第三章 暁の使徒 2
冷たい空気が、肌を舐めるように上へ上へと這い上がってくる。
先頭を行くエミリアの背中は、いつものような優雅さを崩さないながらも、その手はすでに剣の柄に添えられ、わずかな隙すらない。後ろに続くクレアは、研ぎ澄まされた野生の獣のように、耳と鼻を総動員して周囲を探っていた。
足裏から伝わってくる石段の感触は、どうにも気味が悪かった。段の表面は異常なほど滑らかで、中央だけが不自然にすり減っている。何世代にもわたり、何千、何万という足がここを踏み固めてきたのだ。
(……こんなもの、最近作られたわけじゃない。ずっと前から、ずっとずっと昔から使われてきたんだ……)
壁には所々に古い松明の煤がこびりついている。時折、闇の中から顔を覗かせる湿った岩肌には、不気味な苔が蔓延っていた。
そして何より、鼻腔を突く甘ったるい腐敗臭――以前、別院で戦ったセリーヌのような「死んだ者」の気配が、ここには濃密に充満している。クレアは眉間に皺を寄せ、肺の奥まで届きそうなその臭いを無理やり無視した。
「……おい、ルチア。息が上がっているな。落ち着け」
クレアは前を向いたまま、囁くような低い声で言った。背後から聞こえてくるルチアの呼吸が、浅く、そして小刻みに震えていたからだ。一番後ろを歩くハンスが、時折妹の肩に手を置き、庇うように立っているのが気配で分かった。
「だ、大丈夫よ。ちょっと、緊張してるだけだから……」
強がってはいるが、その声の震えは隠しきれていない。無理もない。ただの一般人の、しかも無理やり修道女にさせられただけの娘にとって、これから向かう場所は常軌を逸している。
「無理するな。危なくなったら私の後ろに隠れろ。兄の背中でもいい。とにかく、無茶だけはするなよ」
「……ありがとう、クレアさん」
(……別に、礼を言われるようなことじゃない。死んでほしくないだけだ)
クレアは内心で舌打ちしつつ、素直になれない自分に少し苛立ちながら、意識を再び前方へと向けた。
螺旋階段の終わりが近づくにつれ、詠唱の声がはっきりと形を持ち始めていた。
「――止まりなさい」
エミリアが極めて静かに告げ、足を止めた。クレアたちも同時に動きを止める。
階段の終端、その先に広がる光景を前に、エミリアは己の目を疑った。
「……なんだ、これは……」
クレアが背後で思わず息を呑むのが聞こえたが、咎める気にはならなかった。エミリア自身、己の知識と経験を総動員しても、目の前の異常な現実をすぐには消化しきれなかったのだ。
そこには、地上の修道院の大礼拝堂など比べ物にならないほどの、広大にして巨大な空間が広がっていた。
まるで山そのものをくり抜いたかのようだ。天井はどこまでも高く、壁に連なる無数の松明の明かりすら、その頂を照らし出すことができない。壁面は丁寧に切り出された岩で構築され、そこかしこに緻密で、しかし教会の教義からは完全に逸脱した異教のレリーフが浮かび上がっている。
そして、壁の至る所に刻み込まれた、太陽と月を組み合わせたような意匠。
――異端審問官として幾度となく目にしてきた、『暁の使徒』のシンボル。
(……これほどの規模の地下空間。一朝一夕に作れるものではありません。十数年どころか、何十年にもわたって、歴代の院長たちが教会の目を盗みながら掘り進め、築き上げてきたというの……?)
エミリアは冷静な異端審問官の眼差しで、空間全体を冷徹に観察した。怒りよりも先に、深い戦慄が走る。
地方の静かな修道院の足元に、数十年にわたりこれほど巨大な異端の拠点が寄生し、脈々と受け継がれてきた事実。ハンスが地上で語った『教会の腐敗』という言葉が、これ以上ないほど強烈な現実味を帯びてエミリアの信仰を突き刺してきた。
だが、今考えるべきは教会の腐敗ではない。目の前の脅威を排除することだ。
クレアの視線は、広間の中央にただ一つ、釘付けになっていた。
平らな石の床に、巨大な魔法陣が描かれている。幾重にも重なる幾何学的な紋様と、禍々しい赤い光を放ち、まるで生き物のように蠢く文字の列。
その陣の中心に、小柄な人影が横たわっていた。
「……マチルダ様……」
ルチアが悲痛な叫びを上げそうになるのを、ハンスが慌ててその口を背後から力強く覆い隠した。
シスター・マチルダ。かつて『聖女降臨』を体験したという、この修道院最大の生ける宝。彼女は意識を失っているのか、真っ白な顔をしたまま身動き一つしない。
だが、事態は極めて異常だった。
マチルダの両手、その『聖痕』があるべき場所から、不気味なほど純白の光の筋が立ち昇っていた。それは細い糸のように魔法陣へと伸び、赤い紋様に吸い込まれるようにして陣の力の源流となっていた。
「あれが、マチルダのことか……?」
クレアが歯噛みしながら呟くと、エミリアが静かに頷いた。
「ええ。彼女の生体力そのものを、魔法陣の触媒として強制的に抽出しているようです。あの光輪の輝き……間違いありません。しかし、これほど巨大な陣を起動させて、一体何を……」
魔法陣の周囲には、等間隔で数人の修道女が立っていた。彼女たちの顔は深いフードに隠され、手には儀式用の黒い杖が握られている。低く、そして淀んだ詠唱の正体は彼女たちだ。彼女たちもまた、平時は普通の修道女として振る舞いながら、裏では院長に与する『暁の使徒』の構成員なのだろう。
そして、マチルダの足元――魔法陣の最奥。
そこに、ルメリア修道院の院長が立っていた。
表向きの厳格で質素な姿とはまるで違う。闇そのものを織り込んだような漆黒の法衣を身に纏い、その手には禍々しい装飾が施された杖が握られている。彼女が杖を振り下ろすたび、魔法陣の赤い光が一層強く、呼吸をするように脈打った。
「おお、偉大なる知の探求者たちよ。過去の鎖を断ち切り、今こそ我らが真理を開く時が来た」
院長の声は、熱を帯びているようでいて凍りつくほど冷たく、地下空間の壁に反響し、不気味な威厳を伴って響き渡った。
「教会の暗愚な者どもは、この奇跡を『神の恵み』と呼び、ただ額をこすりつけて拝むだけで、自らのものとしようとはしなかった。我々は違う。我々はその力の根源を知り、この手で掴み取るのだ」
院長が両腕を高く掲げると、マチルダの体から抽出される白い光がひときわ激しく明滅し、魔法陣の赤い光と混ざり合って異様な輝きを放った。
「見よ。この老体の内に眠る『聖女の力』――奇跡の聖痕。これを鍵とし、触媒とする。先人たちの長きにわたる準備は、我が代にしてようやく完了した。今宵、我々自らの手で『聖女の扉』を開くのだ!」
『聖女の扉』。
その言葉を聞いた瞬間、エミリアの背筋に氷のような悪寒が走った。
「……教会の権威の根幹を、物理的に奪い取ろうというのね」
エミリアの呟きは殺気立っていた。
聖女の力は神からの授かりものだ。それを人為的に制御し、自分たちの力として行使する――。それは単なる異端の教えを超えた、神への究極の冒涜に他ならない。教会がなぜ『暁の使徒』を徹底的に根絶やしにしようとしたのか、その本当の理由が理解できた。彼らは、教会の権力基盤そのものを根底から覆そうとしているのだ。
「作戦通りに動きます」
エミリアは極めて冷静に周囲に告げた。怒りを内に秘め、声は限界まで低く抑えられている。
「私が魔法陣に直接、強い聖光を撃ち込み、エネルギーの流れを中和・反発させます。その反動で儀式は一時的に破綻するはずです」
「その隙に、私が全力で院長を叩き潰す。周りにも気を配るから、派手にやってくれ」
クレアが得物を握る手に力を込め、飢えた獣のように瞳を光らせる。
「私たちは、マチルダ様を……」
ルチアが震える声で言うと、ハンスが力強く頷いた。
「クレアさんが引き付けている間に、俺とルチアでマチルダ様の拘束を解く。退路は俺が必ず確保する。お前らは全力で戦ってくれ」
四人は視線を交わした。時間はない。
「行くぞ」
クレアが合図し、彼らは壁の影に沿って、広間の中央へと密かに移動を開始した。
松明の死角を選び、魔法陣から溢れる光の影に紛れて進んでいく。エミリアの足運びは音一つ立てず、クレアも貧民街で培った身のこなしで気配を完全に殺していた。
(もう少し……魔法陣の端まで、あと十歩……!)
クレアは息を殺し、意識を筋肉の隅々にまで張り巡らせた。エミリアとの連携のタイミングを図る。
だが、静寂と極度の緊張は、鍛え抜かれた戦士ではない者の感覚を容易に狂わせる。
「あっ――」
背後で、ごく小さな、だが決定的な声が漏れた。
ルチアの足が、崩れかけた石畳の窪みに引っかかったのだ。
バランスを崩した彼女の体が前へのめり、それを咄嗟に支えようとしたハンスのブーツが、床の小石を勢いよく蹴り飛ばしてしまった。
カラカラ、という乾いた音が、詠唱の響く地下空間に異常なほど大きく、残酷なまでに鮮明に響き渡った。
クレアの心臓が跳ね上がった。
詠唱がピタリと止まる。
魔法陣を囲んでいた修道女たちが、一斉にこちらを振り向いた。フードの奥にある冷たい瞳が、四人の姿を暗がりの中に明確に捉える。
そして――院長が、ゆっくりとこちらを向いた。
彼女の顔に驚きの色は全くなかった。
ただ、冷徹で底知れない深淵のような黒い瞳が、エミリアとクレアを静かに見下ろしている。
まるで、最初からそこに罠にかかった獲物が這い出てくるのを、ずっと待っていたかのように。
「遅かったな。来ると思っていた」
院長が低い声でそう呟いた瞬間だった。
院長が杖を打ち鳴らすのと同時に、周囲の空気が重く澱んだ。魔法陣のエネルギーが異様な乱れを見せ始め、静寂な絶望が、クレアたち四人を包み込もうとしていた。




