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第三章 暁の使徒 1

「塔の内部には地下への通路がない」


エミリアの声が、夜気に溶けて消えた。三人は塔を出て、修道院の外周を歩いている。足音が石畳に響くたびに、どこか遠くで鐘の残響が震えるような気がした。風は冷たく、それでいて何かが腐ったような甘い匂いを運んでくる。


「ルチアさん、あなたも地下のことは知らないのですね?」


「はい...そのような場所があるとは...」


ルチアの声は震えていた。月光が彼女の頬を青白く染め、まるで石膏の聖女像のように見える。彼女の証言によれば、修道院には地下室らしきものは存在しないはずだった。だが——真実は常に、見えるものの奥に潜んでいる。


「もし本当に巨大な地下施設があるなら」

エミリアは修道院の石造りの壁を見上げた。その表面には苔が這い、湿った匂いが立ち上る。

「入口は修道院の外部にあるはずです。塔はあくまで地上の偽装施設...真の闇は、別の場所で息づいている」


クレアの表情が険しく引き締まる。

「院長たちが長年にわたって秘密を守り続けてきた。ならば入口も、蛇が穴を隠すように巧妙に偽装されているはずだ」


三人は修道院の裏手に回った。そこは岩場が多く、薄暗い影が重なり合って深い闇を作り出している。空気はさらに重く、まるで地の底から湧き上がる息のようだった。


「あそこの岩陰——何かが違う」


クレアが指差したのは、修道院の北側、巨大な岩が不規則に積み重なった一角だった。月光に照らされたその岩肌は、自然のそれではない。人の手が加わった痕跡が、影の中にうっすらと浮かんでいる。


その時、エミリアの手が上がった。


「止まって。誰かが来る」


夜の静寂を破って、足音が近づいてくる。岩陰から男の影が滑り出てきた。月光が一瞬その輪郭を浮かび上がらせる——三人は身構えたが、ルチアの声が夜を裂いた。


「兄さん!」


「ルチア...」


その声には、長い旅路の疲労と安堵が滲んでいる。男は商人らしい質素な外套を纏い、中肉中背の体躯は旅の埃にまみれていた。日に焼けた顔には深い疲労の刻印が刻まれているが、妹を見つけた瞬間、その表情は夜明けの光のように和らいだ。


「無事だったのか...お前の身が心配で、いてもたってもいられずここまで——」


ルチアは駆け寄ろうとしたが、エミリアとクレアの視線が鋭く研がれている。警戒の糸は、まだ解かれていない。


「あなたが、ルチアのご兄弟のハンスですね」

エミリアが一歩前に出る。その声音には、異端審問官の冷静な権威が宿っていた。

「なぜこのような危険な場所に?」


ハンスの肩が重く沈んだ。


「あの手紙を読んだからです...大教母様に渡した手紙の内容を見て、もうルチアをここには置いてはおけないと」

妹への愛と絶望が声に混じる。「連れて帰るつもりで、ここまで」


「どうやってここまで辿り着いた?」

クレアの問いは短く、剣のように直截だった。


「実は...」

ハンスは躊躇した。言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。

「妹を探して修道院の周りを巡っているうちに——偶然見つけたのです。岩場の陰に隠された入口を」


エミリアとクレアの視線が交錯する。


「地下への入口を?」


「ええ」ハンスの声に確信が宿った。

「最初は自然の洞窟かと思いましたが...明らかに人の手で削られた石段が、闇の奥へと続いているのが見えます」


エミリアの眉間に深い皺が刻まれた。


「待ってください、ハンス」その声に疑念が滲む。

「どうやって大教母様に手紙を渡したのです?一介の商人が教会の最高位である大教母様に直接手紙を——通常であれば不可能なはずですが」


ハンスの口元に、苦汁を噛むような笑みが浮かんだ。


「ああ、それは...」


彼は一瞬躊躇し、やがて深いため息をついた。その息は、長い間胸に溜めていた毒を吐き出すかのように重い。


「正直に申し上げましょう。教会の内部は——中にいる人には分からないかもしれませんが——既に腐敗しきっているのです」


その瞬間、エミリアとクレアの表情が氷のように固まった。まるで神聖な聖堂に穢れた風が吹き込んだかのように。


「つまり、金を使えば何とでもなる」

ハンスの声は、諦めと怒りが混じり合っていた。

「そのために莫大な金を使いました...私の全財産の大部分を費やしてでも、ルチアの書いた手紙を大教母様のもとに届ける必要があったのです」


「それは...一体どういう意味ですか」

クレアの声は震えていた。まるで信仰の根幹を揺るがされたかのように。


「聖職者の位階は金で買えるのです」

ハンスの言葉は、鞭のように空気を打った。

「司教の座すら競売にかけられることがある。大教母の周りには、献金の額で発言力が決まる『顧問』たちが群がっている。異端審問すら——」彼の声に憎悪が込められる。「政敵を葬るための道具として利用されているのです」


夜風が吹き、どこからか腐ったような甘い匂いが漂ってきた。まるでハンスの言葉に呼応するかのように。


「真に敬虔な聖職者ほど辺境に追いやられ、権力者は中枢に居座り続ける。貴女方は教会の内部にいるから、きっと理想を信じていらっしゃるでしょう」

ハンスの視線は、二人の異端審問官を見詰めている。

「でも外から見れば——教会がどれほど穢れに沈んでいるかがよく分かるのです」


エミリアは愕然として立ち尽くしている。彼女の世界が、足元から崩れ落ちていくかのようだった。


「そんな...それが事実なら、我々が仕えている教会とは一体...」


クレアの握り拳が激しく震えている。

「だからこそ、ここの事件も隠蔽されようとしているのか...」


「だからこそ、ルチアの身を案じているのです」

ハンスの声は、兄としての切実な愛に満ちていた。

「あの手紙の内容は教会の上層部にとって都合が悪すぎる。妹がこれ以上この闇に巻き込まれる前に、連れて帰りたいのです」


沈黙が夜を支配した。教会の腐敗という現実が、まるで鉛のように四人の心を圧迫している。風が止み、遠くから微かに鐘の音が響いてきた。時を刻む音が、切迫感を煽り立てる。


ルチアの声が震えながら夜気を破る。

「兄さん...でも、マチルダ様がまだ地下に...」


「ルチア」ハンスが妹の華奢な肩に手を置いた。その手は、長い旅路で荒れ果てている。

「もう十分だ。これ以上危険に身をさらす必要はない」


「いえ——」


エミリアの声が、きっぱりと割って入る。

「ハンス、あなたのお気持ちは理解できます。でもマチルダを見捨てるわけにはいきません」


クレアも頷いた。その瞳には、揺るがない決意の光が宿っている。

「院長を放置すれば、さらに犠牲者が出る。我々には異端審問官としての使命がある」


ハンスは困惑の表情を見せた。だが、やがてその顔に諦めに似た苦笑が浮かぶ。

「...分かりました。どうせ妹がそう言うだろうと思っていました。地下入口を見つけた以上——妹を救うためにも、手伝わせてください」


「しかし戦闘は——」


「商人として培った危険察知と脱出路確保のスキルがあります」

ハンスの声に自信が戻る。

「それに、この修道院の周辺地理は商売でよく回っているので」


エミリアが一瞬考え込んだ。

「確かに、地の利を知る方がいれば...」


「決めよう」

クレアが立ち上がった。その動作は、剣を抜くように鋭い。

「時間がない。院長がいつ儀式を完成させるか——」


「夜明け前に決着をつけなければ」

エミリアも同意した。


ルチアが兄を見上げる。その瞳には、不安と希望が混じり合っていた。

「兄さん、本当に一緒に?」


「ああ」ハンスの声は、兄としての愛情に満ちている。

「だが、お前の安全が最優先だ。危険になったら必ず——必ず逃げるんだぞ」


四人は岩陰に身を寄せた。月光が彼らの表情を青白く照らし出す。作戦会議が始まった。


「作戦はこうです」

エミリアの声が、夜風に溶けて消えていく。

「私は聖光で魔法陣の力を中和し、儀式を妨害する。クレアは院長との直接戦闘。ルチアはマチルダの拘束解除と避難誘導。ハンスは後方支援と脱出路の確保」


「了解」クレアの返事は短く、鋭い。


「しかし一つ気になることが」ハンスが眉をひそめた。

「地下に入ったとき——もし儀式が既に始まっていたら?」


「院長が集中している瞬間を狙う」

エミリアの声に確信が宿る。

「聖光を魔法陣に流し込んで逆転させる。理論的には可能です」


「証拠の回収も忘れるな」クレアが付け加える。

「暁の使徒の教典、文書——告発材料として」


ハンスが岩の隙間を指差した。

「準備はよろしいですか?」


四人は立ち上がる。確かに、巨大な岩の間に人工的に削られた隙間が口を開けている。そこから石段が、まるで大地の腹の奥へと続いているのが見えた。


「行こう」


エミリアが先頭に立つ。クレアがその後に続く。ルチアは兄と手を繋ぎながら、震える足で地下への入口に向かった。


一歩足を踏み入れた瞬間——空気が変わった。


石段は滑らかに削られ、明らかに長い年月をかけて建造されたものだった。壁面には所々に松明を差し込んだ跡があり、定期的に使用されていることを示している。空気は重く、湿り気を帯び、どこか甘ったるい腐臭が漂っていた。


「こんなものが...修道院の下に」

ルチアの呟きが、石の回廊に反響する。


「長い間——我々は欺かれていた」

エミリアの声に怒りが滲んでいる。


四人は暗闇の中を慎重に降りていく。石段を一段降りるごとに、空気はさらに重く、温度も上がっていく。まるで地獄の入り口に向かっているかのように。


その時——


遠くから微かに詠唱の声が響いてきた。低く、不吉な響きを持つ声が、石の壁を伝って這い上がってくる。


「始まっている...」


クレアが剣の柄に手をかけた。その音が、静寂を破って鳴り響く。


「急ごう」


四人の足音が、闇の奥へと吸い込まれていった。




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