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2016年/短編まとめ

いつか歯車が噛み合えば、きっと笑える

作者: 文崎 美生

「ボク、嫌いな子がいるんだ」


開っ放しの本には使い古された押し花の栞が挟まっていて、その横には温くなったココア。

高校生になっても珈琲が飲めない彼女は、仕方ない、と言った体でココアを飲む。

ミルク珈琲を作る気はないらしく、お気に入りの缶タイプのミルク珈琲しか飲まない。


「ボク、嫌いな子がいるんだ」


返事をせずにマグカップに入ったココアを眺めていたら、同じ言葉が聞こえてきた。

聞いて欲しいのか、その割には声に抑揚がない。

マグカップの持ち手に指先を絡めて持ち上げる。


「あの子はいつだって誰かの背中に付いて回る」


両手で包み込むようにマグカップを持った目の前の人間は、こちらを見もせずに視線をマグカップの中に落とす。

温いそれを啜って、僅かに眉を寄せた後に「その癖のんびりしてるし」と吐き捨てる。


「いつだってその子は周りに守って貰ってばかり」


ズズッ、とココアを啜る音がした。

それから小さく溜息を吐き出してマグカップをテーブルの上に置く。

人差し指でズズズッ、とマグカップを遠ざけるのを見て、それに手を伸ばす。


「居心地が良いからって、そこに留まることしか知らない癖に」


表情筋が固くて、死んでいると言っても過言ではないのに、ぐしゃりと歪む顔がそこにあった。

苦々しい、という表現の良く似合う表情だ。

緩やかに頷いてから、マグカップ片手に立ち上がった私は、台所へ向かう。


「その癖、吐き出す言葉は偽善的で偽悪的で全部が嘘臭い」


私が台所へ向かっても話は続いているらしい。

どんな顔をしているのかは分からないし、その声も酷く機械的なものだ。

聞こえないだろうと知りながら、そうね、と呟きながらやかんに水道水を入れる。


「八方美人にも似たあの態度が嫌い」


火にかけたやかんを眺めながらその声に耳を傾けた。

嫌い、嫌い、出て来るのは否定的な言葉で、ただその胸の内を聞いて欲しいだけのような気がする。

やかんの注ぎ口から見えにくい湯気が出ていた。


「おどおどして、周りばっかり見てるのが気に入らない」


あぁ、弱い草食動物とか小動物みたいよね、なんて言葉はきっと届かないだろう。

届かせるつもりもないけれど。

音を立てるやかんを見て、火を止める。

戸棚から取り出したのはインスタント珈琲。

飲まない癖に常備してあるのは、来客を考えてのことだろうか。


「あの見た目も声も体も心も、全部嫌い」


まるで唾を吐き捨てるように言い切る。

そうねぇ、なんて言うこともなく聞き流しながらマグカップを持つ。

ココアが入っていたマグカップを一度水に流してから、その水を切る。

その中に珈琲の粉を入れて、やかんで沸騰させたお湯を注ぐ。


「あんな子を好きだって言う人の気が知れない」


ふんわりと台所を包み込む珈琲の匂い。

使いもしないシュガースティックも常備されており、二つまとめて開け、注ぎ込む。

それから冷蔵庫の中に入っていた真っ赤なパッケージの牛乳を取り出す。

縁ギリギリまで入れて、私のマグカップに同じ容量で砂糖も牛乳も入っていない珈琲を入れる。


「皆、可笑しいんじゃないの」


自分が可笑しい、という考えには至らなかったのだろうか。

両手にマグカップを持って部屋に戻れば、開っ放しだった本が閉じられていて、背表紙が上を向いていた。

なんてタイトルの小説だっただろうか、思い出せない。


「皆が嫌いになれないから、もっともっとボクはあの子が嫌いになる」


まるでバランスを取るため、とでもいうような台詞だが、実際の所どうなのかは知らない。

別にその手のバランスなんて、私の知ったこっちゃないのだから。

だから何も言わずに、閉じられた本の横にマグカップを置く。


「皆が嫌いになれば、それで解決するのに」


立ち上る白い湯気を見ながら呟かれた言葉を聞きながら、目の前の椅子を引いて腰を下ろす。

ふんわりと消えて行く白い湯気。

小さくした唇を噛み締める目の前の人間は、続けるべき言葉を探しているようだった。


あぁ、そんなに噛み締めたら血が出るよ。

そっと手を伸ばす。

間には珈琲の香りが満ち溢れていて、ひくり、と鼻が動く様子が見れた。

噛み締められた下唇を指先で撫でてやれば、リップクリームでベタ付く。


「大丈夫よ」


私の言葉に、やっとこちらを見た。

真っ黒な瞳は光がなくて、まるで死んだ魚みたいだ、と思う。

それなのに睫毛は長くて量が多くて、人形みたい。

何が、ゆっくり動いた唇。


「アンタがあの子が嫌いでも、私はあの子が好きよ」


ぎゅっ、と横に引き伸ばされる唇。

強ばった顔だけれど、下唇を噛んで血を流すよりは幾分かましだと思う。

長い前髪を掻き分けて、その奥にあるその顔をもっと、と身を乗り出す。


目が逸らされる。

感情の映り込まない、ガラス玉の様な目は、マグカップに向けられていて、そっと持ち手に指を絡めた。

持ち上げたそれを、唇に寄せて一口。

小さな声で吐き出された珈琲、という言葉に笑う。


「私はあの子が好き。アンタはあの子が嫌い」


「大っ嫌い」


マグカップ片手に顔を上げた時、甘ったるい砂糖の匂いがした。

糖尿病にでもなるんじゃない、なんて忠告はするだけ無駄だ。

今更過ぎる。

アンタがあの子を嫌うくらい、今更。


「それでもあの子は愛される」


「愛さないで」


拒絶。

あまりにもハッキリした拒絶に、私の顔に苦笑が浮かび上がり、目の前の顔は不愉快そうに眉を寄せる。

眉間に刻まれた小さな皺。

人差し指でグリグリと皺を伸ばしながらあの子に――目の前の彼女に告げる。


「愛してるわ」


目の前の彼女は――あの子を愛せない。


「ボクはボクが大っ嫌いだよ」


うん、知ってる、なんて意味の無い同調。

あの子は彼女で彼女はあの子で、あの子は愛されて彼女は愛されて、あの子は彼女を認識しなくて彼女はあの子が大嫌いで、自己嫌悪ばかり。

――自己否定ばかり。


それでも私を含む、あの子を愛している人が沢山いる。

あの子を愛している人は、皆まとめて彼女を愛しているのだから。

そんな甘ったるい珈琲にも成れない珈琲が飲めるなら、ココアが飲めるなら、その愛だって受け止められるだろうに。


ゆっくりと首を横に振る彼女を見て、私は静かに息を吐き出す。

行き場がなくなっていた手で、彼女の白く柔らかな頬を一撫でしてやる。

一瞬、上がった眉を見逃すことなく私は繰り返した。


「のろまでもおどおどしてても、自信がなくても誰かに守られていても、偽善的でも偽悪的でも、変われなくても嘘を吐いても、見た目も声も体も心も、例え自分自身が嫌いでも、好きよ」


目の前の彼女の横髪を掻き上げながら言えば、体の力を抜くように肩が下がる。

甘ったるいミルク珈琲の匂いがする彼女に向かって、愛してる、を何度でも。

いつかその言葉を受け入れて、顔を歪めることなく、笑ってくれたらと思いながら、私は笑って苦さばかりの安いインスタント珈琲を飲み干した。

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