第一章 荒野の修道院 6
1
化物の首が胴体から離れ、床に転がった。重い衝撃音を最後に、動かなくなった身体は黒いローブに包まれたまま、物言わぬ塊としてそこにあった。クレアは大剣を杖のようにして床に突き立て、荒い息を整えた。夜明け前の冷たい空気が、割れた窓から流れ込み、汗ばんだ肌を刺す。エミリアは壁に背を預け、傷ついた肩を抑えながら、静かに目を閉じていた。治癒の力を使うために意識を集中させているのだ。彼女の額に滲んだ脂汗が、戦いの激しさと痛みの深さを物語っていた。
やがて、東の空が白み始め、最初の陽光が一条の矢となって部屋に差し込んだ。光が化物の骸に触れた瞬間、信じられないことが起こった。骸はまるで陽炎のように揺らめき、光の粒子となって霧散し始めたのだ。斧も、引き裂かれたローブも、床に飛び散ったはずの血痕さえも、すべてが朝日に溶けるように消えていく。後には、びくともしなかったはずの扉が根元から外れ、壁に大きな穴が開いているという惨状だけが残された。
「……夢でも見ていたのか」
クレアは呆然と呟いた。死闘の痕跡は確かにある。だが、元凶であったはずの化物は跡形もなく消え失せた。まるで悪夢から覚めた朝のようだ。しかし、身体に残る疲労と痛みは、それが現実であったことを雄弁に語っていた。
さらに奇妙なことは続いた。昨夜は清潔に磨き上げられ、人の暮らしの温もりが感じられたはずの建物が、まるで何十年も打ち捨てられていたかのように様変わりしていたのだ。床には埃が厚く積もり、壁には蜘蛛の巣が幾重にも張られている。食堂へと続く廊下を覗くと、昨夜ご馳走になったオーク材の立派なテーブルは、脚が折れ、天板にはびっしりとカビが生えていた。すべてが腐り落ち、朽ち果てていた。
「どういうことなんだ……ルチアは? マチルダ様は?」
クレアは叫ぶように言った。エミリアはすでに立ち上がり、痛む肩を庇いながら、変わり果てた別院の中を慎重に調べていた。どの部屋も同じだった。人の気配など微塵もなく、ただ静かな荒廃が支配しているだけだった。
「ここにはもう誰もいない。私たち以外は」
エミリアは冷静に告げた。
「じゃあ、昨日のことは全部幻だったっていうのか? セリーヌも、ルチアも、あの食事も……」
「そう考えるのが合理的でしょうね。何者かが私たちに幻覚を見せたのかもしれない」
「そんなはずはない!」クレアは声を荒らげた。「私はルチアと話したんだ。彼女の悩みも、苦しみも、この耳でちゃんと聞いた。彼女が私を助けるために、あの剣を投げてくれたんだ。あれが幻であるはずがない!」
クレアはルチアの小さな手のぬくもりを、頬に触れた吐息の感触を、はっきりと覚えていた。悲しみに満ちた瞳も、自分を気遣ってくれた優しい声も、幻なんかではなかった。
「あなたの気持ちはわかる。でも、この現実を説明できない」エミリアは静かに諭した。「とにかく、ここに長居は無用だ。本来の目的地、山上の修道院へ向かいましょう。そこに答えがあるかもしれない」
エミリアの言う通りだった。こんな場所で途方に暮れていても何も始まらない。クレアは頷くと、姉から投げ渡された鞘に大剣を収め、廃屋と化した別院を後にした。
2
杣道は断崖を縫うように、つづら折りに続いていた。登るにつれて風が強くなり、吹き付ける砂が頬を打つ。クレアは黙々と足を運んだ。頭の中はルチアのことでいっぱいだった。
『こんな牢獄に居るような暮らしが、神様の御心に叶うのなら、神様はなんて偏屈で意地悪な方なんだろう』
昨夜のルチアの言葉が、苦い記憶を呼び覚ます。貴族の家に引き取られたばかりの頃、クレアもまた同じように神を呪った。王都の路地裏から連れてこられた彼女を待っていたのは、美しくも冷たい牢獄だった。
教育係としてつけられた女中頭のマーサは、鉄のように厳格な女だった。彼女はクレアの言葉遣い、歩き方、ナイフとフォークの持ち方に至るまで、貴族の子女として完璧であることを求めた。少しでも間違えれば、その手にした細い鞭が容赦なくクレアの背中やふくらはぎを打った。
路地裏の言葉が抜けず鞭打たれ、スープを音を立ててすすったと鞭打たれ、ドレスの裾を汚したと鞭打たれた。豪華な食事も、クレアにとっては砂を噛むような味しかしない苦痛の時間だった。弟のためだと歯を食いしばり、涙を堪えた日々。ルチアもまた、望まぬ場所で、同じような孤独と絶望を味わっていたに違いない。
彼女は確かに存在した。そうでなければ、あの絶望的な状況を切り抜けられたはずがない。
(必ず見つけだす。そして、今度こそ私が彼女を助けるんだ)
ルチアが最後に囁いた言葉が蘇る。『おやすみになるときは、必ずドアに鍵を掛けてください。そして誰が来てもけしてドアを開けないこと。夜明けまでは』
彼女はセリーヌが化け物となって襲ってくることを知っていたのだ。そして、それを自分たちに伝えようとしてくれた。
「どうしたの、クレア。足が止まっているわ」
いつの間にか考えに没頭していたらしい。エミリアが少し先で振り返っていた。
「なあ、エミリア。本当にルチアは幻だったと思うか?」
「……わからない。ただ、私たちの任務はシスター・マチルダへの聴罪だ。今はそれ以外のことに心を乱されるべきではないわ」
姉の言葉は正論だった。だが、クレアには到底受け入れられない。あの黒い瞳に宿っていた切実な思いを、任務のために切り捨てることなどできなかった。
道の曲がり角を過ぎたとき、前方に人影が見えた。こんな荒野で人と出会うのは珍しい。二人は警戒して足を止めた。
男は身なりの良い商人といった風体で、背が高く、日に焼けた顔には人の好さそうな笑みを浮かべていた。彼は二人を見ると、丁寧な仕草で会釈した。
「これはこれは、旅の御婦人方。このような場所でお会いするとは奇遇ですな」
「何か用かしら」
エミリアが剣の柄に手をやりながら、鋭く問いかけた。
「いえいえ、他意はございません。ただ、そのご様子ですと、山の上にあるルメリアの修道院へ向かわれるのではありませんか?」
「だとしたら?」
「実は、折り入ってお願いがあるのです」男は困ったような顔で頭を掻いた。「この手紙を、修道院におられるシスター・ルチアという方にお渡し願えませんでしょうか」
ルチア、という名を聞いてクレアは息を呑んだ。エミリアがそれを目線で制す。
「なぜ自分で届けないの?」
「それが、この通り私は男でして。修道院は男子禁制で中に入れてもらえませんでした。門の前でお願いしたのですが、どなたも取り次いではくださらなくて……。途方に暮れていたところ、あなた方のような親切そうな方にお会いできた。これも神のお導きでしょう」
男はそう言って、一通の封書を差し出した。
「あなたはルチアの何者なの?」
エミリアの詰問するような口調にも、男は臆した様子もなく答えた。
「私は彼女の故郷の幼馴染でして。近くまで商用で参りましたので、彼女のご家族からこの手紙を預かってきた次第です」
話に淀みはない。だが、そのあまりに出来すぎた偶然に、エミリアは疑いの目を向けた。この男は本当にただの商人なのだろうか。昨夜の幻覚と何か関係があるのではないか。
しばらく沈黙が続いた。クレアはエミリアが手紙を受け取るかどうか、固唾をのんで見守っていた。それはルチアの存在を証明する唯一の手がかりかもしれないのだ。
やがてエミリアは小さく息を吐くと、男から手紙を受け取った。
「……わかったわ。確かに届けましょう」
「おお、ありがとうございます! これで私も故郷に顔向けができます」
男は深々と頭を下げると、「それでは、道中お気をつけて」と言い残し、二人とは逆の方向に坂道を下って行った。その足取りは妙に軽く、あっという間に姿が見えなくなった。
二人はしばらく男が消えた方角を見つめていたが、やがて再び歩き始めた。手紙の封蝋はまだ新しく、破られてはいない。だが、エミリアはその手紙をすぐにはクレアに渡さなかった。
「なぜ受け取ったんだ? 怪しい奴だと思ったんだろ?」
「ええ。だからこそ受け取ったのよ」エミリアは手紙を懐にしまいながら言った。「この手紙が本物か偽物か、あの男が何者か、いずれわかるでしょう。今は、ルチアという修道女がこの修道院に実在するかどうか、それを確かめるのが先よ」
言葉を交わすことなく、二人は坂道を登り続けた。やがて視界が開け、切り立った崖の上にそびえる石造りの巨大な門が、その威圧的な姿を現した。
ルメリアの修道院。
そこは来る者を拒むかのように、冷たく静まり返っていた。