4 有関心少女の笑顔
気づけば私はまた、学校に戻ってきてしまっていた。むしろ、他に行き場などなかった。毎日毎日、家と学校だけを往復する生活。今思えば、何が楽しいんだって、絶望感が込み上げてくる。喉元まで競り上がったそれは、とても苦いものだった。
瞳に溜まった涙がこぼれないように上を向く。
喉が痛い。嗚咽を飲み込むのには、かなり力がいるのだと知った。
涙なんて今まで知らなかった。こんな気持ち、初めてだった。惨めだと、言われている気がした。それも初めて感じた。だってそんなものは今まで。
「関係ない」……って、思っていたから。
精神的にも肉体的にも疲れ切った私は、ゆるゆると力なく校舎に足を踏み入れる。
放課後の静まり返った廊下で立ち止まって目を瞑ると、わずかに遠くの方で声が聞こえる。きっと部活をやっているのだろう。
私はそもそも部に所属するつもりなどなかったし、授業が終わればそそくさと家路を急いでいたため、この時間帯に学校に来たことは今までなかった。
私の知らないところで、皆頑張っているんだとぼんやり思った。それが余計に孤独感を煽る。
誰とも関わらず、誰も相手にしてこなかった。けれど、それは違ったのだ。
私が皆に相手にされていなかっただけ。
ふらふらと階段の手すりに体を預け、弱々しく一段一段を登る。足が重たい。なかなか進まない。
やっとのことで最上階まで辿り着いた。屋上の扉の鍵がとっくに壊れていることは、この学校の生徒たちしか知らない。休み時間に耳を澄まして聞き取った情報だった。
手をかけただけで、扉は古びた音を上げながら開いた。暗い室内に、夕焼けの赤い光が差し込んで私を照らす。
見惚れるような開放感に思わず目を細める。誰もいない屋上はやけに清々しく、私は思いっきり深呼吸をした。
ふらふらと軸の定まらない足取りで、前に前に進む。そのまま胸の辺りまでしかないフェンスに手を乗せて、景色を眺める。
私はここで生まれて、ここで育って、今ここにいる。それなのに、夕焼けがこんなに綺麗なものだなんて初めて知った。
私は”関係ない”ことを理由に、外部から目をそらしているだけだった。それが今日、ずしりと頭に響いた。
「……神無っ!」
感傷にひたる私に、またしても邪魔が入る。
「また、あなたなの。佐伯」
「今さっきまで図書室にいて……偶然、見かけたから」
「そう」
短い沈黙の後、私はゆっくり佐伯の方に向き直った。そして、佐伯の名を呼ぶ。
「私はね、今までこの世界は自分以外要らないって思ってた。だから、他の人の良いことも、悪いことも、どうだって良かったの。私には関係ないんだもの」
佐伯は黙って私の話に耳を傾けている。しばし、眩しそうに眉間にしわを寄せて、それでも私を見つめている。
「でもね、違ったの。関係ないって、思ってたのに、段々、段々気になるようになっちゃった。自分は皆と違うって気づいてたのに、そうじゃなくて……そうじゃなくて、特別な存在なんじゃなくて、ただ……皆に追いついていないだけの、違う存在だったんだ」
「神無……?」
「どうせわからないでしょう。わかってる。同意を得たいなんて思ってないから」
佐伯は少し顔をしかめて、やがてゆっくりと、呟いた。
「神無が今までどういう気持ちで過ごしてきたかとか、そんなのは俺にはわからない。でも、気づいたのなら、それはもう、関係なくないと思う」
え、とヘンテコな問いかけをしてしまう。
「関係なくないんだよ、神無。無関心だったのが、関心に変わったんだろ? だったらもう、それは神無が変われるってことだよ」
「だから、一緒に」、そう言って佐伯は手を差し伸べる。その頬は少し赤く染まっていて……いや、夕焼けのせいかもしれない。
佐伯は、私と少しだけ似ていると思った。蟲ケラが見えるというのも大きかったけれど、何か同じ雰囲気を感じた。
だからその差し伸べられた手は、すごく嬉しかった。私がその手に触れたなら、私は変われるのかしら。
おずおずと、右手を彼の手のひらに乗せる。佐伯は嬉しそうに笑った。その顔を見て、私も嬉しくなった。
「ありがとう、佐伯」
「俺は何もしてないよ。何か出来るならいつでも手伝うけど」
「うん……」
なんてあたたかい言葉。心地いい声音。優しい匂い。佐伯に甘えてしまいたい。そう思わせる安心感があった。
「じゃあ佐伯。もう一度、握手しよう」
「握手?」
「今までの私とお別れしたいの。新たな自分になるために。いいでしょう?」
佐伯は納得いかなそうに、けれど頷いて手を広げる。私はにっこり微笑んで、その手を強く強く握った。
「本当にありがとう」
「いや、これくらい別に……」
「いい思い出になったわ。これで心置き無く離れられる」
「離……?」
佐伯が聞き返す間もなく、私はその手を乱暴に振りほどき、フェンスの向こうへ飛び越えた。佐伯の息遣いが変わるのがわかった。それになぜか、笑みがこぼれる。
そのまま私は縁へ立つ。つま先は乗り切らず飛び出して、土がぱらぱらと散り落ちる。
「神無っ……! 何を……」
「佐伯。見て、私を」
佐伯の困惑が見て取れた。
「本当に、”視て”。あなただったら見えるはず。私には何か憑いている?」
「何も付いてない! それが何だって言うんだよ!」
私はフェンスに指を絡めながら、そう、とだけ呟いて前を向き直る。フェンスも何もない、目の前には見慣れた建物や道路が自由に広がっている。
「やめろ神無!」
「私はね、佐伯。無関心でいることこそが、”私”だったの」
「だからそれは今日から……!」
「簡単には変えられない。わかるでしょう、佐伯なら。……弱虫の佐伯なら」
佐伯はぐっと言葉を呑み込んだ。過去を振り返っているのか、その顔は不安に満ちていた。
「私は、要するに誰にも必要とされないように生きてきた。だからきっと、クラスの人にだって、顔も名前も覚えられていないのよ」
佐伯は、そんなことはないと、開いた口は言葉にならず、先程の関との会話がよみがえってくる。
『神無?──誰だよ、それ?』
「よく見て、佐伯。私は何に見える?」
ゆっくりと顔を上げて、私を見る佐伯の表情がふっと変わった。その顔は、驚きと、怯え。きっと彼には見えるんだろう。
”この大きな大きな蟲ケラが”。
「気づいてしまったら、気になって気になってしょうがないの」
じりじりと足場の面積を狭めて行く。カウントダウンの開始だ。
「……神無! 待て!」
恐れに満ちた表情で、それでも私に手を伸ばしてくるというの。佐伯は私から決して目を離さない。手を伸ばしたまま走り寄ってくる彼に、愛しささえ感じる。
けれど後3秒で何ができるっていうの。
「ばいばい」
その一言を掛声に、満面の笑みで一歩を踏み出した。
落ちる。
佐伯の悲痛な叫びは、耳鳴りのような轟音に掻き消されて私の耳には届かない。
佐伯には感謝している。迷う私に、一歩前に進む勇気をくれたから。
私は私の蟲ケラが気持ち悪くてしょうがないの。気づいてしまったら、意識し続けちゃうでしょう。それってすごく疲れるし。
私が飛び降りたことで誰かの命が助かるとか、誰かが幸せになるとか、きっとそんなことは一切無いだろう。
けれど私にはまだ行き場があった。学校じゃない、家でもない、確かな居場所にこれから向かうだけ。
蟲ケラを背負って生きて行くなんて私はやってられない。そんなの虫が好かない。
それに、佐伯も。佐伯は私に好意でもあったのだろうか。蓼食う虫も好き好きって言うけれど、私を好きになってくれる人がいるなんて。けれどどうせ螻蛄の水渡り。すぐに私のことなんて飽きるでしょう。
なんて言っている間にそろそろ”着地”も近いかな。
さよなら、私。
飛んで火に入る夏の虫。私は自らの蟲ケラを断ち切るため、自らの命を断ち切った。
あぁ、そうそう。佐伯はわかったかしら。私自身が蟲ケラだったってことに。その答えが聞けないのが、唯一私の心残りだ。
□■□
無関心の神無さん
むかんしんのかんなしさん
むかんしん の「か」「ん」無し
む し
fin.
この章はこの話で最後です。
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。