3.王太子の悩み事
ルークの最近の悩み事と言えば、婚約者のシェリーのことだった。
いや、そのほかにも悩みはたくさんある。それは兄のことであったり自分のことであったり、はたまたは政治のことであったり。
そんな数多くある悩みの中で、ルークが第一優先で解決したいと考えているのはシェリーのことである。
ルークの婚約者であるシェリーは風替わりな令嬢である。そんな彼女がルークの婚約者として認められているのは、彼女が公の場ではあまり喋らないからだ。
基本的に彼女は優雅な笑みを浮かべているだけ。その他諸々の回答はルークやリチャードが返すことが大半であった。
彼女も自分が変わっているという自覚はあるらしく、空気を読んで黙っている。
もっとも、彼女は頭の回転自体は良いため、不意打ちの質問に答えたりその質問をはぐらかして難を逃れるという術はあるのだが、彼女の普段の言動が言動だけにどうにも彼女に任せようという気にはなれなかったし、彼女自身も自信がないと言っていた。
そんな彼女が最近、会うたびにルークに問いかける。
「お慕いしている方はできましたか」と。
これは仮にも婚約者に対してする質問だろうか。
いや、彼女の中でルークの立ち位置はただの幼馴染みだということは十分理解している。しかし、それでもこの質問は酷いのでは、と思ってしまうのは彼女に惚れた弱みだろうか。
その質問をされるたびに「僕は君のことが好きだよ」と答えようとするのだが、答える前に彼女は「…わかりました。まだできませんのね」と残念そうにつぶやくのだ。
人の話を聞け、と叫びたくなるのはきっとルークだけではないはずだ。
はあ、とため息をつきたくなるのを堪えて城の中庭を歩いていると、ばったりととある令嬢に出くわした。
先日の夜会でうっかりとぶつかってしまった令嬢である。
彼女はルークの姿を確認すると目を見開いて、さっと顔を赤めて俯いた。
彼女くらいの年頃の令嬢にそういう反応をされているのは慣れていたので、ルークは別段気にせず彼女の隣を通り過ぎようとしたのだが、「…あの!」と彼女に呼び止められて足を止めた。
「先日は、ろくにお礼も言えずに申しわけありませんでした。私はセラフィーナ・ボーモンドと申します。改めて、先日はありがとうございました」
「いいや、礼を言われることじゃない」
気にしなくていいよ、と彼女に微笑むと彼女はさらに顔を赤く染めた。
そして視線を彷徨わせたあと、何かを決意したようにルークを見つめた。
「あの、ルークさま。私…」
彼女が何かを言いかけたその時、「あら」とルークにとっては聞きなれた可憐な声が聞こえて振り向くと、そこには目を見開いて手で口を覆っているシェリーの姿があった。
シェリーはすぐに表情を取り繕い、にっこりと微笑む。
「お邪魔をして申しわけありません。わたしはすぐに立ち去りますので、どうぞそのまま話をお続けになって」
そういうや否や、彼女はくるりと身を翻して歩き出す。
そんな彼女の姿をほんの少しの間呆然と見つめ、惚けている場合じゃない! と自分を叱咤した。
ルークはシェリーを追いかけるためにセラフィーナに向き合って、目を見開いた。
彼女はルークよりも動揺した面持ちでシェリーの去っていった方を見ていた。
「ど、どうしよう…シェリーさまに誤解されてしまったわ…」
顔を青ざめて、今にも泣きそうな表情で彼女は小さく呟いた。
しかしルークにはなぜ彼女がそんな表情を浮かべるのかわからない。
「セラフィーナ嬢…?」
「ルークさま、申しわけありません…!」
彼女はすごい勢いで頭を下げた。
あまりの勢いにルークは思わず一歩退く。
「私のせいでシェリーさまに誤解を…! 私に構わず、シェリーさまを追いかけて誤解を解いてください!」
「あ、ああ…」
早く行けと言わんばかりの彼女の勢いにタジタジになりながら、ルークはなんとか王太子としての表面を保って立ち去った。
背後からは彼女の「絶対に誤解を解いてくださいね!」という熱い声援を受けた。
(いったい、なんなんだ…?)
セラフィーナの行動に首を傾げながら、ルークは今日は厄日なのかもしれない、と思った。
その予感は残念なことに外れなかった。あのあとすぐにシェリーを追いかけて、セラフィーナとはただ挨拶をしていただけだと説明しても、シェリーは訳知り顔でわかっていると言わんばかりに輝く笑みを浮かべて頷くのみだった。
絶対わかってないだろ、とルークは内心でつっこみ、本日二度目のため息を押し殺した。
「……と、いうことがありまして」
ルークはさっそく兄王子であるリチャードのもとに押しかけ…もとい、訪ねた。
世界の終わりであるかのような表情をして説明するルークに、リチャードは表情をひきつらせながらも「なるほどな」と頷いた。
本心では「そんなくだらないことで押しかけるな!」と思っているのだが、口には出さない。口に出したら弟が泣き出すことが目に浮かぶからだ。
「シェリーは僕とセラフィーナ嬢が両想いだと思い込んでしまっているようで…僕がいくら言っても信じてくれないのです…兄上、僕はいったいどうしたら…」
ぶわっと涙を流し出す弟を、結局泣いてしまったな、と半ば遠い目をして見つめ、弟を慰めるようにその頭をぽんぽん、と軽く叩いた。
「シェリーには俺からも説明しよう。だからそう気を落とすな」
「兄上ぇ…」
きらきらと期待した眼差しをリチャードを見つめるルークに苦笑しつつ、リチャードはぽつりと呟いた。
「しかし…セラフィーナ嬢は何が目的なのだろうな?」
「さあ…? しかし彼女は他の令嬢とは少し違う感じがしました。少なくとも僕の婚約者の座を狙っていたり、愛人になろうと考えている様子はなかったと思います」
彼女と話した時間は短かったが、彼女はルークに自身のアプローチをするような行動はとらなかった。それどころか、シェリーに勘違いされたことに動揺していたくらいだ。彼女の目的は自分ではないだろうと、ルークは確信していた。
「…そうか。お前がそういうのなら、そうなんだろう。まあ、セラフィーナ嬢のことはおいて置き、問題はシェリーだな」
「…はい。もういっそ、すぐにでも結婚してしまおうかと…」
ルークはどこか虚ろで昏い笑みを浮かべて、不穏なことを呟いた。
リチャードは「まあまあ」と口ではルークを窘めつつも、それも手だな、と内心で思った。
二人が結婚をしてしまえば、きっとこんな風にルークがリチャードに押しかけることも減るのでは、と打算めいたことを考えた。
しかしその一方で、結婚したら結婚したで違う問題が発生して、結局は変わらないのではないかと思う自分もいて、どちらにせよリチャードが頭痛くなることに変わりはないのだろうな、と乾いた笑いを内心で溢す。
「とにかく、俺からもシェリーに話をする。それで誤解が解けるといいんだが…」
望みは恐らく薄いだろうという言葉は飲み込んだ。
なぜならルークがとても期待した目でリチャードを見つめていたからだ。こんな風に期待された目で見つめられて、期待に沿えないかもしれないなどと言うことは、リチャードにはとてもできなかった。
なんだかんだ言ってリチャードはこの弟が可愛いのだ。馬鹿な子ほど可愛いとはよく言ったものだ。
兄として出来うる限り弟の期待に応えようと、リチャードは思った。
思っただけで、結果としてはリチャードの予測通り、シェリーの誤解は解けなかった。
それどころか、婚約破棄の手伝いまでしてほしいと頼まれる始末だった。
どうやら彼女は心の底からお告げを信じているらしい。彼女は真剣そのものの目でリチャードに言う。
「婚約破棄すればみんな幸せになれるのですわ! ですからリチャードさま、どうかご協力してくださいまし」
おいしいお菓子も持っていきますから! とシェリーはリチャードに言った。
お菓子で釣られるほどリチャードは子供ではない。リチャードはシェリーよりも5つ年上なのだ。それなのに彼女は本気でお菓子でリチャードが釣れると思っているらしい。
確かにリチャードは大の甘党でお菓子が大好物だが、お菓子ごときで弟の気持ちを裏切るようなことはしない。………はずだ。
実はほんの少し心が動いたのだが、それは墓まで持っていくつもりである。
「シェリー、君はお告げを信じているようだが、お告げがすべて正しいというわけでもないんだぞ?」
「お告げが正しいというわけでもない?」
シェリーは小さく首を傾げて、とても不思議そうにリチャードを見つめた。
心の底なら何を言っているのかわからない、という顔である。
シェリーがそんな表情を浮かべるのもわからなくはない。それくらいこの国でお告げというものは幸福の証として認められているものなのだ。
しかし、だ。リチャードはそのお告げそのものを信じていない。
そして王族として決して口にはしてはいけないことだが、リチャードは神も信じていない。
リチャードは自分で目にしたもの以外は信じないという現実主義者だった。
そんな彼だからこそ、“お告げ”というもの自体を疑う。
「とある調査では、お告げをされて本当に幸せになれた人は三割程度だという結果が出ている。残りの五割がなんとなく幸せになれたような気がする、最後の二割が幸せになれた自覚がない、という結果だった」
「まぁ…」
「俺はお告げというのは、自分の願望が夢となって表れたものなんだと考えている。だからそういう結果が出たんだろう。要は自分がどうしたいか、ということなんだ。心から望んでいることを成し遂げれば幸せだと思うだろうし、望んでいたことが自分の願った通りの結果が出なくて結果幸せになれなかったりする。
だからシェリーも自分の望んでいる通りにすればいいと俺は思う。君は心からルークとの婚約破棄を望んでいるのか? 婚約破棄をして後悔しないと言い切れるのか?」
まあ、君たちの場合は個人の都合でどうこうできるものじゃないが、と呟いたリチャードの声はシェリーには届いていなかった。
シェリーは俯き、両手を胸に当てて考え込んだ。
リチャードは人の話を聞け、とつっこむのを堪えた。シェリーが自分の将来について真面目に考えているのだ。こんな些細なことで邪魔をしないほうがいいと考えた。
シェリーはたっぷりと時間をかけて考え、ようやく顔を上げた。
その顔はなにかを決意したような、引き締まった表情だった。
「リチャードさま、わたし、考えました。わたしがいったいどうしたいのか…」
「そうか。それで君の出した結論は?」
「わたしが出した結論は…」
リチャードはじっとシェリーを見つめてシェリーの出した答えを待った。
彼女はきりりっとした表情をして、リチャードに宣言をした。
「わたしは、お告げを信じますわ」
「………そうか」
リチャードは天を仰ぎたくなった。
(すまない、ルーク…やはり俺に彼女の説得は無理だったようだ…)
不甲斐ない兄を許してくれ、と心の中でルークに詫びるのであった。