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1.兄王子の憂鬱





 リチャードは一通りの書類を片付け終え、うーんと伸びをした。

 今日は早く仕事が片付いた。今夜はぐっすり眠れそうだ、と思ったとき、慌ただしい足音が聞こえ、ノックというにはいささか乱暴にドアが叩かれた。


「兄上! 兄上!」


 ドアの外から聞こえた声は、リチャードの弟であるルークのものだった。

 いつになく慌てた様子の彼の声に、リチャードはとても嫌な予感を覚えたが、かといってルークを無視するわけにもいかず、彼を部屋に通す。

 いつもは丁寧に整えられた髪や服をほんの僅かに乱し、ルークはとても焦った様子でリチャードに詰め寄った。

 ルークは縋るような目をしてリチャードを見つめて、「助けてください!」と開口一番に叫んだ。

 いつもは穏やかで冷静な弟の尋常でない様子に、リチャードも何があったのかと表情を引きしめて問いかける。


「そんなに慌てて…どうしたんだ、ルーク」

「大変なのです!」


 心底追い詰めたようなルークの表情に、なにか重大な――それこそ国を揺るがすような――事が起こったのかと、リチャードは身構えた。

 が、それに反してルークが世界が終焉を迎えると告げられたかような表情をして告げた台詞は、国を揺るがすことでも、なにか嫌な前触れがあったという訳でもない、とてもささやかなで、ある意味重大なことだった。


「シェリーが…婚約破棄したいと言い出しました…!」

「………は?」


 リチャードは不覚にもルークの言葉を理解するのに数十秒、時間を要した。

 それほどルークが言ったことは理解不能な台詞であった。


「…すまない、ルーク。もう一度言ってくれないか?」

「ですから、シェリーが婚約破棄をしたいと言い出したんです…!」


 ぶわっと今にも泣きそうな弟の様子に、リチャードは天を仰ぎたくなった。

(…今日はぐっすりと眠れると思ったんだけどな…)

 弟のこの様子ではぐっすり眠れそうもない。きっと朝まで泣き言大会が開催されることだろう。

 弟が婚約者であるシェリーのことで泣きついてきたことは一度や二度ではなく、泣き言大会を開催されるのも月に一度はあることだった。

 その大会が忙しい時でなくてよかったと喜ぶべきなのか。それともせっかくゆっくりと休めそうな夜に開催されることに嘆けばいいのか。

 どちらにせよ開催されることは決定事項なのだ。ならば、とことん付き合ってやろうではないかと、兄らしくリチャードは頼りがいのある表情を作り、ルークに話しかけた。


「その話、詳しく聞かせて貰おうか」






 正確に言うと、シェリーは婚約破棄をしたいと言い出したわけではなかった。

 ルークとのお茶会の最中に言ったとある台詞が原因で、ルークは焦ったのだ。


「ルークさま、聞いてくださいな。わたし、お告げがありましたの」


 ほわわん、という効果音が聞こえてきそうなほど、柔らかい笑みを浮かべてシェリーはまるで今日のおやつはマドレーヌなのですよ、と告げるかのような気軽さでルークにそう告げた。

 シェリーはミルクティーのような色のゆるやかな巻き毛に、透き通った湖のような青い瞳を持つ伯爵令嬢という身分で、尚且つ第二王子たるルークの婚約者でもあった。

 シェリーはルークの婚約者に相応しくなるように教育を受けた淑女であるが、箱入り娘たる彼女はとても夢見がちで、よく言えば癒し系、悪く言えば頭の悪そうな令嬢であった。

 もちろん、それはプライベートな時のみのことであり、彼女の頭自体は悪くない。むしろ賢い方だと思う。

 けれどそれに普段の行動がまったくと言っていいほど伴っていない。心を許した相手に対して彼女は不思議なことばかり言うのだ。


 「ルークさま、ご存じ? 赤ちゃんはキャベツ畑から収穫されるそうですわ」

 「人を食べる花があるそうですわ。それはどんなお花なのかしら?」

 「丸薬は噛むものではないとこの間、初めて知りました」

 「子供のころにしか会えない生き物がいるそうなんですの。わたしも会えるかしら…」


 どこからその知識を仕入れた、とつっこみを入れたうえで、その知識をシェリーに植えつけた相手をぶん殴りたい、と思うことがルークにとって常であった。

 それでもルークからしてみれば、彼女は可愛い可愛い婚約者であり、ルークがベタ惚れしている相手であるから、そんな摩訶不思議なことを言っても「シェリーは相変わらず可愛いな」と思ってしまい、彼女の夢見がちな発言も笑顔で聞いて、時にはつっこんでいた。恋は盲目とはまさにこのことだ。

 だから今回のことも、きっと彼女の夢見がちな発言の延長であろうとルークは軽く考えて、「へぇ、それはどんなお告げなの?」と余裕の笑みさえ浮かべていた。

 しかしルークのその余裕の笑みも、彼女の次の台詞で凍り付くこととなる。


「わたし、婚約破棄をすると幸せになるのですって」


 にこにこと、今日は良い天気ね、と告げるようにさらっと彼女は告げた。

 あまりにもさらっと言うので危うくルークは「へぇ、そうなんだ」と頷きかけて、我に返った。


「…ねぇ、シェリー。そのお告げは本物なのかな?」


 君の勘違いじゃないかなぁ、とルークはシェリーを傷つけないように気を付けて言う。

(婚約破棄をすると幸せになるだって? 冗談じゃない…!)

 シェリーにベタ惚れしている身としては、断固としてそれは阻止せねばならない。たとえそれが本物のお告げであったとしても、だ!

 そうだとも。ルークの未来図には必ずシェリーが隣にいて、今のようにのほほんと笑っていて、ルークそっくりの男の子とシェリーそっくりの女の子がいて、末永く幸せに暮らすのだ。

 きっとシェリーそっくりの女の子をお嫁に出すときはルークは号泣するに違いない。今でさえその光景を想像して涙が出そうなのだ。実際そうなったら号泣して顔が悲惨なことになるかもしれない。いやそれでは父親として格好がつかないから、そうならないように最大限の努力をしなくては。


 …というルークの妄想と言う名の現実逃避を打ち破ったのは、シェリーだった。

 彼女は相変わらずにこにことして「いいえ」とはっきりとルークの台詞を否定した。


「あれは絶対お告げですわ。神官さまにも相談したらそのように仰っておりましたもの。間違いありません」

「……そうなんだ」


 ルークは自分の笑みがひきつるのを感じた。

 この国にとってお告げとは、よくあることである。そのお告げ通りのことをすると幸せになれるというのはこの国の者なら誰もが知っている噂だ。

 なんでもお告げを受けると通常の人には見えない光が体から発せられ、そのお告げが叶えられるまで消えることはないのだという。

 そのお告げの光を見ることができるのは、厳しい修行を終えた高位の神官のみ。

 光を見てもらうにも多額な金額を支払わねばならないため、庶民たちは神官にお告げが本物かどうかみて貰うことはほぼないが、貴族ともなると話は別だ。

 シェリーの家であるチェスターソン家は、王子の婚約者に選ばれるだけはある格式のある伯爵家である。だから、十分にそのお金を払うくらいの余裕はあった。

 だからシェリーの言っていることは確かなんだろう。

 いや、それはいい。問題はそのお告げをシェリーが実行したいのか否か、ということだ。

 ルークは心から実行しないでくれ! と願った。

 最も、お告げがあった人の九割がたはそのお告げを実行するため、ルークのその望みは限りなく薄いとはわかっているのだが。


「ですから、ルークさま…」

「しないから!!」


 ルークはシェリーに決定的なことを言われる前に先手を打った。

 手はみっともなく震え、目はかすかに潤んでいるという、なんとも格好のつかない顔をしているが、そんなことを気にしている場合ではない。

 ルークにとってなによりも大事なのは、このままシェリーと婚約を続行し、そのまま結婚をする、ということだ。


「僕はぜっっったい、婚約破棄なんてしないからな!!!」


 目を大きく見開いてルークを見つめるシェリーに背を向けてルークは部屋を出た。

 名前を呼んで呼び止めるシェリーの声が聞こえた気がしたが、ルークは立ち止まらずにそのまま走り去った。

 そして、兄であるリチャードのもとへまっすぐに向かったのだった。




 事の起こりを聞いたリチャードは「なるほどな…」と呟くので精いっぱいだった。

 本当はため息をついて「余計なことに俺を巻き込むな!!!」と怒鳴り散らしたいのをぐっと堪えた。

 そんなことをしたら目の前でぐすぐすと泣いている弟がとても傷つくのがわかっているからだ。

 弟は普段はとても優秀な王子だ。だがその優秀な王子も婚約者が絡むと途端にダメ男になる。

 それもこれも惚れた弱みというやつらしい。まったくもって迷惑な話だ。

 いつもにこにこと底の見えない穏やかな笑みを浮かべている弟も、婚約者のシェリーが絡むと感情豊かになる。それはそれでいい事なのだとは思うが、逆にそれが弟の弱点となるのではないかと心配をしていた。

 が、その心配はまったくの無用であった。弟もシェリーも公私をきっちりと分けるタイプの人種であった。公の場での彼らに隙など見当たらない。

 ところが私的な場になったとたん、弟はとても感情的なダメ男になり、シェリーは不思議ちゃんと成り果てる。困った二人である。

 ある意味、お似合いで似た者同士だ。


「僕、どうしたらいいんでしょう…」


 ぐすっと鼻をさすりながら真っ赤な目でリチャードを見つめるルークに、苦笑をした。


「落ち着け、ルーク。まだシェリーは婚約破棄をしたいと言ってきたわけじゃない」

「ですが兄上。僕のこれまでの経験によると、シェリーは確実に婚約破棄したいと言ってくると思います…」

「…まぁ、確かに。シェリーなら…ああ、泣くな、ルーク」


 ルークの言葉に肯定しかけるとルークはぼろっと涙を流した。

 それを慌てて宥めて、涙をぬぐってやる。

(…俺はルークの母親かッ…!)

 そんな内心の突っ込みは心の奥深くに封印しておいた。突っ込みだしたらきりがないとわかっているからだ。


「…冷静に考えるんだ、ルーク。お前とシェリーの婚約は国の決定。そう簡単に破棄などできない。いくらお告げでもシェリーがそれを実行に移すのは不可能だ」

「…そ、そうですよね…!」


 ペカーンとルークは顔を輝かせた。

 ちょっと考えればわかりそうなことなのに今まで考えが及ばなかったのは、それだけルークにとって今回のことはショックだったのだろう。

 …もっとも、今までルークがシェリーのことで冷静になれたことがあったかどうかは謎である。


「ああ、そうだ。どちらかがよほどの醜聞でも起こさない限り、大丈夫だ」


 だから安心しろ、とリチャードが笑うとルークもようやく肩の力を抜いてくしゃっと笑った。


「…ありがとうございます、兄上。兄上に話を聞いて頂けて、すっきりしました」


 ルークは晴れやかな笑みを浮かべて部屋を出ていく。

 その背中を見送り、まったくしょうがない弟め、とリチャードが何気なく外を見ると愕然とした。

 先ほどまで夜ですらなかったはず。なのになぜこんなに空が白い。

 

「………は、ははは…」


 リチャードは力なくソファーに倒れこんだ。

 もう乾いた笑いしか出てこない。

 そして今度はリチャードが涙目になった。


(~~~~あの二人のせいで……ッ!!)


 こうしてリチャードは一睡もすることなく、爽やかな朝を迎えることとなったのだった。




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