第二章 双子の塔 1
1
ルメリア修道院の巨大な門扉は、重々しい音を立てて内側から開かれた。現れたのは、顔に深い皺を刻んだ年配の修道女だった。彼女は門番らしく、何の感情も浮かばない目で二人を値踏みするように見つめると、「何の御用ですかな」と問いかけた。その声は、長年使われていない井戸の底から響いてくるように、乾いて冷たかった。
「聖都から参りました、異端審問官のエミリア・フェスターロットと申します。こちらは助手のクレア。院長様にお目通りを願いたい」
エミリアは懐から審問官の身分を示す銀の証を取り出し、提示した。門番の修道女は、その証を一瞥すると、表情をわずかに動かした。驚きか、あるいは警戒か、判然としない。
「……お待ちしておりました。院長がお待ちです。こちらへ」
男が手紙を渡そうとした時はあれほど頑なだった扉が、いとも容易く開かれた。やはりあの男の話には何か裏がある。エミリアはクレアと目配せを交わしながら、静まり返った修道院の敷地へと足を踏み入れた。
案内されたのは、修道院の中枢にある院長室だった。部屋は質素だが、隅々まで磨き上げられ、厳格な気品に満ちていた。壁には聖アウレルの苦行を描いたタペストリーが掛けられている。
院長は、痩身で背筋をまっすぐに伸ばした、剃刀のように鋭い印象の老婆だった。彼女は二人を一瞥すると、手元の書類から目を離さずに言った。
「ようこそ、ルメリアへ。審問官殿。長旅でお疲れでしょう」
「お心遣い感謝いたします、院長様。早速ですが、我々がここへ参りました目的はお分かりのはず。シスター・マチルダへの聴罪を執り行うために参りました。ご本人へのお取り次ぎをお願いしたい」
エミリアは単刀直入に切り出した。院長はゆっくりと顔を上げ、その鳥のような鋭い目でエミリアを射抜いた。
「あいにくですが、マチルダ様は今、お風邪を召されて臥せっておられます。高齢でいらっしゃいますから、些細な病でも大事をとらねばなりません。お会いになるのは難しいかと」
「お体の具合が優れないのは承知の上です。しかし、マチルダ様ご自身が、告解を強く望んでおられる。ご本人の魂の救済は何よりも優先されるべきだと、私は考えます」
エミリアは一歩も引かなかった。昨夜の廃屋での一件が、彼女の疑念を確信に近いものへと変えていた。この修道院は、何かを隠している。
院長は、冷たい笑みを唇の端に浮かべた。
「お若い方は、情熱的でよろしいですな。ですが、審問官殿、よくお考えなさい。マチルダ様はこの修道院の、いえ、教会全体の宝であらせられる。もし、あなたの強引な聴罪がお体に障り、万が一のことがあれば……その責任を、あなたはお取りになれるのですか?」
その言葉は、静かだが抗いがたい圧力を持っていた。新米の審問官であるエミリアが、生ける聖女の死の責任を問われる。それは、彼女の、そしてフェスターロット家の破滅を意味した。
「……承知いたしました。マチルダ様のご回復を待つことにしましょう」
エミリアは、悔しさを押し殺してそう答えるしかなかった。
2
面会を拒否されたエミリアは、代わりに一つの要求をした。
「マチルダ様のご回復を待つ間、こちらの図書室をお借りしてもよろしいですかな。この修道院の歴史について、少しばかり学んでおきたい」
院長はしばらく無言でエミリアを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「よろしいでしょう。ただし、禁書庫への立ち入りは許しません。シスター・アガタ、ご案内なさい」
院長の背後に控えていた若い修道女が、二人を図書室へと案内した。
図書室は天井まで届くほどの書架が並び、古書の黴とインクの匂いが混じり合った、独特の空気に満ちていた。
「エミリア、少し外の空気を吸ってくる」
「あまり問題を起こさないようにね」
クレアが出ていくと、エミリアは早速、修道院の年代記や過去の記録を渉猟し始めた。彼女は、マチルダが再建したという「公式の歴史」の裏に隠された矛盾点や不自然な記述を探し出そうと、驚異的な集中力で書物のページをめくっていく。
年代記には、マチルダがわずかな信者と共に、神の奇跡的な助けを得て廃墟からこの壮麗な修道院を築き上げたと記されている。しかし、資材の調達方法や、労働力についての記述は曖昧で、都合よく省略されているように見えた。
何時間も経った頃、エミリアは古い建築日誌の束の中に、奇妙な記述を見つけた。それは、再建初期に記されたもので、使われている資材の量や作業工程が克明に記録されていた。その記録の末尾に、当時の会計係が記したと思われる小さな走り書きがあった。
――『暁』の民より資材提供。対価として『地下聖域』への自由な出入りを許可。これは聖女様の御心か、それとも…
『暁』。その言葉にエミリアは息を呑んだ。教会がかつて激しく弾圧した異端信仰、『暁の使徒』。彼らのシンボルが『暁の星』であったことを、彼女は審問官としての教育で学んでいた。
この修道院の再建に、異端者が関わっている? そして『地下聖域』とは?
走り書きは、その部分だけインクで塗りつぶされようとした跡があった。歴史を改竄しようとした者がいたのだ。エミリアは、自分が巨大な秘密の入り口に立っていることを確信した。
3
その頃、クレアはあてもなく歩いているうちに、修道院の敷地の外れ、崖っぷちに立つ二つの塔の前にたどり着いていた。修道院に似つかわしくない漆黒の双子の塔だ。片方は鐘楼らしく、上部に開口部がある。しかし、もう片方の塔は窓一つなく、ただ天に向かって伸びる黒い石の柱のようだった。
クレアは、何かに引き寄せられるように、その不気味な「沈黙の塔」へと近づいた。塔の石壁に手を当てた、その時だった。
クレアの「授かりし力」の一つである、研ぎ澄まされた聴覚が、壁の向こうから微かな音を拾った。それは石を爪で引っ掻くような、か細い音。そして、風の音に混じって、ほとんど意識しなければ聞き取れないほどの、すすり泣くような声が……。
――たすけて……クレア……
ルチアの声だ。幻聴ではない。
「ルチア!」
クレアは叫び、塔を駆け足で一周した。姉への報告も、行動計画も、後先のことなどすべて頭から消し飛んでいた。ただ、友の絶望的な声に応えなければならない、という衝動だけが彼女を突き動かしていた。
塔の裏手、崖に面した場所に、古びて錆びついた鉄の扉があった。巨大な南京錠が掛けられているが、それはクレアにとって何の障害にもならなかった。
彼女は深呼吸して意識を集中させる。エメラルド色の瞳が、猫のように銀色に変わった。身体の奥底から力がみなぎってくるのを感じながら、南京錠の分厚い吊り金具を両手で掴む。
ギリギリと金属が軋む音が響き、クレアの指の間に凄まじい圧力がかかる。だが、彼女は歯を食いしばり、さらに力を込めた。バキン!という甲高い音と共に、鍛えられた鉄の金具が飴のように捻じ曲がり、引きちぎれた。
クレアは扉を押し開け、塔の内部へと滑り込んだ。
中はひんやりとした黴臭い空気がよどみ、外からの光がほとんど入らないため、完全な闇に包まれていた。壁伝いに、螺旋状に上へと続く石の階段がある。クレアは手探りで階段を駆け上がった。
上へ、上へと。終わりなく続くかと思われた階段の先に、不意に光が見えた。最上階の部屋の扉の隙間から漏れる、蝋燭の光だ。
クレアは息を潜めて扉に近づき、隙間から中を覗き込んだ。
部屋の中央に、一人の少女が椅子に縛り付けられていた。痩せこけ、憔悴しきったその顔は、間違いなくルチアだった。
そして、そのルチアの背後に、黒いローブを纏った人影が立っていた。
クレアは凍りついた。
それは、昨夜、自分たちが倒したはずの、セリーヌの化け物だった。顔の左半分の皮膚は剥がれ落ち、白い頭蓋骨を覗かせている。その手に握られているのは、血の気を失った灰色の腕に不釣り合いな、樵が使う大きな斧。
化け物は、クレアの侵入にまだ気づいていない。ただ、ぐったりとしているルチアの顔を、空虚な眼窩でじっと見下ろしている。
クレアは音もなく背中の大剣に手をかけた。助けを呼ぶ余裕はない。今ここで、この化け物を仕留めるしかない。
姉の顔が脳裏をよぎった。『問題を起こさないようにね』――その言葉は、もう届かない。クレアの心は、ただ一つ。友を救うという決意だけで燃え上がっていた。