#4 宴支度のお手伝い(『羽田子猫物語』より)
クリスマスを祝うという文化がすっかり定着した今、この国には多種多様のクリスマスの祝い方が存在する。
カップルや夫婦で過ごす人もいれば、友達同士で過ごす人もいる。あえて一人で過ごすことを選ぶ人だっている。その楽しみ方にしたって、パーティーを開いて楽しむ人、遊びや買い物に出掛ける人、家で静かに過ごす人と、十人十色だ。
もちろん、寒さの厳しい深夜に外で遊ぶことはできないし、イルミネーションの類いにも大抵は終了時刻が設定されている。お店の開店時間にだって限りがあることを思うと、いつでもあらゆる楽しみ方をすることができるわけではなくて。
少し陽の傾き始めた、午後二時半。
それは、穏やかな陽気にぽかぽかと照らされて、子供たちのはしゃぎ回る声が街角にあふれる活動的な時間帯だ。──そしてパーティーを開いて盛大に楽しむには、まだちょっぴり、早すぎる時間かもしれない。
大田区の南の端、羽田空港と陸地の間を流れる運河には、天空橋と呼ばれる橋が架かっている。近くにはモノレールや京浜急行の駅があって、ここは言わば、羽田空港の玄関口。
その天空橋の近くに青々と広がる草原の道路脇に、天空橋駅に隣接してぽつんと交番が立っている。
『南大田警察署天空橋交番』──そう名付けられた交番は今、業務を半分くらい放り出して、クリスマスパーティーの飾り付けの真っ最中だった。
「お巡りさーん。飾りの位置、これでいい?」
長い長い金色のモールを壁に貼り付けた小学生の男の子・萩中和真は、背後で三脚を使って天井に手を伸ばしていたお巡りさんに尋ねた。
お巡りさん──鮫洲康行は、ぶら下がった紙テープから手を離して振り向いた。
「うん、いいんじゃないか。あんまり下につけてしまうとネコが反応するから、気を付けるんだぞ」
「はーい」
もちろん和真だって、そのくらいは分かってやっている。ねっ、と和真は足元に向かって声をかけた。「あおい、それ触っちゃダメだからな」
にゃあ、と声がした。モールのたくさん入った箱に、今まさに興味津々に触れようとしていたグレーの子猫が、慌てて手を引っ込めたところだ。
交番の内側の半分くらいまで貼り付けられたモールは、たったそれだけで無機質な風景を賑やかにしてしまう。交番の中が狭いからかもしれない。でもこれだけの広さがあれば、みんなを呼んでも大丈夫そうかな──。
手を止めて部屋を見回した和真は、うん、と安心した。まだまだ準備は多い、頑張らねば。
いつの間にか隣に来ていたあの子猫──あおいが、妙に誇らしそうな顔付きで和真のことを見上げていた。
和真は、この近くに住んでいる小学四年生だ。そして同時に、あおいの飼い主の一人でもある。
その和真がどうして交番なんかに来ているかと言えば、和真たちが『この場所で』あおいを飼っているからだった。
あおいはそもそも、和真が友達と数ヵ月前に発見した捨てネコだ。何とか救ってやりたかったけれど、あいにく和真を含めたみんなの家はどこもペット飼育禁止。だったら自分たちでやろうと決め、家を作ったり餌やりの当番を決めたりして試行錯誤をした挙げ句、紆余曲折を経た今は敷地内に広い庭のあるこの交番に置いてもらっているのである。
その交番でクリスマスパーティーをやろうかと、つい二週間前に鮫洲が言い出したのが、今のこの準備作業の始まりでもあった。
ガラッとドアが開いて、和真の母──真里が、顔を覗かせた。様子を見に来たらしい。
「あのー……うちの和真、真面目にやってます?」
いきなり一言目から疑われた和真は、憤慨した。「オレ真面目にやってるよ! ほら、もうこんなに飾り付けも進んでるし!」
「高いところはさすがに任せられませんが、よくやってくれてますよ」
鮫洲も苦笑してみせた。よかった、と真里は胸を撫で下ろす。遊び盛りの和真が迷惑をかけていないか、心配だったのだろう。
今は、午後二時半。パーティーの開始予定までは、まだ一時間半ほどはありそうだ。
「あの、何か足りないものってないかしら。もし何かあったら、私が買ってきますけど」
「和真くん、何かあるか?」
「オレはないよー」
「こら、ちゃんと敬語使いなさい!」
「えー。だってもうなんか、慣れちゃったし」
人の数が三人に増えただけなのに、狭い交番はたちまち声であふれ返る。パーティーが始まったらどうなるのだろう。
退屈そうに大口をあけてあくびをしたあおいが、丸くなった。人間だって眠くなる時間帯なのだ。ネコ、然り。すぐに気付いた和真が駆け寄って声をかけたが、もうあおいは夢の中である。
「こらー。こんなところで寝るなよー、あーおーいー」
致し方ない。踏んづけてしまわないように、隣の空き地に連れていこう──。慣れた手つきであおいを抱えた和真は、交番の真横にあるドアを引き開けて、フェンスで囲まれた交番敷地内の空き地に踏み込んでいった。
それをぼんやりと見ていた真里が、不意に鮫洲に尋ねてきた。
「──それにしても、交番内でクリスマスパーティーなんかなさってしまって、その……業務とかは大丈夫なんですか? うちの子のわがままでご迷惑、おかけしていませんか?」
ああ、と鮫洲は笑った。どうせ聞かれると思っていた。そのことについては、すでに所轄の警察署に届けてあるのだ。
「うちの交番の裏手、荒れ地になってるでしょう。あそこが再開発されて、この地域に人が増えた時のために、この交番はあらかじめ設置されたんです。なので今はこの交番が機能しなくとも、既存の交番だけで十分に対応できるんですな」
「はあ……。それじゃ、警察署のお墨付きなんですね」
「パーティーについては、むしろ積極的に宣伝をして地域に存在を知ってもらえ、とまで言われましたから」
そのくらいのことを言われなければ、鮫洲だってパーティーを開こうなんて思いはしない。鮫洲も職務に忠実な警察官の一人なのである。
「それならいいんですけど」
真里は微笑んだ。手が止まっていることを思い出して、鮫洲はまた三脚に足をかける。危ないですよ、と真里が三脚の足を握る。
パーティーの告知は近所の町内会の掲示板にも貼っておいた。少なくとも和真の友達は押し寄せてくると決まっているし、よその交番からも非番の人が何人か遊びに来ると言っていたが……。実際のところ、どれだけの人数が興味を持ってくれるのかは未知数でもある。
先日、裏手の荒れ地の再開発工事が着工するという話が飛び込んできた。こんなことができるのは今年だけだろうからな──。カレンダーを眺めていて、ふとしたようにそんな気持ちが浮かんだのを、鮫洲は今でも覚えている。
それもこれも、こういうことには積極的に関わってくれようとする和真みたいな子と出会えたからこそ、できたこと。
紙テープ同士を糊で接着しながら、このあとのことを少しばかり思い浮かべて、鮫洲はこっそり口角を上げたのだった。
和真とあおいは、高い空の下に出てきていた。
ゴオオオオ────ッ!
耳を打ち砕かんほどの轟音を上げて、すぐ至近の羽田空港を離陸した旅客機が和真たちの頭上をかすめてゆく。
「起きないなぁ」
和真は呆れた。ついさっきまでは盛んにちょっかいを出してきていたのに、飛行機の爆音を浴びてもあおいは目を覚まさない。最近はすっかり慣れてきてしまったのか、和真たちがつついたり撫で回しても、まるで反応を示さないようにまでなってきた。
ネコは気まぐれな生き物なんだと、どこかで聞いたことがある。
もっとも、大人数に怯えて逃げ出してしまうよりは、この方がよっぽどマシなのだが。このあとなんてたくさん人が来るだろうし──なんて考えつつ、ふさふさのしっぽで遊びながら、和真は笑いかけた。
「あおいー」
あおいは起きない。
「今日はクリスマスなんだぞー」
ぴくりとも動かない。
「久しぶりにみんなが揃うんだぞー。ユイもインフルエンザ治したし、トモの塾の冬期講習も今日で終わるんだってさー」
耳さえ反応しない。
和真もだんだん楽しくなってきた。ふんわりとした温もりをたたえたお腹を、可愛らしい手足の肉球を、あちこちいじり回す。
「オレ、去年はゲームソフトもらえたし、今年もすっごく楽しみなんだよー。あおいのところにもサンタさん、来るといいなー」
……パペットのように前足を動かして遊んでいたら、ようやくあおいが目を覚ました。不快そうな目付きで睨まれて、わ、と和真はようやく前足を解放した。「起きちゃったよ」
「にゃあーお」
抗議するように鳴いたあおいは、またしても身体をぐるりと器用に丸めて、動かなくなってしまった。
さぞかし嫌だったのだろう。なんとなく、それ以上あおいで遊ぶのが憚られて、和真はすることがなくなってしまった。
どうしよう。
本当は中に戻って装飾の手伝いをやりたいけれど、あおいをここに独りぼっちにしておくわけにはいかない。大きな鳥が狙っていたら、大変だ。
ごろん。
和真はあおいの隣に、寝そべった。
することがなくなった時の、和真たちの癖だった。
高い空から舞い降りた空気が暖かくて、ふわり、眠気が口元で膨らんで消えた。
あおいを一緒に飼っている仲間たちは、今頃、どうしているだろう。
先週からインフルエンザで登校できなくなっていた森ヶ崎優衣は、三日前にようやく全快したばかりだ。今はたまっていた勉強が忙しくて、準備には参加できないらしい。
十一月から学習塾に通い始めた鳥居友洋は、今日の午後三時まで冬期講習に追われているのだそうだ。四時からのパーティーには間に合うと、昨日は確かに言われたけれど。
結局、他のみんなも勉強や習い事が忙しくて、今日ここに来られたのは和真だけだ。その和真だって、明日は勉強に充てるからと母に懇願してようやく、準備に参加できているというのに。
あおいを飼うって決めた時は、もっとみんなの時間があったのにな……。こうやって少しずつ、みんなで集まれる機会も減っていくのかな──。
和真は少し、寂しくなった。すやすやと横で眠るあおいが、今は唯一の癒しだ。
我が身を省みれば、和真たちはもう、小学四年生。上級生になればなるほど、きっと勉強だって忙しくなるし、やらねばならないことも増えて、ネコみたいにのんびり気ままに遊べる日々はなくなっていくのだろう。その時、和真は、あおいは、どうなるんだろうか。
今までみたいに交番に立ち寄って、みんなで遊んだり、あおいを構ってあげられる時間は、消えてしまうんだろうか。
ただでさえ、和真たちがどうしても駆け付けられない時のお世話はお巡りさんに見てもらっているのに、それが当たり前になってしまうのだろうか……。
と。
目をぱっちりと開いたあおいが、起き上がって伸びをした。そして、
「あおい?」
尋ねた和真の隣に、潜り込んできた。
強引に脇の下に潜り込まれた和真は、くすぐったくてちょっと驚いた。和真が邪魔なわけでは……なさそうだ。
あたたかい。ネコっていいよなぁなんて、この時期になるとよく思う。外見なんてほとんど毛玉に等しいのだから、コートやマフラーに頼らなくとも寒くないに決まっているのだ。
そのあおいが急に、どうしたのだろう。
「あ、分かった」
和真は笑った。「さてはお前、オレがいじってあげないから寂しかったんだなー?」
あおいは和真の脇でじっとしている。かと思うと顔を上げて、和真の顔を覗き込んできた。
「違うの?」
言いながら、額を撫でてみる。それでもあおいは、和真のことを見つめ続ける。
そうか、と和真は気付いた。
逆だ。あおいが和真のことを、寂しそうだと思っているのだ、と。
言葉も何も通じない和真を慰めてくれようとして、あおいは寄り添うという行動を選んだのだ。優しいなぁ、と思った。寂しさがいっそう込み上げそうになって、代わりに和真はあおいを撫で返した。
「……大丈夫だよ」
それから自分にも、無言で言い聞かせた。
そうだ。今、和真の隣にはあおいがいる。未来が見通せなくたって、少なくとも今日はあおいと遊べる。みんなと会えるのだから。
これから忙しくなって、チャンスも減っていってしまうのなら、なおさら楽しめる時に楽しんでおきたい。だって、せっかくのクリスマスパーティーなんだもの。暗い気持ちでなんていられないし、いたくないではないか。
がらがらがら、と扉が開く音がした。顔を出した真里が、寝転がっている和真とあおいを変な目で見た。
「……何してるの?」
「あおいを構ってる」
違うよとでも言いたげに、あおいが起き上がってしまった。和真も釣られて、身体を起こす。あんたねぇ、と真里が苦々しい声を絞り出した。
「お手伝いしてるんでしょ? それに、そんなところに薄着でいたら風邪引くわよ」
和真もちょうど、そうする気だったのだ。
「入ろうな、あおい」
和真はあおいを持ち上げた。お腹を両手でつかんで持ち上げられると、あおいは力が抜けたようにふにゃりと大人しくなる。そのままあおいを連れて、和真は母の開けてくれた扉をくぐった。交番の中の方が、温かい。
鮫洲は高いところの飾り付けを終えて、三脚を畳んでいるところだった。
「お巡りさーん。あおい、どうしたらいいかな。このままだとオレ、ちっともお手伝いできないよ」
「だから敬語を使いなさい!」
「そうだな。そこのカゴの中に入れてあげるといいぞ。俺が調書を取ってる時、いつもそこに入れておくと静かになるんだ」
「へぇ、じゃあそうしよう。ほーらあおい、ここで行儀よくしてるんだぞー」
あおいをカゴの中に収めた和真は、あらためて交番の中を見渡した。半端に飾りつけの済んだだけの室内は、こうして少し時間を置いて見てみるとかえって無秩序で、まだまだキレイだとはとうてい言えそうになかった。
みんなが来る前に、もっと飾り付けを進めよう。それがオレの役目だもんね──。前向きな気合いが、戻ってきた。
「よっし!」
腕まくりをして、飾りの入った箱に手を突っ込む和真。いざという時にはすぐに出動できるように服務中の服装と装備をしていながら、ちゃっかりサンタの帽子を机の上に用意している鮫洲。その様子を、きょとんとした顔で眺めているあおい。あおいをときどき撫でてあげながら、じっと見守る真里。
きっと来年は見られない、いつもと違う交番の景色が、クリスマスイブの天空橋の入り口に早くも姿を現し始めてきていた。