人間に恋をした狐
雨がシトシトと降っている
木陰に一匹の狐がうずくまっていた。
(そういえば僕はいつからここにいたっけ…)
狐はそっと灰色の空を見上げた。
(昔すぎて、忘れちゃったな…)
雨粒が狐の顔にかかった。
それを狐はくすぐったそうに拭う。
ふと、少し遠くで足音が聞こえた。
タッタッと走る音と、ピチャピチャと水が跳ねる音が混じっていた。
狐は木陰から身を乗り出すようにして、音のする方へ顔を出した。
そこからは、神社の石畳の通路や、本堂が見える。
少し霧がかったその場所は、神秘的な雰囲気を醸し出す反面、不気味でもあった。
そして、本堂の前に、一人の少女が雨に濡れながら佇んでいた。
(だれだろう…?)
狐は首を傾げながら、じっとその少女を見つめていた。
「神様。お願いです」
少女が口を開き、静かにそう言った。
狐には、雨の音があるにも関わらず、何故かその声ははっきりと、直接耳に囁かれているように聞こえた。
「あの人の、病気を治してあげて。もう、苦しませないであげて」
少女の目からは、涙が流れていた。
少女が合わせる手は、震えていた。
懸命に誰かの為に祈るその姿を見て、狐は胸のあたりがじんわりと温かくなったのを感じた。
──そして、狐は思った。
(彼女の助けになりたい)と。
翌日、空は澄み切った青色で、雲ひとつなかった。
そんな空を、狐は見上げていた。
(“あの人”って誰なんだろう…)
狐はあれからずっと、少女が言った“あの人”が気になってしょうがなかった。
狐は少女の言葉と、少女の事を、ずっと考えていた。
(彼女の助けになるにはどうすればいいんだろう…)
そんなことを考えていると、いつのまにか、夕方になっていた。
遠くから、カーカーと烏の鳴き声が聞こえる。
狐は、金色に染まった空を見上げていた。
ふと、狐の耳がピクリと動いた。
昨日と同じ調子の、タッタッという足音が聞こえたのだ。
(彼女だ…!!)
狐は丸めていた体から勢いよく立ち上がり、また、昨日と同じように顔を出した。
そして、本堂の前に佇む少女を見つけた。
「神様…、神様!!ありがとう!!神様のおかげであの人の病気が良くなったの!ありがとう!ありがとう…っ」
そう言うと、彼女は泣き出した。
狐は、その姿を見つめながら、立ち尽くしていた。
狐はいつものように体を丸めて、木陰で涼んでいた。
狐は毎日のように少女の訪れを待っていたが、最近は、あの少女は来ない。
ある日の夕暮れのことだった。
狐は体を丸めて、こくこくと眠っていた。
突然、狐の耳がピクリと動いた。
聞き覚えのある声が聞こえた気がしたのだ。
「…こっち、…こっちだよー!!」
声が徐々にはっきりと聞こえてきた。
(彼女の声だ…!!)
狐は目を輝かせながら、木陰から勢いよく身を乗り出した。
すると向こうの石階段のほうから、少女がこちらへ向かってくるのが見えた。
(彼女だ…!彼女が来てくれた!!)
そして、狐は気付いた。
彼女の雰囲気がこの前とは違うことを。
そして、彼女は、今日は一人ではないということを。
彼女のあとに続いて、少年が一人、石階段から姿を現した。
「ちょっと待て…。そんなに早く走れない」
「…ああ!ごめんね…。病み上がりなのに無理させちゃって…」
「いいよ。素敵な場所があるとかってお前が言うから、少しくらい見てやってもいいかって思った俺も俺だからな」
「えへへ…、とにかく、一緒に来てくれてありがと!」
「…はいはい」
少年は、少女よりも背が高く、大人びて見えた。
(一緒にいるのは…誰だろう…?)
狐は小首を傾げた。
「あのね!この神社はね!あなたの病気を治してくれた神様がいる所なの!」
「神様ねえ…」
「ほんとなんだってば!わたしがおねが…っ」
と少女が何か言いかけて、こほんと咳払いをした。
「と、とにかく!きっと、ここにいるのは心優しい神様よ!そんな神様に、一緒にお礼を言いたいと思って、あなたを誘ったの!」
「ほほーう」
少年は意地悪くにやりと笑いながら言う。
「さ、お参りお参り!」
少女はそう言い、少年の腕をつかんで本堂へとひっぱっていく。
「お、おい…!」
と、少年は少し戸惑ったようだった。
「ぐずぐずしない!!」
少女は、笑顔でそう言った。
(仲がいいんだな…)
そう狐は思った。
その瞬間、木々が少しだけざわめいたようだった。
二人は本堂の前に並んで、手を合わせた。
「神様、ありがとうございました!」
少女は目をつぶりながら、はっきりとした口調でそう言った。
「ありがとーございましたー」
少年は目をつぶりながら、そう言った。
「心がこもってない!!」
と少女は少年の腹を肘で打った。
「っう」
と少年は苦しそうな声をあげた。
それから、願い事を心の中で唱え終えた少女は、目を開けて少年の方を見た。
少年は柔らかな眼差しで少女を見ていた。
そんな風に見てくる少年と目があった少女は、咄嗟に俯いた。
「びっくりした…!え!?もしかしてずっと見てた!?」
「どーかなあー。お前結構ながーくお願いごとしてたみたいだからなー」
「ながーくって…、その間ずっと見てたの!?うああぁぁ…」
とうなだれている少女に
「ありがとな」
と少年は声を掛けた。
「え?」
ふいをつかれたように少女は顔をあげた。
「俺の病気が治ったのを歓迎してくれて。きっとお前のおかげでもあるんじゃないかな。ほら、毎日お見舞い来てくれたし。……だから、ありがとう」
ふっと少年は少女に笑いかけた。
その瞬間、少女の顔はりんごのように真っ赤に染まった。
「わ…わたし、飲み物買ってくるね!!」
と、少女は勢いよく石階段の方へ走っていき、階段を下りて行った。
それを見た狐は悟った。
(彼女は“あの人”のことが好きなんだ…)
狐は胸のあたりがチクリと痛んだ。
それと同時にもやもやとした感情が湧いて出た。
木々が揺れる。
(どうして…あの人なんだろう?…あんなに、懸命に祈っていた君の事を知らずに、筋違いなお礼を言うなんて。雨に濡れながらでも、ここに来た君を知らずに。震えていた君を知らずに。助かったこの男を…、どうして君は、こんな男を…!)
その瞬間、空が暗くなりはじめ、ゴロゴロと雷が鳴り始めた。
「?今日は…雨が降るなんて…」
一人になった少年は突然ザーザーと勢いよく降る雨によって、成す術もなく濡れていた。
(君はどうしてこんな男を…!)
木々がザアザアと音を立てて揺れる。
その光景は、言うまでもなく不気味であった。
(どうして…!)
ピシャアンと音が鳴り響く。
神社の中の木に、その雷は落ちたようだった。
バタリと、なにかが倒れる音がした。
いつの間にか、雨はやんでいた。
まるで、何事もなかったかのように、夕暮れの空が広がっていた。
「おーい!飲み物買ってきたよー!……!?」
石階段を上ってきた少女が目にしたものは、神社の真ん中で、倒れていた少年だった。
その数分後、救急車の音が鳴り響いていた。
翌日、大粒の雨が降り注いだ。
そんな中、彼女は神社に現れた。
彼女もまた、大粒の涙を流しながら。
「また、具合悪くなっちゃった……っ」
(“あの人”のことだ…)
「…っうぅ……っ、もう、助からないかもしれないって……っ」
(…僕の、僕のせいだ……!)
「どうしよう……。あの人が居なくなったら、わたし……っ」
(僕が怒らなければ…!あんなに、怒らなければ…!)
「いやだ……、あの人が居なくなるなんていやだよお……!」
(ごめんね……。僕が全部悪いんだ……。ごめんね……!)
狐は、木陰から出て、少女へと近づいた。
(ごめんね……!僕が悪いんだ!!)
狐のその想いは、声にはならなかった。
「……?狐さん……?どうしてこんな所に……」
少女は狐に手を伸ばした。
狐が涙を一筋流した。
その涙が、少女の手に落ちた。
その瞬間だった。
少女の耳に「ごめんね」と、声が聞こえた気がした。
「……え?」
──唐突に、携帯が鳴った。
「……電話……?」
「もしもし?どうかしたんですか?」
「……意識が戻ったって……ほんとですか!?」
「よかった……、よかったよお……っ」
少女は泣きじゃくった。
気が付いたときには、もう狐の姿はなかった。
──「おかーさん」
「ん?」
「なにこのおんぼろ神社」
「失礼なことを言うんじゃない!」
ぺしっと、女性は男の子の腕を叩いた。
「イテ!!」
「ここにはね、狐の神様が祀られてるの」
「狐の神様……?」
「そう。その神様があんたのお父さんの命を助けてくれたのよ」
「ふーん」
「今、あんたが健康に居られるのも、この神様のおかげよ?」
「へえ……」
「とにかく!今日はお礼を言いに来たの!」
「お礼……」
「そう、手を合わせて、ありがとうございますって、伝えるのよ」
「こう?」
そう言って、少年は手を合わせた。
「うん。……神様、ありがとうございます。この子は幼稚園にあがることができました。それもこれも、神様のおかげです」
女性のその言葉のあとに少年が続いて口をひらいた。
「神様、ありがとう」
そして、二人は手を繋いで、来た道を引き返していく。
「ねえねえ、今日の晩御飯はー?」
「んー、今日はお父さんの誕生日だからねえ……。ケーキ!買っちゃおっか!!」
「わーい!!お父さん早く帰ってこないかなあ……」
「そうね。早く帰って、お父さん驚かしちゃおう!!」
「おー!!」
夕暮れの中、石畳に伸びる二人の影がこぶしを突き上げた。
(お礼を言うのは、こっちだよ。
僕に出会ってくれて、ありがとう。
きっと僕は、君が好きだった。
……幸せになってね)