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第一章 荒野の修道院 2

 案内されたのは修道院ではなく、林の中にある木造の背の高い建物だった。

「もとは薪を蓄えたり、燻製を作ったりする作業小屋だったのですが、院長の計らいでマチルダ様のために別院として改装したのです。なにしろ山の上は冬になると、かなり冷え込みます。特に老人にとっては耐え難いほどにね」

 中年の修道女は名をセリーヌと言った。ソラスの修道院で受洗し、長らくそこに居たのだが、教母マチルダのことを知って、その人に是非会いたいと思い、この辺境までやってきたのだと言った。

 彼女はソラスからこの地への数ヶ月の旅の困難をたっぷりと語って聞かせてくれた。山賊に囚われたこと、食料が尽きて水ばかり飲んで、三日間歩き続けたこと。そしてようやくこのルメリアにたどり着いたのは、五年前のことだった。

「私は幸運でした。ここへ来て、ほどなくしてからマチルダ様のお世話を院長から仰せつかったのですから。きっとこれは神様のお導きにちがいありません」

 セリーヌはたるんだ喉の肉を振るわせながら、最後はほとんど泣きそうな声で神への感謝を語った。

「それは素晴らしいお話ですね……それで私たちはマチルダさまにお目にかかれますか?」

 エミリアは丁寧な口調で尋ねた。彼女たちが本物の修道女であるとわかったからには、相応の敬意を払ってしかるべきなのだ。

「心苦しことをお伝えしなければならないことをお許しください……先ほどルチアがお二人をお連れしたことをマチルダさまに報せに行ったのですが、すでに眠っておられたご様子でした。高齢でいらっしゃるので、一度眠られると無理に起こすわけにも参りませんので、明朝までお待ち頂きたいのです」

「なるほど、それでは仕方ありませんね。……ところでマチルダ様はおいくつになられるのですか?」

「次の生誕日で九十になられます。ここの修道女たちは皆、マチルダ様がいつまでもお元気で居るようにと、祈っているのです。あの方はこの修道院の宝ですから」       

 セリーヌは両手を合わせて、神への感謝を再び唱えた。

 クレアは二人のやり取りを聞きながら、あの山道を修道院まで登らずに済んだことを神に感謝した。いずれにせよ今夜はゆっくりと休めそうだ。

 しばらく姿を見せなかったルチアが現れて、セリーヌの耳元で何か囁いた。セリーヌはうなずくと、「あちらに食事の用意ができたようです。参りましょう」と言った。


3 食堂は建物に比べてはるかに立派なものだった。コの字に並べられたオーク材のテーブルは一度に二十人は食事をとれるほどの大きさで、磨きこまれた天板が燭台の灯りを柔らかく反射して、秋の夕暮のような落ち着きをもたらしていた。床は踏むのも躊躇われるほど綺麗に掃き清められており、塵ひとつみつけることはできそうになかった。そうしてそれらのすべてを正面の壁に掛けられた大きな聖アウレルの受難の絵が見下ろしていた。

月に一度は修道院長と教母たちが山を下り、シスター・マチルダと朝餐を取るのだと、セリーヌは教えてくれた。

 食事の用意が整うと、セリーヌはエミリアの方を見て、「レディ・エミリア、夕餉のお祈りを主唱して頂けませんか?」と頼んだ。

 エミリアは頷くと、目を閉じて祈りの言葉を口にし始めた。

 クレアはそっと薄目を開けて、目の前に座っているルチアを観察した。どうやらこの若い修道女はエミリアにご執心らしい。そばかすだらけの顔を耳のあたりまで真っ赤に染めながら、それでも黒い小さな瞳を潤ませて、大胆にエミリアを見つめていた。

 夕餉の祈りが終わると、セリーヌがそれぞれのグラスにワインを注いだ。

「ここでの食事はほんとうに質素なものです。私たちは聖アウレルの教えを忠実に守り、清貧を尊んでいます。それでもはるばる聖都からお見えになった薔薇と白百合のようなお客様をもてなすのに、多少の贅沢をすることは神様も大目にみてくださるでしょう」

 自分を称賛する言葉にクレアは慣れていない。思わず俯き顔を赤らめた。


 温かい食事はひさしぶりだった。レンズ豆のスープに、川魚のムニエル、野苺のサラダとセリーヌのいう多少の贅沢はなかなか立派なものだった。

 荒野を旅する間はずっと塩漬けの肉と、乾パンで過ごした。

 アシュールの港をでるとき、宿の女将が「ルメリアはあんたらみたいな可愛らしいお嬢さんが二人で行ける場所ではない」と忠告してくれた。十日も荒野を旅する必要があったし、その間に村一つないというのだ。修道院に向かうキャラバンが見つかるまでお待ちという女将に、丁重に礼を述べると二人は宿を出て、持てる限りのパンと塩漬けの肉を買い込んだ。

 三日も旅をすれば、クレアはその粗末な食事にうんざりして、口にすることすら億劫になった。王都の裏通りで過ごした幼い頃には、そんなものでもありつけたら幸運だった。

 しかし貴族の養女となり、ティリミユエルに入ってからは食事の心配をすることなど絶えてなかった。そこでは最高の料理人が新鮮な素材で作る料理がいつでも用意されていた。あれほど心のなかで拒んでいたはずの貴族の子女という身分に知らず知らずのうちに同化されていく自分がクレアには腹立たしかった。

 それに比べて、姉のエミリアは石のようなパンであれ、靴底のような肉であれ、生まれ育ったフェスターロットの城の居間で朝食でもとっているかのように、優雅に淡々と口にした。彼女はどこに居ようとも自分を変えることはなかったし、誰からも変えられることはなかった。地獄に落とされたってきっとエミリアなら傲然と顎を上げ、苦痛など少しも感じていないように振る舞うに違いない。

 クレアはそんな姉を羨望とも嫉妬ともつかぬ気持ちで眺めながら、「どうしてこの人は私を妹に選んだのだろう」とふと思った。


「スープのお代わりはいかがでしょうか? もしよろしければリンゴのタルトもおだしできますが?」

 エミリアがスプーンを置いたのを見計らうように、ルチアが言った。

「ありがとう。でももう十分に満足したわ」

 その答えにルチアは少々がっかりしたみたいだったが、すぐに愛想の良い笑顔をクレアの方に向けた。

「レディ・クレアはどうなされます? ここのリンゴのタルトはちょっとだけ自慢できるものなのですよ?」

 レディと呼ばれてクレアは急に不機嫌になった。

「私はレディなんかじゃない!」 

 テーブルに両手を叩きつけた。

 ルチアは気の毒なほど狼狽えた様子で、救いを求めてエミリアの方をみた。

「妹の無礼な態度を許してちょうだい、シスタールチア。彼女はまだほんの子供で、気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こすの。クレアはまだ正式な審問官ではなくて、私の助手として今回の旅に同行したのよ。だからまだレディと呼ばれるには相応しくないのよ」

 そして、クレアに「食事中に立ってはいけないわ」とたしなめた。

「ではお二人は姉妹だったのですね! なんて素敵なんでしょう」

 ルチアの顔にぱっと明るさが差した。さっきのことなどもう忘れたかのように、新しい発見に夢中に食いついた。

「姉妹といっても血の通った姉妹ではないのよ。私とクレアは剣の姉妹なの」

「剣の姉妹?」

「おふたりは剣に誓いを立てた姉妹なのよ」

 セリーヌが戸惑い顔のルチアに言った。

「私たち修道女にもそういった慣習はあるわ。歳の近い者同士が、義理の姉妹の契りを交わすの。その契りは血よりも濃く、永遠のものなのよ……もっとも私たちは剣に誓いを立てることはしないけれどね」

「ではどうして異端審問官は剣に誓いを立てるのですか? 私たちと同じ修道女ではないのですか?」

「異端審問官は聖騎士の中から、信仰の篤さと家柄を考慮して選ばれるのよ。修道女であると共に、騎士でもあるの――さあ、お客様もお疲れのご様子、お部屋に案内さしあげてちょうだい」

 まだなにか聞きたげな様子のルチアをピシャリと遮るようにセリーヌは言った。

 クレアは救われたと思ったと同時に、この姉にこれまで何度救われたことだろうと思った。

 ――光の子エミリアに差すたったひとつの影、それが不肖の妹だ。

 ティリミユエルで囁かれる噂がクレアの心に反芻し続けた。

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