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第三章 暁の使徒 6

修道院の惨劇から数日が経過した。

院長とその直属の修道女たちが姿を消した修道院は、一時的な混乱を見せたものの、事情を何も知らされていない一般的な修道女たちによって、すぐに以前と変わらぬ穏やかな日常を取り戻しつつあった。

彼女たちは、院長たちが疫病か何かで急逝したのだと信じており、ただ与えられた祈りと労働の日々を粛々とこなしている。異端の陰謀など、彼女たちの清らかな世界には決して届かない。それでいいのだと、エミリアは思っていた。


修道院の正門前には、出発の準備を整えた一台の馬車が停まっていた。

「これで、本当にお別れだな」

荷物を積み終えたハンスが、隣に立つ妹のルチアに向かって言った。

ハンスは妹に向かって、太く温かい手を差し出した。

「ルチア。一緒に帰ろう。親父には俺から上手く言っておく。もうお前がこんな辺境で、望みもしない修道女の真似事を続ける必要はないんだ」

ハンスの言葉に、ルチアはハッとして顔を上げた。

彼女の瞳が揺れる。賑やかな故郷の街並み。優しかった母の思い出。修道院の規律に縛られない、自由で明るい生活。商人として活気付く港の風景。ルチアの心の中で、強烈な郷愁が一瞬にして燃え上がった。

ハンスの手を握り返せば、その全てが戻ってくる。もう、冷たい石の床で祈る日々も、恐ろしい死霊に怯えることもない。


ルチアは、ハンスの手を見つめたまま、ゆっくりと自分の両手を胸の前で握りしめた。

そして、後ろを振り返る。

修道院の入り口には、車椅子に乗せられたシスター・マチルダが静かに微笑んで彼女を見守っていた。

「……ごめんなさい、お兄ちゃん」

ルチアは静かに、しかしはっきりと首を振った。

「私は、ここに残るわ」

「ルチア……? どうしてだ。お前は修道女になんてなりたくなかったはずだろ」

「ええ。父上が命じたから、無理やりここに連れてこられた。ずっとそう思っていたし、だからこそ毎日が辛かったわ」

ルチアは顔を上げ、兄を真っ直ぐに見つめた。

「でもね……今は違うの。誰かに命令されたからじゃない。私が、マチルダ様の傍にいたいから。私が、この修道院でみんなと一緒に祈りを続けたいから残るのよ」

それは、ルチアという一人の女性が、自分の人生において初めて下した「自らの選択」だった。

彼女は特別な聖女になるわけでも、修道院を導く指導者になるわけでもない。ただの一人の平凡な修道女として、今日も畑を耕し、パンを焼き、名もなき悲しみのために祈る。それが彼女自身の選んだ道なのだ。

ハンスは一瞬だけ悲しげな顔をしたが、やがて妹の成長を認めるように柔らかく微笑み、その頭をぽんぽんと撫でた。

「……そうか。なら、もう何も言うまい。達者でな、シスター・ルチア」

「ありがとう、お兄ちゃん。気をつけて帰ってね」


兄妹の会話を見届けていたクレアが、腕を組みながら歩み寄ってきた。

「お前も物好きだな。こんな古い修道院に残るなんて」

相変わらずぶっきらぼうなクレアの言葉に、ルチアはくすりと笑った。

「ふふっ。クレアさんには、色々とお世話になったわね。クレアさんがいなかったら、私、今頃どうなっていたか」

「……フン。私はエミリアの護衛をしただけだ。お前を助けた覚えはない」

クレアはバツが悪そうにそっぽを向いた。素直に感謝されるとどうしていいか分からなくなるのは、出会った時から全く変わっていない。

「ええ、分かってる。でも、ありがとう」

ルチアが頭を下げると、クレアは小さく舌打ちをして、馬車の護衛位置へとそそくさと歩き出してしまった。


一方、ハンスはエミリアの前に立ち、深々と頭を下げていた。

「エミリア様。妹を、そして修道院を救っていただき、本当にありがとうございました。教会の裏の顔を、随分と悪く言ってしまいましたが……あなたのような方がいるなら、まだこの国も捨てたもんじゃない」

「私たちの方こそ、数々の手助けに感謝します。あなたが用意してくれたこの馬車と荷馬がなければ、膨大な証拠品と共に聖都へ帰還することは困難でした」

「何、お安い御用ですよ」と、ハンスは胸を張って頼もしい笑みを浮かべた。「俺は元々、故郷の港町と聖都の中央市場を行き来する交易商ですからね。物資の調達から、貴族連中の懐事情、裏道の噂話まで……そこらの神父よりよっぽど詳しい自負があります。これから聖都で何か困ったことがあれば、俺の商売のツテと情報網をいつでも頼ってくだせえ」

単なる妹思いの青年ではなく、広大な国を股に掛ける逞しい商人としての顔。それが本編を通じて幾度も彼女たちを救ったのだと、エミリアは改めて感じ入った。

「……教会が腐敗しているのは、事実ですハンスさん。以前あなたが語った言葉は、私の胸に深く刻んでおきます」

エミリアの返答は、彼女自身にとっても驚くほど素直なものだった。ハンスは満足げに頷き、馬車の御者台に乗り込んだ。


「エミリア様」

出発の挨拶を終えたエミリアが馬車に乗り込もうとした時、背後から静かな声が引き留めた。

振り返ると、そこにはシスター・アガタが立っていた。かつて院長の命を受け、エミリアを冷徹に監視し続けていた修道女だ。

だが、今の彼女の顔に、以前のような能面のような冷たさはなかった。深くフードを被っているものの、その表情には微かな迷いと安堵の色が入り混じっている。

「……アガタ。あなたはこれから、どうするつもりですか」

エミリアの問いに、アガタは静かに伏し目がちに答えた。

「院長に与していた幹部たちの多くは地下で命を落とすか、捕縛されました。……末端に過ぎず、地下の真実までは知らされていなかった私には、ただこれまで通り、この修道院で神に祈りを捧げる日々が残されているだけです」

アガタは、少し離れた場所にいるマチルダとルチアの方へ視線を向けた。

「……あの日、地下へと向かうあなたの道を阻むのをやめた時。私は、審問官という権威を恐れたのではありません。あなたが放っていた、迷いのないその真っ直ぐな『光』に、純粋に従いたいと……そう思ったのです」

アガタはエミリアの前に進み出ると、深く、丁寧なお辞儀をした。

「ルメリア修道院に、真の朝を連れてきてくださり、ありがとうございました」

エミリアはわずかに目を見開き、やがて柔らかな微笑みを返した。

「あなたが自分自身の意志で選んだその道を、祝福します。……ここを任せましたよ、シスター・アガタ」


アガタが静かに頷き返すのを見届けた後、

「お行きなさい、良き姉妹よ。主の御加護が共にありますように」

車椅子のマチルダが、皺だらけの指で空に十字を切り、彼女たちを見送る。

クレアとエミリアが礼を返し、馬車はゆっくりと動き出した。


街道へと出た馬車の窓から流れる景色を眺めながら、クレアがふと口を開いた。

「なあ、エミリア。お前、これからどうする気だ?」

「どう、とは?」

「報告書のことだ。地下で見たこと、マチルダの告解……全部、本部に馬鹿正直に報告するのか?」

エミリアは膝の上で組んだ手に視線を落とし、静かに答えた。

「院長たちの犯罪と、地下聖域の存在については、ハンスさんが集めてくれた物証と共に詳細に報告します。……けれど、マチルダ様の告解については書きません。『聴罪師の守秘義務により、開示できない』と明記するつもりです」

「……それで、上層部が納得するのか?」

「報告書を読んだ教会の上層部は、修道院の監視を強め、さらなる調査の口実にするだけでしょう。腐敗は、私一人が書面で告発したところでどうにもならないほど、根深いものですから」

エミリアは顔を上げ、澄んだ瞳に強い意志を宿らせてクレアを見た。

「だから、私は大教母様への『単独謁見』を申し出ます。書面ではなく私の口から、直接彼女に全てを伝えます」

「それでいいのか?」

「……それが正しいことだと思っています。でも、それが教会にとっての本当の『正解』なのかは……正直、わかりません」

エミリアは微かに自嘲するように微笑んだ。常に規則と教義という「正解」を持っていた彼女が、初めて見せた「迷い」だった。だが、その顔つきには以前のような危うい脆さはなく、地に足の着いた強さがあった。


クレアは窓の外に視線を戻し、小さく息を吐いた。

(教会の中も、貴族の世界も、腐りきっている。信じられるものなんか、最初から何一つない)

クレアは心の内で一人ごちる。

(でも……エミリアがいる。ルチアのように、自分の意志で残る人間がいる。マチルダのような老いた修道女が、最後に過去と向き合う勇気を出した。……それだけで、この理不尽な世界も、ほんの少しだけなら信じられる気がする)


***


数週間後。聖都・中央大聖堂。

謁見の間にて、エミリアとクレアは、玉座に座る最高権力者・大教母の前に跪いていた。

「よく戻りましたね、我が愛しき光の子よ」

大教母の荘厳でありながら慈しみのある声が響く。周囲には他の聖職者の姿はなく、完全な密室だった。

「エミリアからの報告は全て聞きました。ルメリア修道院の件は氷山の一角でしょう。『暁の使徒』は、我々が想像する以上に深く教会の暗部に根を下ろしています。……既に、異端審問局による大規模な内部調査が始まっています」

大教母の言葉に、エミリアは深く頭を下げる。


「そして……クレア」

大教母の視線が、エミリアの後ろに控えるクレアへと向けられた。

「はっ」

「あなたの働きも見事でした。地下での異端者との戦い、そしてマチルダ様をお守りしたその功績、しかと受け取りました」

「勿体なきお言葉です」

クレアが平伏したまま答えると、大教母は静かに、しかし威厳に満ちた声で告げた。

「その大いなる功績に報い、本日付であなたを正式な『聖騎士』に任じます」

ビクッ、と。クレアの肩が大きく跳ねた。

「……本当、ですか」

信じられないというように顔を上げたクレアに、大教母は静かに頷いた。隣から、エミリアが自分のことのように嬉しそうに微笑みかけているのが見えた。

正式な聖騎士になる。それは、彼女を養女という名の「人質」にしているフォルスター家との約束が果たされたことを意味する。何よりも大切な弟と、ようやく再会できるのだ。

クレアの胸の奥で、長年抑え込んでいた熱い感情が込み上げてきた。


謁見を終え、大聖堂の静かな回廊を二人が並んで歩いていた。

高い窓からは、聖都の空を赤く染める美しい夕陽が差し込んでいる。

「……驚いたな。まさかいきなり聖騎士に任命されるなんて」

まだ現実味が湧かないというように、クレアが自分の手をじっと見つめながら呟く。

エミリアは隣で柔らかく微笑んだ。

「当然の報いです。あなたはそれだけの働きをした。……本当におめでとう、クレア」

「……ああ。これでやっと、弟を迎えに行ける」

遠く離れた家族を思い、クレアの瞳が少しだけ優しく和らぐ。

「でもさ」

クレアは不意に立ち止まり、真っ直ぐにエミリアを見た。

「私が正式な聖騎士になったってことは、これからは別の任務に就いたりして、お前の『護衛』じゃなくなるかもしれないってことだろ?」

「ええ。あなたはもう一人前の聖騎士として、自分の道を選ぶことができるでしょうね」

エミリアの静かな答えに、一瞬クレアは険しい顔をした。だが、すぐにフッと笑い、自分の髪を少し乱暴に掻き上げた。

「悪いが、遠慮しておく。私は、他所の堅苦しい審問官の下につく気はないし、お前の護衛をやめる気にもならない」

「……あら」

「お前のそのお節介で無茶なやり方に付き合えるのは、私くらいしかいないからな」

ぶっきらぼうで、素直ではないクレアらしい言い回し。エミリアは思わずくすりと声を立てて笑った。

「ふふっ……ええ。本当にその通りね。これからも共に歩んでくれるのなら、私にとってこれほど心強いことはありません」

エミリアはクレアに向かって、そっと手を差し出した。

「これからも頼りにしていますよ、『クレア騎士殿』」

「……うるさい。からかうな」

照れ隠しにそっぽを向きながらも、クレアは差し出されたエミリアの手を、力強くしっかりと握り返した。


夕陽に照らされた二人の影が、長く重なり合いながら、大聖堂の長い回廊をどこまでも歩んでいった。


(第三章 了)


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