表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬空に願いを~2016年蒼旗悠クリスマス短編集~  作者: 蒼原悠
【第三章──Below the Nightlight】
8/9

#8 胸に秘めた贈り物(『意地っ張りのノクターン』より)






 乾いて透き通った冬の空気は、どんな小さな音をも響かせやすい。

 踏切の音。歩行者信号機の音。幹線道路を走る車の音。しんと静まり返ったその瞬間、静寂を埋めるように遠くの音が流れ込んできて、世界はありとあらゆる音に包まれる。

 ましてや、ほうぼうでパーティーやイベントがひしめき合い、音楽や歌が街を彩るクリスマスイブの夜は、賑やかさも一入(ひとしお)だ。

 光と音の奏でるメロディーを人々は見上げ、見つめ、今年もこの日を迎えることのできた幸いを称えあう──。




 イルミネーションもない。

 音楽も流れていない。

 クリスマスらしい華やかさとはまるで無縁の、透き通った静けさに囲まれた丘の上の公園の入り口を、ちょっぴり遠慮がちに二人の人影が覗き込んだのは、時計も午後九時を回った頃合いのことだった。


「……誰も、いないな」

「……いないね」

 二人は頷きあった。別々の長いコートを羽織って、色違いのマフラーに口元を埋めた二人の男女──相原(あいはら)諒平(りょうへい)優華(ゆうか)は、冷たい空気の降り積もった公園の中へと恐る恐る足を踏み入れていく。

 多摩の南の端、町田の丘陵地帯にあるこの公園は、近くに造成された住宅街に家を持つ二人にとっては馴染みのある公園だった。遊具はたったひとつ、真ん中に置かれたブランコだけ。目の前に開けた丘の下の市街地の景色が、澄んだ空気のせいか今日はやけに鮮明に見えて、なんだかとても近く感じる。

 二つ並んだブランコに、並んで腰掛けた。他意なんて、ない。ベンチの代わりのつもりだったから。

「冷たいね、座面」

 優華が呟いた。諒平も、続けた。

「よく冷えてるな」

 それっきり、優華も諒平もまた黙り込んで、彼方でまたたく市街地の明かりをぼんやりと眺めているばかりだった。




 二人は、間もなく結婚して一年半を迎えるカップルだった。

 ……結婚したカップルのことを『カップル』と呼んでいいのか、二人にはよく分からない。同じ苗字になってから一年半近くが経過したけれど、彼氏と彼女だった頃と比べてケンカは減っていないし、会っている時間も大して増えていないし、それ以外の変化だって、見つからない。

 出版社で編集者の仕事をしている諒平は、クリスマスイブの今日も夜まで会社に居残りだった。本当なら、夕方には帰れるはずだったのに。

 【ごめん。せっかくのイブなのに、結局何もできなくて】

 諒平の謝罪のメールに、パートの仕事と用事を終えて帰ってきた優華は、笑って返した。

 【仕方ないでしょ。お仕事、お疲れさま】

 二人の関係の在処を示す何よりの証として、記念日やイベントの日は大切にしたい。優華はいつもそう思っていたし、諒平だってそのことはわきまえてくれているが、そうは言っても仕事は仕事だった。何もできないのだとしても、せめて諒平のことを労ってあげたくて。

 【でも、全く何もしないっていうのも何だかな……】

 諒平も諒平で、優華の心配りが寂しくてそう返信した。優華がどんな思いでスマホを見つめているか、さすがに一年半も夫婦をしていれば少しは見えてくる。今からでは選べる種類も限られてくるだろうが、クリスマスケーキくらい買って帰ろうか──。そう、悩んだりして。

 【いいじゃない。ゆっくりするだけのクリスマスイブだって、ありだと思う】

 諒平が悩んでいるのが分かっていたから、優華も本心はそっと心の奥に閉じ込めて、そんな返事をしたためた。

 ゆっくりしたいのには、本当は別の理由もあるんだけど──。なかなか空かないお腹に手をやって、意味もなく撫で回していた時、諒平が返事を送ってきた。

 【そんならせめて、あの公園でデート気分にでも浸ろうか】……と。




 キーコ、キーコ。

 鉄の鎖がきしむ音が、静寂の支配する空へと舞い上がっていく。

「……珍しいね」

 ふと、ブランコを止めて、優華は諒平を見た。諒平も同じように止めて、何が、と聞き返した。

「諒平の方から、どっか行こうって誘ってくるの」

「どっかって言っても、家から徒歩十分の公園だけどな……」

 諒平はためらいがちに答えた。言われてみれば、デートに誘うのはもっぱら優華の役割で、諒平の方から何かを提案したことはほとんどない。──もっとも、日程の自由が効くのはどちらかと言うとパート勤務の優華の方なので、当たり前と言えばそれまでなのかもしれなかったが。

 優華が応えてくれないと、なんだか気まずくなる。諒平は黙って、マフラーを少しずり上げた。

「……優華は、出掛けたいところとか、あった?」

 尋ねられた優華は、鎖を握りしめる手に、ほんの少し力を込めた。

「なかったよ」

「そんなわけないだろ」

「なかった。ていうか、あんまり遠出はしたくなかった」

「なんで?」

「寒いから」

 嘘をついたつもりはなかった。今年の冬は、格段に寒い。雪こそ降らないけれど、アスファルトの黒々とした道に熱をことごとく吸い込まれたかのように、ここのところ冷え込んだ日々が続いている。

 優華は右手を鎖から離して、お腹にあてがった。

 どくん、どくんと、脈を打つ感覚が静けさの中に高く響いた。耳をすませて聞いていると、諒平のため息がやけにはっきりと聞こえてきた。

「……そっか」

 遠慮されているような気がして、切ないような、虚しいような気持ちに包まれながら、諒平はそう口にした。

 それっきり、二人はまた、寒気とともに流れ込んできた沈黙の中で、口を閉ざしたままだった。




 祝い方の多様化した日本では必ずしも当てはまらないけれど、本来、クリスマスは家族で過ごし、プレゼントを贈り合うという行為によって「愛」があることを表現し、伝え合う習慣なのだという。諒平は地元民で、優華はこの街の出身者ではないが、二人とも実家は出てきているので、クリスマスを祝い合える関係があるのは目の前の結婚相手だけだ。夫婦というのは、きっと世界で一番小さな『家族』の姿だから。

 ──改めて考えてみると、夫婦になるって、何だろう。結婚という名の契りを交わしたら、それまでの二人の関係はどこに向かっていくのだろう。それは果たして良い結果をもたらすのか、それともそうではないのか。

 優華にも、諒平にも、その問いに答えることができる自信が、時々なくなってしまうことがある。

 昔はそんなことはなかった。結婚をすれば、二人を結ぶ糸は『カップル』から『家族関係』という名前に変わって、いっそう強く──いっそう温かなものになる。そんな風に信じていた頃があった。そして同時に、変われるのだという可能性に胸を踊らせたものだった。

 だから結婚したのだ。就職したばかりの社会人として出逢ってから四ヶ月で、周りからも驚かれるような早さで、優華と諒平は永遠の契約を結んだはずだった。


 でも現実には、家族になったからといって、それまでの二人に何かしらの変化が生じたかと言われれば……そんなことは、なくて。




 優華が、尋ねてきた。

「……あ、そうだ」

 振り向いた諒平の鞄を、優華は指差した。最寄りの小田急の駅で優華と待ち合わせたので、諒平は服装も持ち物も会社帰りのままだ。それがよけいにクリスマスイブの風情を排除してしまっている。

「何?」

「私が朝、返しておいてって頼んだ図書館の本、返してくれた?」

 しまった、と諒平は青くなった。すっかり失念していたのだった。

「ごめん。今朝、遅刻しそうだったから急いでたら、返却ポストに投函するの忘れてた……」

「えー。今日、ちょうど返却期限だったのに」

 優華は思わず声を上げてしまったけれど、しおらしくなった諒平の横顔が目に入って、何となく、それ以上の追及がしづらくなった。

 ま、忙しいのを分かってて頼んだの、私だし──。続ける言葉が見当たらなくて地面を眺めていると、そうだ、と諒平が口を開いた。

「……それで思い出した。優華、今日の仕事は午前中だけだったんだよな。お願いしてあった有線のPCマウス、買ってくれた?」

「あ。ごめん、完全に忘れてた……」

 優華はそのまま地面から目線を上げられなくなってしまった。パートが午前中に終わったのは事実だけれど、そのあとに別の用事が重なっていて、そのことで頭がいっぱいになっていたのである。

「マジか……」

 諒平も、そう返事をするにとどめた。

 前のマウスが壊れてしまってから、ノートパソコンでの仕事の効率が落ちて困っていたのに。──とは言え、諒平だって図書館の本の件では咎があるから、あまり大きいことを言える立場ではないことくらい分かっている。

「明日、日曜日だもんな」

 鎖を握る手のひらに冷たさを感じながら、諒平はそっと、言った。

「明日でも、間に合うよね」

 諒平の言いたいことを察して、優華も、そう続けた。

「一緒に図書館、行こうか」

「電気屋さんも、だね」

「……ごめん」

 二人ほとんど同時に、声を揃えて謝って。

 それからまた、諒平も優華も、沈黙してしまった。




 同じ人間でない以上、二人で生活していれば、いずれは色んなことで対立したり、ケンカになったり、どちらかがどちらかを責め立てる機会が巡ってくる。

 優華と諒平だって、そうだ。前は頻繁に大ゲンカをしたし、無視し合って険悪な雰囲気になることもあった。

 それがちょうど去年の冬、言い合いの果てに優華が家出をして、そのまま迷子になりかける事件が起きてから、変わってしまった。自分に非があると思ったら、優華も諒平もすぐに謝るようになったのだ。口頭でも、電話でも、メールでも。

 対立は嫌だ。対立は怖い。あんなケンカを繰り返していたら、いつか本当に取り返しのつかないことになってしまうんじゃないか──。寒風の吹きさらす真冬の夜空の下で、優華と諒平はそんな底知れない恐怖に襲われたのだ。だからこそ、誓った。今までもこれからも穏やかで優しい関係であるために、きちんと『ごめん』の一言が言えるようになろう、と。

 あれから今、一年という時間が経とうとしている。ケンカになるようなきっかけは相変わらず減りはしなかったし、どちらも自分の非に気付かなければケンカはいつまでも続く。でも、本当に深刻な対立は、以前と比べると全くと言っていいほどなくなった。相原家の空気も、平穏になった。

 ──そして、それと引き換えに、お互いがお互いを理解しあうことを放棄したような諦観が漂うようになってきたことに、優華も、諒平も、少しずつ気付き始めている。




 時間が、ただ漠然と流れていく。

 諒平は腕時計を見た。もう、午後九時半を回ってしまっている。あたりはいよいよ暗く、静かに、そして寒くなってゆきつつある。

 本当は四時くらいに退社するつもりだったんだけどな──。諒平はマフラーを口元から剥がして、真っ白なため息をついた。肩を叩かれて話があると言われ、上司について会議室に入らされた時から、予定が狂う予感はしていた。

「…………」

 黙って、優華を見た。優華はじっと口を閉じたまま、目を伏せてうつむいている。

 優華がどんな気持ちでいるのか、何をしたらどんな反応をしてくれるのか、最近、諒平には分からなくなることがある。一年半も結婚生活を続けてきたのに、なんだか時間が経てば経つほど目の前で笑う優華が遠く、ぼやけていくような感覚に包まれて──。

 諒平には今日、優華に報告することがあった。

 けれど、今の諒平には自信が持てない。報告したら優華は喜んでくれるのか、それとも何も反応を示さないのか……。去年の今頃には分かっていたようなことが、今は、見えない。

 優華の素直な表情すら、もう長いこと諒平は目にしたことがなかった。いちばん素直に近かったのが前は笑顔だったのに、今は謝る時の悔しそうな、虚しそうな、切なそうな表情が、出逢った時よりも分厚くなってしまった優華の心の壁の奥の色に近いように思った。自分だってそうだ。正直な感情をむき出しにすれば、それだけ対立やケンカが増える──そのことを諒平は、身をもって知ってしまった。

 だから、これからも。

「もう、ずっと……」

 思わず、呟いた。優華が顔を上げた。

「……何が?」

「……何でもないよ」

 諒平は答えを地べたに放り出すように、足を見つめながら答えた。何をどう説明すれば、この気持ちを分かってもらえるのか、見当もつかなかったから。

 そっか、と優華が頷いて、また下を向いたのが見えた。


 放り出されたような気がして悲しくなっていたのは、むしろ諒平の言葉よりも、隣で座る優華の方だった。

「……そっか」

 返す言葉が思い付かなかったから、そう答えた。答えたけれど、何も返さない方がマシだったかな──なんて感じて、そうしたら目のやり場が分からなくなって、また、元のようにうつむいた。

 諒平が何かを切り出しかけて、諦めた。そんなことを察するのが難しいほど、優華だって鈍くはない。だとすれば、諒平は優華の中の何に諦めてしまったのだろう。分からないけれど、だからといって今さら何かを思うこともまた、優華にはなかった。

 (だって私、ここ一年くらい、諒平の方から相談の類いを何一つ持ちかけられてないもん)

 そんな風に考えてから、私もだけどね、なんて付け加えてみた。

 前はよく口にしていた愚痴も、最近はほとんど諒平に話さないようになった。諒平だって疲れていたり、イライラすることはたくさんあるわけで、そんな時に優華が愚痴を漏らすと大抵、ケンカになる。もちろん非があるのは愚痴を口にした優華の側なので、それで毎度のように謝るようになってから、優華も段々と不満を口にする意味や価値を見失っていった。

 疲れているのは、お互い様。だからお互い相手の深い部分には触れないで、ただ、少しでも気楽になれるような平穏な空間を維持していこう。いつしか優華と諒平の織り成す『家族関係』は、そんな姿へと変容してしまった気がする。たぶん諒平も同じことを考えているだろう、と思った。

 私、今日は話さなきゃいけないことがあったのにな──。優華は心なしか、哀しくなってきた。

 クリスマスイブに口にすべき話題なのかは、優華には何とも分からない。でも、パートを終えた後、あらかじめ予約してあった病院に赴いて、一枚の紙を受け取った時、とっさに浮かんだのは諒平の笑顔ではなかった。諒平がどんな顔をして優華の報告を聞いてくれるのか、あの瞬間、優華には思い浮かべることができなかった。

 結婚して一年半。優華と諒平の関係は、より良い方向に変わっていくどころか、かえって遠く──そして薄いものになってしまっているのではないか。

 そう尋ねられたら、優華は答えることができない。




 そのまま、さらに十分以上の時間が、無言のうちに流れ去っていって。


 ついに痺れを切らしたのは、諒平の方だった。

「優華」

 諒平は優華に声をかけた。どこにも目の焦点を合わせずにぼうっとしていた優華は、顔を上げて諒平を見た。

「寒いだろ。そろそろ家、帰ろうよ」

「別に……寒くなんてないよ」

 優華は慌てて反論した。

 せっかく、少しはデートの雰囲気を感じられる場に来ていたのに。家に入ってしまったら最後、もう告白すべきこともできなくなってしまう気がして、怖かった。

 だが、無意識のうちに優華が身を震わせていたことを、諒平はちゃんと見抜いていたのである。

「そんな肩を縮こまらせておいて、『寒くなんてない』わけないだろ。そうでなくても風邪、流行ってるんだからさ」

「でも──」

「でも、その前に俺、言うことがあるんだ」

 弾かれたように優華は目を見開いた。諒平は見えないように、背中の後ろで手を固く握った。

 このままではいつまで経っても口に出せない。だったら覚悟を決めよう、と思ったのだ。たとえ優華の反応がどうであろうと、いつかは言わなければいけないことだった。だって諒平と優華とは、夫婦なのだから。こんな見てくれでも、世界最小の運命共同体なのだから──。

「俺」

 苦いつばを一気に飲み込んで、諒平は立ち上がった。それから優華の前に立って、少し潤んだその目を、まっすぐに見つめた。

「来年の昇進が決まった」

 優華の顔に、赤みが光った。

「社内でも指折りで発行部数の多い雑誌の主任編集者になった。だから給料は上がるんだけど、その代わり家にいられる時間、今までより少なくなる。週刊だから、仕事量がうんと増えるんだよ。……優華と一緒の食卓を囲める時間、もう、だいぶ、減っていくと思う」

 後ろになればなるほど、声が小さくなってしまう。それでも何とか諒平は、伝えなければいけないことを言い切れた。口の中が乾いて仕方なかった。

 優華も立ち上がった。地面を蹴って立ったはいいが、諒平の顔を見ることができなくて、うつむきながら問いかけた。

「……そんなこと気にして、今までずっと、切り出してくれなかったの?」

「うん……」

 諒平が頷いた途端、優華の身体を血が駆け巡った。うん、ではない。そんな大事な、大切なこと、もっと早く聞きたかった。真っ先に教えてほしかったのに──。

「……おめでとう」

 口に出た言葉と、心の奥に隠した本音が、恐ろしいほど乖離していた。

 それでも優華は、微笑んだ。口に出した方の言葉が間違っているだなんて、思えなかった。

「昇進、すごいよ。だって諒平、私と出逢った時から望んでたじゃない。憧れてる部署があるんだ、いつか担当になってみたい──って」

「そりゃ、俺だって……嬉しいけど」

 諒平はかえって、ばつの悪いような気持ちになってしまった。確かに給料も肩書きも上がるけれど、それは優華との時間を犠牲にして成り立つこと……。喜んでいいのか諒平自身が分からずにいるのに、優華の笑みを素直に受け止められる自信が、なかった。

 しかし誰あろう優華もまた、似たような思いを抱いていたのである。言わねばならない話題を胸の中に隠し持っているのは、優華とて、同じだった。

「……私もついでに、話しちゃうね。話さなきゃいけないこと、私にもあるから」

 優華は微笑みを消した。どんな表情を浮かべればいいのか、喜んでもいいことなのかどうか、優華自身が分かっていなかったから。

「うん」

 空気の変化を察知した諒平も、頷いた。二人の間を流れる空気が、少し強張って。

 深呼吸をした優華は、言った。

「懐妊してた」

 諒平が口をぽかんと開けた。

「今日の午後、病院で調べてもらってきたんだ。もう一ヶ月だって。他でもない、諒平と私の子供だって……」

「やったな!」

 最後まで聞き届けられるほど我慢が続かなかった。諒平は優華の両肩を抱いて、大声で叫んでいた。笑みが満面を包み込んでいくのが、今度こそ、じかに感じられた。

「そっか、ついに妊娠したんだ! よかった……。それじゃ優華、これからますます身体に気を付けなきゃだし、俺だってしっかり稼いでいかなきゃなぁ」

「で、でも、これからは何かと諒平に気を使わせるようになっちゃうし、私が家計を支えられなくなれば、諒平の負担はますます重くなるし……」

 優華は苦しそうな顔つきになった。そうでなくとも今日みたいな土曜日にまで出勤せねばならないほど、諒平の仕事は忙しいというのに──。妊娠していますと告げられた瞬間から、今に至るまでずっと、それが最大で唯一の優華の懸念なのだ。

 そんなことぐらい諒平だって知っている。よりによって今かよ、という気持ちだってある。前より忙しくなってしまったこのタイミングで妊娠してほしかったかと言われれば、やっぱりそんなわけはない。いざという時や危険な時、そばにいられなかったら、それで優華が流産でもしたら──。

 それでも諒平は、笑顔こそが今の自分が浮かべるべき最良の表情なのだと信じて、疑いたくはなかった。

「最高のクリスマスプレゼントだよ。おめでとう、優華」

 だからこそ、言葉を重ねた。寒空に舞い上がった声は白い息になって、鼻の先を赤くする優華の顔を、ふわっと包み込んだ。

 ……そこまで言われてようやく優華も少し、それが諒平の心からの気持ちなのだと感じることができたような気がした。

 なんだかまだ、夢のような心地がする。病院で懐妊を告げられた時も、思えば今みたいな夢見心地だった。……でも、現実は現実であって、夢ではないわけで。

「……嬉しいけど、やっぱりタイミング、悪いよね」

 ふっと現実的な思考回路が戻ってきて、肩を掴む手をそっと握り、優華は丁寧にそれを外しながら、言った。

 タイミングという言葉には二つの意味を込めたつもりだ。大体、すっかり忘れかけていたけれど、優華はちょっぴり腹を立ててもいたのである。昇進が決まったなんていう大事なニュースを、諒平がすぐに話してくれなかったことに。

「てか、昇進のこと、もっと早く教えてよ。私だって心の準備が間に合わないよ。妊娠しちゃったこと、危うく怖くて言い出せなくなるところだった……」

「おい、それ俺もなんだけど」

 笑みを空中に逃がして、諒平も口を尖らせた。「妊娠が判明した方が先だったんだろ。すぐに教えてくれてたら、俺だって昇進の話、断ったのに」

「何言ってるの、諒平が断る必要なんてないじゃん」

「そりゃお前、出産前とかの大事な時に俺が残業漬けで家を空けるなんてことになったら、大変になるし……」

「やめてよ。私のこと気遣って昇進を断ったなんて言われたって私、ちっとも嬉しくない」

「だって昇進は断れても妊娠は断れないだろ……。中絶は身体に悪いっていうしさ」

「そういう変に遠慮がちなところ、私、嫌い!」

「お前のことを考えて言ってんのにそれはないだろ!」

 気付けば、優華と諒平は目と目だけで睨み合って、目線同士の交差線上に火花を散らしていた。

 なんだかひどく懐かしいような思いがする。変な気持ちになったのも束の間、それは熱が伝わるように広がり始めた別の感情に、あっという間に支配されていって。

 それが嬉しさだと気付く前に、二人はお互いを抱き締めていた。


「嬉しい」

 優華は、涙ぐんでいた。

「ありがとう。諒平、喜んでくれてありがとう。私、妊娠のこと、てっきり喜んでくれないかって思って、すごく……怖くって……」

 嬉しさでいっぱいになっていたのは、諒平も同じだった。

「俺こそだよ……。ありがとう、優華。昇進して今までより忙しくなるなんて言ったら、優華はどんな反応するかなって……俺、なんだかちっとも分からなくなっちゃってて」

 私も、と優華も呟いた。触れ合った場所から安堵が熱に差し替わって、夜の空気に冷やされた身体を内側から温めていく感覚が、こうしていると鮮明に感じ取れた。

 どうしてこんなに、安心するのだろう。

 優華も、諒平も、一言も謝っていないのに。

 伝えるのが遅くなったことも、これから先はお互いに迷惑をかけることになりそうだということも、何一つ、謝ってなんかいないのに。

 それでも──今は昔みたいに、お互いの姿がちょっぴり見えている気がした。優華が、諒平が、何を喜んで何を嫌がるのか。昔は苦労せずに見えていたものが、今ならほんの少しだけ感じ取れるように思えた。

「おめでとう、優華」

「おめでとう、諒平」

 抱き締めたまま、背伸びをした優華と腰をかがめた諒平とで、おでこを付き合わせて、笑って。

「優華」

 諒平が言った。

「久しぶりに心から笑った、なんてこと、ない?」

「そうかもしれない」

 優華はくすりと笑った。自分でも何となく、そんな気がしていたから。




 平穏無事に何かを乗り切ろうとすればするほど、お互いに向ける言葉も、顔も、分厚い皮に覆われていってしまう。

 確かにそれは安全な関係を作るだろう。でも、素直な反応を恐れ続けていると、お互いが胸に抱える本音の姿はきっと見えなくなっていく。

 優華と諒平は、そんな泥沼にはまりかけてしまっていたのかもしれない。

 二人はそうとは知らない。

 ただ、募りすぎてしまった寂しさが押し出したお互いの本音にびっくりして、嬉しくなって、心が温かくなっただけ。


 行こうか、と諒平は優華の手を取った。頷いた優華は、空いている方の指で、頬を伝う涙をそっと拭った。

「途中のスーパーにケーキがあったら買っていこう。まだギリギリ、クリスマスイブだ」

「そんなお金、あるの?」

「もともと買っていく気はあったんだよ、実は」

 いたずらっぽく諒平は笑ってみせた。変に気を使わせたくなかったから、だけではない。自然とこぼれた笑みを、大切にしたかった。

「優華の妊娠と、俺の昇進と。キリストの誕生日のついでに一緒に祝おうよ。せっかく年に一度のクリスマスなんだからさ」

「うん。そうしよっか」

 優華も負けないくらい、微笑んだ。この期に及んで作り笑いなどではないと、神様に誓って断言できた。

「──また、記念日、増えちゃったね」




 キーコ、キーコ。


 誰の姿もなくなった公園には、ただ、ゆっくりと音量を落としてゆくブランコの軋みが響くばかりだ。

 ここには華やかさもない。美しさもない。クリスマスイブという特別な日の訪れに、園内のものはどれひとつとして感慨を覚えてはいないだろう。

 それでも。

 街を下に見る丘の上の公園は紛れもなく、立ち寄った一組のカップルの「愛」の在り処を、確かに浮き彫りにしてみせたのだ。




 午後十時。

 多くの子供たちが寝静まり、道の混雑も減り、出歩く人影もぐっと少なくなる時間帯。

 クリスマスイブの夜の賑わいが、終わろうとしている。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ