#7 運命の晩餐会(『誕生祝いのいろは』より)
太陽が山の端へ姿を消してしまうと、あたりはあっという間に暗くなってしまう。釣瓶落とし──秋の日の短さの例えにされるその言葉は、もちろん冬にあっても何も変わりはしないから。
暗くなり始めた都心のビル街にも、やがて仕事終わりの人々がどっと溢れ出す。さあ、クリスマスはこれからだ──。イルミネーションやクリスマスソングに彩られた景色の下、一足早く盛り上がりを見せ始めた繁華街に続いて、丸の内や日本橋と言った政治・経済の拠点にも聖夜の雰囲気が流れ込んできた。
もっとも、そこには繁華街のような喧騒があるわけではない。
豪華な食事、美麗な景観、そして音楽……。騒ぐことがなくとも、淑やかにクリスマスを楽しむ要素と手段は、ここにはたくさんあるのである。
絢爛な装飾のなされたテーブルからグラスを取り、祝田小波はにこやかに微笑んだ。
「──では、乾杯しましょうか。メリークリスマス!」
「め、メリークリスマス!」
やけに空元気な声が二つ、重なった。彼女の高校のクラスメート、宝田実と桜田辰郎である。
東京駅の赤レンガ駅舎に入居する超一級ホテルの、広大なレストランフロア。いったいどうやって許可を取り付けたのか、レストランには実たち三人と執事、メイドが三人、そして料理長の姿しかない。つまり貸切りである。
「何だかよく分かんないけどラッキーだな……。だって俺たち、こんなところでこんなクリスマスの過ごし方ができてるんだぞ」
グラスを机に置いた辰郎が、実にひそひそと話しかけてきた。三人はまだ高校一年生だ。グラスの中身はもちろん、ジュース。
「じきに分かると思うけどね、理由は」
料理長を呼びつけて何やら頼んでいる様子の小波を眺めつつ、実は苦笑いした。
実は知っているのである。都心の高級レストランを貸切りにできるほどの金持ちである小波が、辰郎に密かに想いを寄せていることを。前にその旨で相談を受けたこともあった実には、先週、小波がどんな心持ちで辰郎を呼び寄せたのか、何となく分かるような気がした。
それにつけても理解できないのは、無関係の実まで同席させられたことだ。
「特大のケーキを注文させましたの。今、遠方の店から持って来させてますわ!」
料理長を解放した小波が、実たちの方を向いて嬉しそうに言った。辰郎が嬉しそうに応じた。
「特大のケーキ!?」
「ええ、特大の! もちろんナイフも特大ですのよ」
実が咄嗟に結婚式でのケーキ入刀を思い浮かべたのは言うまでもない。
「ず、ずいぶんお金がかかってるみたいだけど、これって僕ら本当にタダで参加させてもらっていいのかな」
恐る恐る尋ねると、当たり前ですと小波は頷く。「私の両親から予算はいただいていますの。もう少し予算があったら、六本木タイムズスクエアの最上階あたりを貸切りにすることもできたのですけれど」
勘弁してほしい、と実は苦い唾を飲み込んだ。
ともあれ、やることなすことがいちいちオーバーになりがちではあるけれど、小波に悪意がないのは実だってよくよく知っている。どうせ、今日ここに誘われたのだって、小波だけでは辰郎と一対一になるのが心細いから呼ばれた、くらいのことなのだろう。こういうことに関しては、小波は至って奥手な普通の少女なのである。
(ま、別に羨む気持ちもないし、今回は愛のキューピッド役を務めてあげてもよしとするかな……)
前菜をお洒落に口に運びながら笑う小波と、未確認生物でも口にするような顔で前菜を取りながら笑う辰郎を眺め、実はほっと穏やかな気持ちになった。
千代田区内の私立高校に通う実たち三人は、同じクラスで授業を受ける仲間だ。
とは言え、辰郎と小波はほとんど話したことがない。そもそも実が二人の関係に首を突っ込むはめになったのは、そんな辰郎に恋心を抱いてしまった小波が辰郎へのアプローチの仕方に悩んだ挙げ句、辰郎の部活仲間だった実に頼ってきたからであった。
もっとも、いつもいつも熱のこもった視線でうっとりと眺めたり恥じらったりしているものだから、小波が片想いをしているであろうことなどクラスメートの中では周知の事実。むしろ当の辰郎が気付かないのが、実には不思議でならない。
(あんまり大きな声で言えたことじゃないけど)
一生懸命に、しかし楽しそうに部活に励む辰郎の姿を見るたび、実は言い様のない不安に駆られることがある。
(辰郎って正直、あんまり恋愛には興味がなさそうに見えるんだけどな……)
ひとたび自分が関わってしまった以上、小波の片想いが結ばれないまま霧散してしまうのは何としても避けたいのだ。小波がどれだけ本気で片想いをしているのかは、一番近くで見てきた実だからこそ理解できるから。
……もちろん実自身は小波に恋などしていない。誕生日プレゼント選びにすら数千万もの金銭を注ぎ込もうとするような恐ろしい金銭感覚の彼女は、さすがに欲しくない。
パーティーはいたって平和に進んでいった。
少なくとも実は、そう感じた。小波がどんな心境だったかは分からない。何せ、普段あまり話さない関係だったせいか、辰郎は机を挟んで反対側の小波にではなく実にばかり話しかけようとしてきたから。
「なー実、お前もこれ食べたことある? 味の想像がつかないんだけど……」
とか。
「外の景色、きれいだなぁ。丸の内が一望できるじゃん!」
とか。
少しは小波にも話しかけてあげてほしい。そう思っても口には出せないから、実はいつだって小波の方を何度も見遣るばかりだ。
しかしその小波も、
「こちらのソテーの魚、料理長に頼んで築地から特別に仕入れさせたものですわ! 美味しいでしょう?」
「桜田くんは普段、どういったところに住んでいますの? イルミネーションとかはなさったりするのかしら」
と、実ではなく辰郎にばかり話しかけ続けている。小波から話し掛けられれば辰郎は返事をするし、小波も楽しそうだから、これはこれで美しく三角形にバランスの取れた状態が維持されているのかもしれない。
悪くないのかもな、と実は思った。何よりも普段なら自分ひとりで小波にツッコミを入れなければならないのが、今日は辰郎という格好の相手がいる。
「い、イルミネーション? 俺のところは狭いし、そーいうのはやったことないよ?」
「あら、そうでしたの? 先日我が家の倉庫を整頓していたら、使っていないイルミネーション用の電球を一万個ほど発見してしまったのですけど、どうしたらいいものかと思っていて……。桜田くんが良ければ、ぜひ受け取ってほしいのです」
「え、いいの? 受け取る受け取る!」
小波の顔がぱっと輝いた。思わず実は辰郎の脇を小突いて、圧し殺した声で聞いた。
「本当にいいの? 一万ってものすごい数だよ?」
いいんじゃね、と辰郎は朗らかだ。「せっかくの祝田さんの好意だもん、甘えておきたいし」
前言撤回だ、辰郎では小波のブレーキ役は務まりそうにない……。ため息をついた実は、同時に少し、安心した。ぜひとも別の意味の好意も受け止めてあげてほしい。
「あー、ちょっと俺、ジュース飲み過ぎちゃったな……。トイレ行ってきたいな」
辰郎が呟いた。すぐさま反応した小波は、執事に目配せする。執事が恭しく進み出てきて、あちらでございます、と手を差し伸べた。
「ご案内いたします、桜田様」
「あ、ありがとう、ございます」
ひょこっと立ち上がった辰郎は、執事のあとについて歩いていった。様付けされたのが嬉しかったらしい、後ろから見ると酔っ払っているみたいな歩き方だ。
(辰郎、素直だなぁ)
実が笑いたくなって俯いたのと、それまで笑みを絶やすことのなかった小波が急にぐったり椅子にもたれかかったのは、同時だった。
実にはその姿が、なんだかひどく疲れて見えた。
「どうしたの?」
尋ねた途端、小波が牙を剥きそうな勢いで実のそばに駆け寄ってきた。実の座る椅子を掴んで、がくんがくんと揺する。
「まっ待って、何してんの祝田──」
「チャンスが分からないんですのっ! 宝田くん、どうか教えてください! 私、いったいいつ辰郎くんに想いを伝えたらいいのですかーっ!?」
「やっぱり今日、告白する気だったんだ……」
「当たり前ですわ! そのための舞台装置なのですから! なのに、なのに……!」
それじゃ僕は何のために……。ついつい問い返しそうになった実は、一瞬見えた小波の表情が、今にも崩れて泣き出してしまいそうで、すぐさま問いを引っ込めた。
「……宝田くんのご迷惑なのは、分かっているんです」
うなだれた小波は、ぽつりと言った。
「ただ、私、自分にどうしても自信が持てなくて……。この一週間ずっと、どのタイミングで辰郎くんに想いを伝えようか悩み続けてきたんですの。私なりに必死に考えましたけれど、本当に気持ちが伝わるのか、辰郎くんにかえって引かれてしまわないか、心配で……。辰郎くんのことは名前で呼ぶと決めていたのに、それもできず……」
「そんな、僕を恋愛のエキスパートみたいに扱わないでほしいよ」
ため息をついて、実も言い返した。「恋愛経験がないのは僕だって同じだし、タイミングの図り方だって知ってるわけじゃないのに」
実際、辰郎はパーティーを心底楽しんでいる様子だし、小波が切り出すタイミングを掴めないのも実には理解できる。だが理解できたからと言って解決手段がそう簡単に思いつくようなら、実にだって苦労はないのだ。
ですよね、と小波は応じた。しょんぼりと悄気た小波の姿は、憐れだった。
小波にあえて解説されるまでもない。恋の対象でこそないけれど、ずっと恋愛相談に乗ってきた実がこの場に呼ばれた理由など、小波がどういう少女かを考えれば初めから分かっていたことなのである。だからと言って、こういう時に限って実を頼り切らないでほしいのだ……。
(どうしようかな……。そりゃ、僕だって祝田さんの告白、無事に成功させてあげたいけど)
懸命に勘案を巡らせながら──ふと、実は気付いた。
巨大ケーキが来ていない。
「そう言えば祝田さん、ケーキは?」
実の言葉に、控えていた料理長がすぐさま小波に何かを囁いた。小波は小さな声で、答えた。
「もう少ししたら届くとのことですが……。なにぶん大きいので、手配にも時間がかかっているようなのです」
よかった、と思った。まだ大きなチャンスが、このあとに控えているではないか。
「そしたら届いたタイミングで、僕、トイレか何かに行ってくるよ」
実は提案した。えっ、と小波が声を上げた。
「どうしてですの。そんなことをしたら私と辰郎くん、二人きりに」
「だからいいんじゃない。辰郎のやつ、放っておくと僕としか話さないけど、僕が席をはずせば祝田さんと話すしかなくなるでしょ?」
「確かに、そうですけど……」
「ついでにメイドさんたちにも出ていってもらおう。周りに見ている人がいない方が、きっと勇気、出せると思うよ」
実は、笑ってみせた。
勇気を出して告白を切り出せないのは、切り出さなくても何とかなってしまう空気があるからだと思う。巨大ケーキを切るには、大きなナイフを何人かで持たなければならない。必然、辰郎と小波の距離は近くなるし、同時にナイフを下ろすためには意思疏通だって必要になる。その状態で周りに実やお付きの人たちがいなければ、小波は自動的に、自分自身に頼らざるを得なくなる──。実は、そう予測したのだった。
そのためには何よりも、小波に自信を持ってもらわなければならない。
「大丈夫だよ、心配しなくたって。辰郎のことが好きだっていう気持ちの強さは、僕が一番、知ってるし。何なら保証もするよ」
不安げな表情を浮かべる小波に、実は微笑みかけて言った。「誕生日プレゼントだってあんなに一生懸命に選んでたじゃない。最後に決め手になるのは、何よりも祝田さんの気持ちの強さだよ」
「宝田くん……」
「だから、ケーキが届いたらしっかり決めちゃいなよ。告白」
そして願わくは、実のことも恋愛相談役から解放してほしい。
しばしの沈黙を挟んで、分かりましたわ、と小波は答えた。情けない顔を綺麗に拭い去った小波は、廊下の方から足音が聞こえてきたのを聞いて、すぐさま自分の席にぴょんと戻った。辰郎が、戻ってきたのだ。
顔を赤くしながら押し黙っている小波に、さぞや辰郎も違和感を覚えたことだろう。席に座った辰郎に、さっそく実は尋ねられた。
「……祝田さん、何かあったのか?」
「さあ?」
実はさらっと答えた。「何か胸に秘めてることがあるらしいよ。僕には教えてくれなかったけど、辰郎になら話してくれるんじゃない?」
「へぇ……」
辰郎が小波を見る。何てこと言ってくれたんですか、とばかりに小波が実のことを睨んでいる。実は知らんぷりだ。
だって実は、この場ではただの傍観者なのだから。
またしても廊下を歩く音がして、ドアをノックする音がした。執事が開けに行くと、そこには巨大な箱がどんと鎮座していた。
「ご注文の品、お持ちしました」
でっか、と辰郎が叫びかけた。確かに巨大だ、高さ一メートルはありそうなサイズである。思わず実は尋ねてしまった。
「……もしかしなくても、ウエディングケーキ、意識した?」
「……しましたわ」
予感が的中してしまった。ますます実はここにいない方がよさそうだ。
いつの間にか音を立てずに、メイドや料理長たちが姿を消していた。さっきの相談を聞いていてくれたらしい。ほっと安堵した実は、赤や緑のリボンに彩られたケーキの箱を一瞥してから、予定通りに執事に声をかけた。
「すみません、僕もトイレ、いいですか」
「行っちゃうのかよ」
辰郎の声が背中に当たった。実は振り返って、うん、と頷いた。「先に食べといてよ」
それから一秒だけ、小波の様子を確認した。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。小波は奥手だけれど、やると決めてしまえば確かな実行力を持っている子だから。初めて相談を受けたあと、辰郎に誕生日プレゼントを用意してきた時の小波だって、そうだった。
「ご案内いたします」
何となく雰囲気を察したらしく、執事が先に立って歩き出した。実もあとに続いて、レストランの部屋を出た。
それからメイドの人たちにならって、ドアのそばで聞き耳をそばだてた。
まさか東京駅のホテルも、こんな使い方のためにレストランを貸切られる日が来るとは思っていなかっただろう。かつての丸の内駅舎を再現した、古風で情緒のある内装。窓から見えるのは東京一のオフィス街・丸の内の煌びやかな夜景。雰囲気作りは、完璧だ。
初めはいやいや引き受けた、橋渡し役だったけれど。
でも、手を取り合う二人の助けになるのも、ちょっぴり楽しい。
何より役得ではないか。こうして豪華な料理を味わい、夜景に目を癒し、三人の中で誰よりも気楽でいられるのだから。
(彼女に一番興味がないのは、辰郎じゃなくて僕かもしれないね)
ドア越しに聞こえてくる会話に耳を澄ませながら、実は少しだけ、笑った。
それでもいつかはやっぱり、祝われる側になってみたい。プレゼントの代わりに彼女ができたりしたらいいのにな──。心の奥に押し込めたままの本心は、来年以降のサンタクロースに希望を聞いてもらおうと思った。
どんなに背伸びをしていても、どんなに成長したような気がしていても。
クリスマスの奇蹟は、誰にだって起こりうるのだから。