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第二章 双子の塔 2

エミリアは図書室の奥深く、埃と古紙の匂いが沈殿する重い静寂の中で、一人、古びた書物の山と格闘していた。

蝋燭の頼りない光が、羊皮紙に記されたインクの染みを微かに照らし出す。


先ほど発見した『暁の使徒』による資材提供のメモ。

その決定的な証拠のかけらを補強するものを探そうと、彼女は修道院の年代記や過去の会計日誌を渉猟し続けていた。

しかし、指先がインクで黒ずみ、何時間も続けた試みは徒労に終わりつつあった。


公式の歴史は、あまりに清廉で、完璧すぎた。

ページを繰るたびに現れるのは、聖女マチルダの奇跡的な功績を、美辞麗句で飾り立てた記録ばかり。

その裏にあるはずの矛盾も、不自然な記述も見当たらない。


まるで熟練の職人が、歴史という宝石から瑕疵かしを一つ残らず磨き上げ、消し去ってしまったかのようだ。

しかし、その完璧すぎる隠蔽工作こそが、エミリアの抱いた疑念を、かえって燃え盛る確信へと変えていた。


聖都の光も、審問官の厳しい目も届かぬこの辺境の地。

独自の信仰を守り続けるには、これ以上ないほどの揺り籠だ。

外部からの干渉を拒むかのように聳える山々、そして敬虔な祈りという名の分厚いベール。

ひょっとすると、この沈黙の仮面の下で、今も「暁の使徒」たちが、その教義を密かに受け継ぎ、暮らしているのではないか。


そこまで考えた時、張り詰めていた思考の糸がふと緩み、不意にクレアの屈託のない笑顔が脳裏をよぎった。


エミリアは顔を上げた。

視線の先、図書室の隅で聖人の伝記を読んでいた修道女に目を向けた。シスター・アガタ。

エミリアがここに来てからというもの、まるで影法師のように、常に一定の距離を保って静かに佇んでいるシスターだ。

その存在は、親切な案内役というよりは、冷徹な監視者の気配をまとっていた。


「シスター・アガタ、私の連れを見かけませんでしたか。少し、姿が見えないもので」


エミリアの声は、静寂の中で思いのほか大きく響いた。

アガタは、まるで時が止まったかのようにゆっくりと顔を上げた。フードの影になったその表情からは、感情の一片すら読み取れない。


「さあ…? 存じ上げません。私はずっと、この聖人伝を読んでおりましたので」


その抑揚のない平坦な声は、エミリアの問いかけを壁のように拒絶していた。

彼女は自分を監視するためにここにいる。監視対象ではないクレアのことなど、はじめから関心の外なのだろう。

エミリアはそれ以上の追及が無意味であることを悟り、無言で頷くと席を立ち、図書室の重い扉を押した。


建物の外に出た瞬間、夕暮れ前の冷たい空気が肌を刺した。

そして、言いようのない嫌な予感が、まるで氷の指のように彼女の心を撫でた。


その時だった。


エミリアは、世界の理がわずかに軋むような、常人には決して感知できない微かな感覚を捉えた。

それは、魂の奥底を揺さぶる力の奔流。

遠くで、クレアがその身に宿す膨大な「力」を解放している。

そこには訓練の際に感じられる抑制や制御は微塵もなかった。

躊躇いも、手加減もない、生命そのものを薪にして燃やすかのような、絶望的で激しい光だった。


エミリアは即座に意識のすべてを、その気配を探ることに集中させた。

目を閉じると、世界の色彩が消え、万物が放つ生命の光だけが魂の網膜に映し出される。

その無数の光の糸の中から、ひときわ強く、激しく燃え盛っては明滅する一点の輝きを見つけ出す。


その絶望の信号が発せられている場所は、一つしかなかった。

修道院の東、切り立った崖際に立つ、あの漆黒の双子の塔だった。


思考の結論と、魂が捉えたクレアの危機は、寸分の隙間もなく一つに重なった。

エミリアの身体は、思考よりも先に地を蹴っていた。

修道院の中庭を一直線に突っ切り、東の崖へと続く苔むした石畳の道を目指す。

しかし、その行く手を阻む影があった。シスター・アガタだ。

いつの間に回り込んだのか、中庭の出口に、まるで鉄の壁のように立ちはだかっている。


「お待ちください、エミリア様。その先は、許可なく立ち入ることは許されておりません」

いつもの抑揚のない声ではない。静かだが、鋼のような硬質的な響きがあった。


「道を空けなさい、シスター。急いでいます」

エミリアは速度を緩めずに言い放つ。だが、アガタは微動だにしない。


「それはできかねます。さあ、お戻りください」


クレアの命が、一刻一刻と削られていくのがわかる。

エミリアはアガタの目前で急停止すると、燃えるような瞳で監視者を見据えた。


「私の連れが、あの塔で危機に瀕しています。これは私の個人的な問題であると同時に、聖庁の審問官としての公務でもあります」

エミリアの声は、彼女の立場が持つ権威の重さを帯びていた。


「存じ上げません。私はただ、院長の言いつけを守るだけです」

アガタは表情一つ変えずに答える。


「ならば、その院長に伝えなさい」

エミリアの声は、冬の夜気のように低く、研ぎ澄まされていた。

「審問官の公務を妨害し、その結果、私の同伴者に何かが起きた場合、その責任はすべてあなたと院長が負うことになると。これは取引ではありません、シスター。通告です」


アガタの肩が、僅かに震えた。

フードの奥で、感情の凍てついた瞳が、エミリアの揺るぎない意志を計るように見つめ返す。

院長の命令と、審問官の権威。その二つを天秤にかけ、アガタは唇を固く結んだ。


沈黙が、二人を支配する。

風の音だけが、張り詰めた空気の中を通り抜けていく。

やがて、アガタはゆっくりと脇にずれ、道を空けた。


「…お行きなさい」

絞り出すような声だった。

「ただし、何が起きようと、それはすべて、あなたご自身の責任です」


エミリアは返事もせず、疾風のように彼女の横を駆け抜けた。

背後からアガタの複雑な感情の入り混じった気配が突き刺さるが、もはや振り返らない。


肺が氷の刃で抉られるような痛みを訴える。

だが、それ以上に鮮明になるのは、魂の網膜に映るクレアが放つ力の奔流。

それはもはや、ただ激しいだけの光ではない。

絶望的な抵抗、声にならない悲痛な叫び、そして、嵐の中の蝋燭のように、今にも消え入りそうに揺らめく命そのもの。

エミリアには、そのすべてが、自らの痛みとして感じられた。


一体、塔の中で何が起きているのか。

最悪の想像が、エミリアの心を黒い靄のように覆っていく。


崖際に立つ双子の塔は、近づくほどにその威圧感を増していく。

まるで古代の巨人が遺した墓標のように天を突き刺す黒曜石の巨塊は、夕暮れの赤い光さえ拒絶し、不気味な影を長く地上に伸ばしていた。

二つの塔を結ぶ渡り廊下が、まるで獲物を待ち構える巨大な獣の顎のように見えた。


エミリアはクレアの力の残滓を追い、塔の裏手、崖に面した場所へと回り込んだ。

そこに、古びて錆びついた鉄の扉があった。

そして、その扉は――わずかに開いていた。

足元には、巨大な南京錠が落ちている。尋常ならざる力で捻じ曲げられ、分厚い鉄の吊り金具が無残に引きちぎられていた。


エミリアは引きちぎられた鉄塊を一瞥し、眉一つ動かさなかった。

驚きはない。ただ、クレアがこの手段に訴えざるを得なかったという事実が、最悪の事態を裏付けていた。

もはや、一刻の猶予もなかった。


彼女は錆びついた鉄の扉を押し開き、躊躇なくその身を滑り込ませた。


扉の向こう側から、黴と、そして微かな血の匂いが混じった濃密で冷たい空気が、まるで溜め息のように溢れ出した。

暗闇の奥へと続く、どこまでも続くかのような螺旋階段が、奈落への入り口のようにぽっかりと口を開けている。


そして、その闇の底から、クレアの苦痛に満ちた力の残響が、より一層強く、悲痛に、エミリアを呼んでいた。

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