君の過剰なまでの執着《あい》
――これから先は行っちゃ駄目。ひなたはグリフォンが眠ってるのよ。起こしたら大変だわ!
――この池は旋回して。底なしなのよ。
――ああ、帽子屋さん。このキノコを食べちゃったら体が大きくなるんじゃないの。ただ、首が伸びちゃうだけ。だからお願い、食べないで。もうすぐ三月ウサギの家に着くから。
アリスは本当に、不思議の国のことをよく知っている。
もしかしたら、僕よりも詳しいのではないかと思うくらいだ。
まだここへ来て一年も経っていないというのに、彼女はこの世界によく馴染んでいた。
最初は、〝アリス〟だからだと思っていたけれど。最近、そうではない気がしてる。
彼女は……昔からここを知っていたんじゃないのか?
だから、僕でも知り得ない情報を知っている。
そう考えたら色んなことが腑に落ちるんだ。
だって、そうだろ?
普通、こんなイカレた(イカレてる僕が言うのもどうかと思うが)国に来たら、発狂するんじゃないのか。
過去この世界に来た異世界の住人達はショックで記憶障害になったという記述を読んだことがある。
……〝アリス〟だから。
このことを芋虫に訊いたら多分芋虫の奴は、彼女はアリスだから狂わないとでもいうんだろう。
「帽子屋さん? どうしたの?」
可愛らしく首を傾げて、ブルーのエプロンドレスを着た少女が僕を振り返る。悪戯っ子そうな眼差しはとても生意気で、生き生きとしている。
僕の抱える違和感を拭い去るくらい、アリスはアリスらしい。
不思議の国のお伽話として伝わる本物のアリス。
今僕の目の前にいる少女は、僕が見たことのあるお伽話に出てくるアリスそのものだ。
金色の巻き毛に青い目。僕と同じ色彩を持つ少女。屈託なく、独り言が多くて。頑固なところはあるけれど、感情が豊か。
でも、僕は知ってる。
彼女は何か隠してる。
アリス、と呼んでもたまに振り向かないことがある。
ふと、彼女の名前は本当にアリスというのか疑問を持った。もしかしたら、本当は違う名前だから咄嗟の時、反応出来ないのではないか、と。
いつもならとち狂った会話で混ぜっ返すのが僕の役割なんだけど、少し気になった。
僕は足を止めた。先を行くアリスも立ち止まる。
色鮮やかな鳥達が一斉に囀り出す。
「君の本当の名前は?」
「…………帽子屋さん、何言ってるの」
アリスだよ、とアリスは答える。
森の中は薄暗くて、アリスの顔の上半分が隠れている。これでは目の動きを読むことも出来ない。
笑い声がする。その笑い声は、チェシャ猫を連想させる。何でも知っているような響きがあった。
アリスは柔らかく笑んで、僕に抱きついてきた。
「アリス……離せ」
これくらいで慌てたりしない。僕は冷静にアリスを引き剥がそうとする。彼女は首を横に振った。
「嫌」
「まるで駄々っ子だな」
「ええ、そうよ。あたしは……アリスは駄々っ子よ」
今にも泣き出しそうだ。アリスの声は震えている。
僕は彼女が訊いて欲しくない、核心に少しだけ触れてしまったのだろう。
僕は降参のポーズを取る。
「わかったよ。ごめん。もう訊かないから泣かないで」
ガバッとアリスは顔を上げる。
「…………帽子屋さん。約束して」
彼女の瞳があまりにも真剣だったので、僕は佇まいを正した。
アリスらしくない、大人びた表情で彼女は赤い唇を開く。
「この世界を知ろうとしないで。知らないことはあたしが芋虫や他の人に聞いてきてあげる。だから、絶対に帽子屋さんだけで何か調べようとしたり動いたりしないで」
「アリス、それは……」
アリスの言いたいことが良くわからない。いつもみたいに聡明ぶっているだけには見えないが、彼女が暗に何を言っているのか理解に苦しむ。
アリスはふと睫毛を伏せて、唇を僕に寄せた。
「あたし……他の人達がどうなってもいい。ただ、帽子屋さんが生きててくれたらいいの」
「この国の人は皆、好き。でも、帽子屋さんだけは特別好き。賭けてもいいわ」
「帽子屋さんは帽子屋さんのままがいい」
「ねぇ、大好きよ」
まるで、甘い毒。
彼女は僕の思考を熔かす。
過剰なまでのアリスからの執着が、僕を絡め取って自由を奪って行く。でも、それは苦痛ではなく。
真実は何一つ不確定なまま、今日も僕は不思議の国でアリスと共にいる。