でなきゃ、大切なファーストキスに手を出したり、しないもん……」
もう、無理。羞恥心の限界だ。言い終えるや否や、グラデーションのように下から順に赤く染まっていく秀昭の横を、芙美は全速力で駆け抜けた。目指すは駅へ向かうペデストリアンデッキに登るための階段だ。もうこの際どこでもいいから、逃げたい。秀昭の前から逃げ出したい!
「まっ、待てよぉ!」
背後で秀昭が怒鳴った。
「待たない! ぜったい待たない!」
「さっきのもう一回聞かせて! ねぇ、これって俺、喜んでもいいのかな!? いいんだよな!?」
「言わないし、知らない──!」
芙美もめちゃくちゃに叫んだ。二人分の駆け足が、ビル街の狭間に反響する。紙袋を手に家路につく老夫婦が、ホテルを探している大学生のカップルが、道行く誰もが驚いたように芙美たちの背中を見送ってくれる。
言わない。どんなに懇願されたって言うものか。初めてを捧げてもいいと一瞬でも思えたことが芙美にとってどれほど嬉しかったか、そう易々と言葉に言い表せるようなシロモノではないのだ。
だから芙美は後悔しない。強引にキスをしてしまったことは後悔しているけれど、ファーストキスそのものを悔いたりなんかしない。そうやって懸命に伝えようとしたあの想いは、たぶん、きっと、偽物なんかではないから。
(友達でいたい私も、恋人になりたい私も、どっちも間違っていないんだ)
今は恋人になりたい気持ちが、ついつい前に出てしまっただけ。だから欲張りじゃないもん──。芙美は、肯定を決め込んだ。階段をかけ上がって大きな道を渡り、モノレールの改札の横を抜け、無我夢中に走り抜けながら、楽しくて、嬉しくて、仕方なかった。
煌々と灯火の光る聖夜の街に、ひときわ巨大にそびえ立つ立川駅の駅ビルが、見えてきていた。
あの先には家がある。明日がある。一休みして、気持ちを落ち着けて、想いを整理整頓して。それからまた、秀昭と向き合おう。
ふと振り返ると、秀昭が来ていなかった。見れば秀昭は改札からあふれた人波に行く手を阻まれて、あたふたしている。
「早くおいでよーっ!」
芙美は笑って、手を振った。
◆
クリスマス。
それは、『生誕祭』という名のもとにあらゆる幸福が貴ばれ。
大切な人との絆を分かち合い、認め合い、そして愛し合う。
そのすべてが尊重される日。
どんな祝い方をしたっていい。
どんな場所だっていい。
ともに祝う人がいなくても、普段と何も変わらない日になってしまっても、悲しむことはない。
きっと何かが起こる──そう信じ、期待することは、どんな人にもできること。
そしてそれこそが、その人の聖夜を最良のものにしてくれるはずだから。
Merry Christmas.
さぁ、祈ろう。冬空に願いを込めて。
あなたのもとにも、幸福が訪れますように。