放棄した未来《さき》
細い金糸のような髪が少女の前で揺れる。いつも目深にかぶっている帽子は地面へ落下した。
麗しい顔に満面の悲哀を浮かべ、少年は最期に蒼い目を少女へ向ける。
「アリス」
少年は優しく少女の名を呼んだ。甘い声は耳に残って消えてくれない。
◆ ◆ ◆
僕にとってのワンダーランドは、とても窮屈なものだった。
『帽子屋』という役割を押し付けられて、演じて行くうちに自我が消失していった。
君にずっと黙ってたけど……父親からマッド=ハッターの名前を引き継ぐことになった時、泣いたんだ。
嫌だった。
父が死んだら帽子屋としてワンダーランドに存在しなければならないことを聞かされて育ったけど、いざ本当にその時が迫って来ると絶望した。
ただ、僕は帽子を作っていたかった。帽子を作る際に使う水銀によって度々気が触れてしまうけど、帽子を作っている間だけはこのおかしな世界のことを忘れられたから。
だから、アリス。
君がこの世界に来た時、僕は関わるつもりなんて毛頭なかったんだよ。
善悪の境が曖昧なワンダーランドに、僕はほとほと嫌気がさしてた。
皆が君と遊びたがっている横で、ずっとおかしなお茶会を開催していた。三月ウサギも眠りネズミも、君をお茶会に招待したがっていたけれど、僕が頑として許さなかったんだ。
――だって、この世界に受け入れられる存在もまた、狂っているものだから。
今までのアリスと一緒で、君も狂っているんだと思った。
でも、違ったね。
勘違いして勝手に遠ざけた僕を許してほしいなんて今更言わないけど、弁解はさせてほしい。
ワンダーランドの内情に打ちひしがれて絶望し、涙しながらもとの世界に帰ろうと一人立ち上がった君を見た瞬間、僕の心は震えた。
まるで、神様が現れたかと思った。
君さえいれば、この世界は変わるとさえ思った。
白ウサギも言ってただろう?
君は少し心を閉ざしているだけで、本当はとても好奇心旺盛な真っ直ぐな少女なんだ。まるで、本物のアリスみたいに。
もっとも、僕は世代交代してる帽子屋だからね。オリジナルのアリスを見たことはないけれど、おとぎ話に出てくるアリスと君はとてもよく似ていると思う。
だから、手を差し伸べた。
ねえ、アリス。
君と出会った頃、僕は空っぽだった。
何もかも役割によって奪われて、狂ったお茶会で狂った会話をするただの奇人だったのさ。
君は何度も「自分はアリスなんかじゃない」って言っていたけれど、僕にとっては君だけが唯一のアリス。
大丈夫。必ず君をもとの世界に帰してあげるから。
僕の未来を放棄したとしても、君だけは自由にしてあげるから。
さあ、扉を開けて。
◆ ◆ ◆
不思議の国にある小高い丘。そよそよと白い頬を撫でるように風が通り過ぎて行く。
アリスは涙に濡れた目を開き、起き上がる。
彼女はうずくまり、脳裏に焼きついた金髪青目の少年を思い、再び泣いた。
「マッド=ハッター」
呟いた声は誰も聞いていなかった。