第三章 暁の使徒 4
激しい戦闘の余波が収まり、広大な地下空間は再び深い静寂に包まれた。
先ほどまで異端の狂信的な詠唱が反響していた空間は、今はただ、崩れ落ちた松明の火がまばらに爆ぜる音と、鼻腔を突く焦げ臭い匂いだけが残されている。
「エミリア様!」
ルチアの切羽詰まった声が、広間の中央から上がった。
エミリアは剣を鞘に納めることもせず、足早に声の方へと駆け寄る。そのすぐ背後を、焼け焦げた修道服の匂いを漂わせながらクレアがついてきた。
赤黒い光を放っていた巨大な魔法陣は完全に機能を停止し、ただの奇妙な模様の石畳へと戻っている。その陣の中心に横たわるマチルダは、まるで干からびた枯れ木のように小さく、ひどく衰弱しきっていた。顔は白蝋のように青白く、生きているのが不思議なほど呼吸が浅い。
「マチルダ様、マチルダ様……! お願いですから、眼を開けてください!」
ルチアが涙声で老修道女の冷たい手を握りしめている。
エミリアはその傍らに静かに膝をつき、己の手に微かな『聖光』を灯した。先ほどの院長を焼き尽くした攻撃のための烈光ではなく、生命力を補うための、春の陽だまりのような温かな治癒の光だ。それをマチルダの胸元へとゆっくりかざす。
(……ひどい状態だわ。『聖痕』を通じて、長年蓄えた生命力すらも根こそぎ吸い上げられていたのね。本当に、あと数歩遅ければ手遅れだった)
光が老体にじわじわと染み込んでいくのを見守りながら、エミリアは静かに唇を噛んだ。
やがて、マチルダの薄い瞼がピクピクと痙攣し、ゆっくりと、薄紙を剥がすように見開かれた。
「……マチルダ様!」
「おお……ルチア、かい……」
掠れ切った、しかしはっきりとした響きを持つ声が、マチルダの口から漏れた。
彼女の目は潤んでいたが、その焦点はしっかりとルチアを、そしてエミリアたちを捉えていた。肉体は限界に近いが、この一年間幽閉され、力を奪い続けられながらも、彼女の精神は驚くほど明晰さを保っていたのだ。
「よかった……本当によかった……っ」
ルチアは堪えきれずにマチルダの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き出した。マチルダは震える手で、優しくルチアの背中を撫でている。
その様子を黙って見下ろしながら、クレアがぽつりと口を開いた。
「なあ、マチルダ。一つ聞きたいことがある」
クレアの不躾な言葉遣いにエミリアは普段なら小言を言うところだが、今は黙って先を促した。
マチルダは穏やかな視線をクレアに向けた。
「なんだね、若き騎士よ」
「私たちがこの修道院に来て最初の夜に経験した、あの『別院の亡霊』のことだ」
クレアの問いに、泣きじゃくっていたルチアがビクッと肩を震わせ、エミリアも真険な表情になった。
一晩かけて死に物狂いで戦い抜いた、あの燃え盛る幻の館。終わりのない廊下、絶望に満ちた熱と悲鳴。そして翌朝には、跡形もなく消え去っていた底なしの悪夢のような空間。
「あれは一体、何だったんだ。院長が仕掛けた死霊術の罠だったのか?」
マチルダはゆっくりと、しかしはっきりと首を横に振った。
「いや……あれは、私の罪の残滓だよ」
「あなたの……罪?」
マチルダは深く息を吐き出し、遠い過去を見透かすような目をして語り始めた。
「あの森の奥には、確かについ数年前まで、使われていない古い別院が建っていたんじゃ。……私は、院長たちのやっている『暁の使徒』の研究に、とうとう耐えきれなくなった。だから、数人の信頼できる修道女たちを集め、あの別院に身を潜めて、教会本部へ密使を送る計画を立てた……」
その告白に、エミリアが目を見開く。
「しかし、計画は露見した。院長は夜闇に紛れて別院を包囲し……外から火を放ったのだよ」
マチルダの声が、微かに、しかし確かに震えていた。
「私だけは、この『聖痕』の価値ゆえに生け捕りにされた。だが……逃げ遅れた者たちは、猛火の中で生きたまま焼かれて死んだ」
地下空間の冷たい空気の中に、絶望的な過去の惨劇が浮かび上がるようだった。
「私が長きにわたり抱えてきた、彼女たちへの深く、激しい罪悪感。それが、私のこの『聖痕』の暴走と結びついてしまったのだろうね……。強すぎる悲しみと後悔の念が『残留思念』となり、あの別院の跡地に、燃え盛るあの夜の記憶をそのまま留め続けてしまったんじゃ」
マチルダの言葉に、エミリアが小さく息を呑んだ。
「では、私たちが体験したあの出来事は……」
「そう。かつてあそこで起きた、凄惨な一夜の記憶の再演じゃ」
マチルダはエミリアとクレアを代わる代わる見つめ返した。
「お前さんたちが死に物狂いで戦ったのは、死霊でも悪鬼でもない。ただの記憶の幻影だよ」
「……ちょっと待ってくれ」
クレアが眉を寄せ、背後に控えていたルチアを指さした。
「なら、あの時、私たちに『夜明けまで絶対にドアを開けるな』と忠告しに来たルチアは何だったんだ? あの後、彼女は自分が何をしたか全く覚えていなかった」
クレアの指摘に、ルチア自身も戸惑ったようにマチルダの顔を見た。
マチルダは慈しむような目でルチアを見た。
「この子は、沈黙の塔で私の世話をしてくれていた。この子だけが、幽閉された私の孤独の理解者だった……。だからこそ、あの場所の強い悲しみの記憶が、無意識のうちにルチアと共鳴を引き起こしたんじゃろう」
「共鳴……まさか……」
「そう。実際のルチアの意識が、あの場所への恐怖と記憶に引き寄せられ、過去の惨劇を幻視した……。そして、かつての修道女たちが最期に残した『絶対にドアを開けてはならない』という警告の声を、無意識のうちに現在のお前さんたちに投影してしまったのさ」
マチルダは静かに息をつき、言葉を締めくくった。
「修道院の亡霊とは、人を呪い殺す化け物ではない。場所に宿った、悲しみの記憶だ」
その言葉は、エミリアの心に重く、深く響き渡った。
異端審問官として「悪」を断罪してきた彼女にとって、全てを超常の現象や異端の魔術として裁くことは自然なことだった。だが、あの別院の亡霊は、悪意によるものではなく、一人の老いた修道女の、純粋すぎる悲哀と罪悪感の結晶だったのだ。
「……マチルダ様」
エミリアが何かを言いかけた時、クレアが一歩前に出た。
「なあ」
クレアの声は、いつになく静かだった。尖ったところのない、落ち着いた響き。
「さっき、広間で院長を吹き飛ばした時……術の要だった彼女が倒れたことで、召喚されていた死霊たちも一緒に崩れ落ちたんだが」
クレアは目を伏せ、燃え尽きた松明の残骸を見つめながら続けた。
「その中に、セリーヌの姿があった気がしたんだ。……彼女は塔で首を吊って死霊にされて、私たちに二度も斬られて……。でも、最後に見えた顔は、もう恨み言を言いそうな顔じゃなかった。なんだか、安堵したような……そんな風に見えた」
クレアの言葉に、ルチアが再び両手で顔を覆い、しゃくり上げ始めた。セリーヌは彼女たちのよき先輩であり、友人だったのだ。
マチルダの腕にも、微かに力がこもる。
「そうか……。そうかい……」
マチルダは静かに目を閉じ、両手を胸の前で祈るように組み合わせた。
「……『光は闇に輝く。闇は光に勝たなかった』……」
それは、死者の魂の安息を願う、教会に伝わる古い祈りの言葉だった。
ルチアも涙を流しながら、震える声でその祈りに加わった。「主よ、彼女の魂に、永遠の安らぎを与え給え……!」
クレアは祈りの言葉を知らない。
教会の教義など初めから信じていないし、神の救いなど貧民街には存在しなかった。
それでも、クレアは黙って、深く頭を垂れた。
それは神に対する信仰からではない。共に地獄を味わい、最後まで抗おうとした一人の人間の魂に対する、せめてもの礼儀として。クレアなりの、不器用で真っ直ぐな弔いだった。
祈りが終わるのを静かに待っていたハンスが、背後から足音を忍ばせて声をかけてきた。
「エミリア様。これを見てくれ」
彼が手にしていたのは、古びた羊皮紙の束と、分厚い黒革の忌まわしい書物だった。
「地下聖域の奥、あいつの机らしき場所から回収してきた。『暁の使徒』の教典と、この修道院での数十年分の実験記録だ。……マチルダ様から力を吸い上げていた陣の精密な設計図や、彼らの本部へと流れていた資金の裏帳簿もある。これだけの物証と記録があれば、教会の腐敗を告発する完全な証拠になる」
どんな状況下でも商人の鋭い目で資料を的確に集めてきたハンスに、エミリアは深く頷いた。
「感謝します、ハンスさん。これで、異端審問官としての私の表向きの任務……ルメリア修道院長の異端行爲の立件は、完全に果たせます」
エミリアは重々しい資料を受け取りながら、視線を再びマチルダへと戻した。
問題は、表向きではない、本当の任務の方だ。
「マチルダ様。お体の調子が許せば……」
エミリアの表情が、審問官の冷徹なそれから「聴罪師」の穏やかなそれへと変わる。
「あなたの『告解』を、聞かせていただけますか」
地下空間の重い空気の中に、どこからか、地上の冷たく澄んだ夜明け前の風が、微かに吹き込んできた気がした。




