第三章 暁の使徒 3
院長の言葉が終わるより早く、クレアは石畳を蹴り飛ばしていた。
「エミリア、陣を!」
叫びながら、クレアの瞳がエメラルド色から冷たい銀色へと反転する。
一部の人間に宿る『選ばれし者の力』。
血と筋肉が爆発的な熱を帯び、世界がスローモーションのように感じられる全能の感覚。それがクレアの全身を駆け巡った。彼女は手にした得物を振り被り、魔法陣の核となっている院長めがけて一直線に特攻した。
「……させませんよ」
院長が手にした禍々しい杖を無造作に振るう。
直後、魔法陣の赤い光からどす黒い怨念の塊のような瘴気が噴き出し、数体の「死霊」となってクレアの前に立ち塞がった。修道服を着た異形の者たち。かつてこの地下室で非業の死を遂げ、陣の養分として囚われていた魂の成れの果てだ。
「邪魔だ、退けッ!」
クレアは力任せに死霊の一体を両断した。しかし、確かな手応えはない。斬り裂かれた瘴気はすぐにまた寄り集まり、形を成そうとする。
「聖光よ、我が刃に!」
後方から、凛としたエミリアの声が響いた。
途端、クレアの周囲の空間を眩いばかりの純白の光が駆け抜け、死霊たちを瞬時に浄化していく。
「クレア、私は陣の中枢を叩きます! 彼らの相手を!」
「了解だ! ハンス、ルチア! 早くマチルダを!」
クレアが死霊たちと修道女たちを引き付けている隙に、エミリアは片手に白銀の剣、もう片方の手に聖光を漲らせながら、魔法陣の中を最短距離で進んだ。
足元から赤い紋様が執拗に絡みついてくるが、エミリアの放つ聖光がそれに触れるたび、ジリジリと焼け焦げるような音を立てて中和されていく。
「ハンスさん、ルチア! マチルダ様の拘束を解きなさい! 命令よ!」
エミリアが指示を飛ばす中、ハンスとルチアが陣の端から強行突破し、マチルダへとしがみつくように近寄った。
だが、院長は慌てる素振りすら見せなかった。
黒い法衣の裾を揺らし、エミリアの構える剣先を涼しげな眼差しで見下ろしている。
「愚かですね。フェスターロットの『光の子』よ。あなたは自分が何を振るっているのか、本当に理解しているのですか?」
「異端に教えを乞うつもりはありません」
エミリアは冷たく言い放ち、手首のスナップを利かせて剣を突き出した。
そこへ、院長が杖をかざす。
ガキンッ、という重い金属音とともに、エミリアの力強い刺突が、目に見えない力場のようなものに容易く弾き飛ばされた。
エミリアが咄嗟に体勢を立て直すと、院長の眼が狂気と理知の入り混じった光を放った。
「聖光とは何だと思っている?」
院長の声は、激しい戦闘音や詠唱の中でも、エミリアの耳の奥に直接響くように明瞭だった。
「我々がこの地下で、何十年にもわたり死と魂を代償にして研究してきた力。そして、お前が誇らしげに振るうその純白の光……それはな、『同じ根』から生えた、別の枝に過ぎない」
「……戯言を」
エミリアは睨みつけたが、院長の口角が吊り上がった。
「戯言ではない。教会はそれを『神の恵み』と名付け、選ばれた者だけの奇跡として民を従わせた。だが我々は、ただその正体を知ろうとした。どうすれば人がそれを御せるのか、原理を解明しようとした。……それだけの違いだ」
「なっ……」
「お前のその力も、異端と蔑まれる我々の力も、本質は全く同じなのだよ!」
その言葉が、エミリアの胸の奥深くに致命的な一撃として突き刺さった。
(『同じ根』……? 私の力が、この禍々しい死霊術と、同じ……?)
これまで全く疑うことなく『神の恩寵』として信じて疑わなかった自らの存在意義。彼女の誇りであり、信仰の証。それが根底から揺らいだ瞬間だった。
「っ……!」
エミリアの剣に纏われていた純白の光が、ふっと明滅を繰り返し、弱々しく頼りないものへと変わる。
完璧だった彼女の集中が乱れたのだ。
「隙あり、ですね」
院長が杖を振り下ろす。圧倒的な質量の闇の魔波が、防御の薄くなったエミリアの身体を容赦なく襲う。
「エミリア様!」
離れた場所からルチアの悲鳴が聞こえたが、エミリアは身動きが取れなかった。信仰への疑念が精神を蝕み、彼女の足を鎖のように縫い付けていた。
「――エミリアッ!!」
魔波が直撃する寸前、銀色の眼を血走らせたクレアが側面から猛烈な勢いで突っ込んできた。
クレアの肩が激突し、エミリアの身体が横に弾き飛ばされる。その直後、クレアの背中を、院長の放った闇が掠めた。
「ぐぅっ……!」
クレアは苦悶の声を漏らしながらも、踏み止まった。修道服が焼け焦げ、肉の焼ける匂いが鼻を突く。
「クレア……! なぜ……」
倒れ込んだエミリアが、震える声で言った。その声には、身体の痛みよりも深い、魂の動揺が含まれていた。
「私の力は……教会の教えは……」
焦点の定まらないエミリアの目。その瞳には、今にも崩れ落ちそうな絶望が浮かんでいる。常に模範的で完璧な『姉』であろうとした彼女が、初めて見せた脆弱な姿だった。
「……馬鹿か、お前は」
クレアは乱暴な言葉を吐き捨て、エミリアの胸ぐらを片手で掴むと、無理やり引き起こした。
「いいか? どこから来た力でも関係ない! それはエミリア、お前の力だ!」
「クレア……」
「神の恵みだろうが、異端の呪いだろうが、そんなことはどうだっていい。お前が今まで、誰かを守るために選んで使ってきた力だろう! お前自身を信じられないなら、ここまで一緒にお前の背中を預けてきた、私の目を見ろ!!」
クレアの銀色の瞳——感情の起伏によって容易に制御を失うはずのその瞳が、今はただ一途に、嵐の中の灯火のように真っ直ぐにエミリアを射抜いていた。
神学的な問いにも、教会の権威にも縛られないクレア。彼女はただ、一人の人間として、大切な「剣の姉妹」を激しく肯定していた。
神の言葉ではなく、ただ一人の妹の泥臭い叫びが、エミリアを深い泥沼の中から力強く引きずり出した。
(……そうだ。私は、彼女を守るためにここにいる)
「……ええ。あなたの言う通りね、クレア」
エミリアの瞳から迷いが消え去った。
手放しかけていた剣柄を強く握り直す。その瞬間、彼女を満たしていた疑念の霧が完全に晴れ、先ほどまでとは比べ物にならないほど苛烈で、純度の高い『聖光』が爆発的に剣先へと宿った。
純白の光の奔流が、一気に押し返してくる。
「な、何だと……!?」
院長が初めて狼狽の色を見せ、杖を盾のように構えた。
「真実がどうあれ構いません。私は今、私の意志で、あなたを打ち砕く!」
エミリアが一歩踏み込み、聖光を纏った一撃を放つ。それは一直線の閃光となって、院長の放った瘴気と防御を容易く貫き、その身体をまっすぐに切り裂いた。
「ぐああぁぁっ……!」
院長が血を吐きながら吹き飛び、地下広間の壁に激突して崩れ落ちた。
主を失った魔法陣の赤い光が、断末魔のような明滅を数回繰り返した後、パリン、と硝子が割れるような音を立てて完全に消失した。同時に、呪文を唱えていた修道女たちも糸が切れたようにその場に倒れ伏した。
「終わった……のか?」
クレアが肩で息をしながら呟く。銀色の瞳がゆっくりと元のエメラルド色へと戻っていった。
魔法陣の力が消え去ると同時に、空間に満ちていた重い瘴気が霧散していく。
呼応するように、周囲に召喚されていた死霊たちも、もはや形を保てずに塵となって崩れ落ちようとしていた。
その中の一体。クレアの目の前で黒い煙となって消えゆく死霊の中に、ふと、懐かしい面影が見えた気がした。
修道院の塔で自らを吊り、狂える亡者として操られていたシスター・セリーヌ。
数瞬だけ形を取り戻した煙の中の彼女は、もう恨めしそうな顔はしていなかった。
どこか穏やかに、ようやく長き苦しみの荷物を下ろせたかのような、微かに微笑む安堵の表情。
「……よかったな、セリーヌ」
クレアは誰にともなく、ぽつりと呟いた。
地下空間に、深く静かな静寂がようやく戻ってきた。己の荒い呼吸だけが、その闇の中で小さく響いていた。




