3 冷めた家族の崩壊
次の日も、また次の日も。蟲ケラが見えるようになってから、私の視界にはいやでもその黒い物体が映り込むようになっていた。
ほら、例えば今まで気にしていなかったものが、それを理解した途端、目の端に嫌でも入り込んできてしまうこと、あるでしょう。
存在を肯定すれば、蟲ケラはそこに確かに存在する。人間の身体を母体として、少しずつ少しずつ、成長していく。
やがてやつらは、母である人間さえも食い潰してしまうのだ。
◇◆◇
「神無」
聞き覚えのある柔らかい声音は紛れもなく佐伯のものだった。
「話があるんだけど」
「私は話なんてない。帰る」
そう冷たくあしらって、目を合わせずに教室から出て行こうとする私に、佐伯がもう一度私の名を呼びかける。
ビクリと身体が震える。指先が冷たくなって、両の脚はビリビリと電気が走ったかのように動けなくなる。
佐伯は嫌いだ。なぜか、見放せない。つい振り返ろうとしてしまう。身体が言うことを聞かなくなる。
私が動きを止めたことが、彼には話を聞いてくれる気になったととったようで、やや安心したように私の背中に話しかける。
「この前、蟲がどうたらって……あれ、もっと詳しく聞きたくて」
「そんなの、佐伯には関係ない。急いでるの。もう話しかけないで」
「でも……っ!」
「しつこい!」
一際大きく悲鳴のようにそう叫ぶと、その声に教室のクラスメートや廊下にいた生徒が一斉にこちらに視線を向ける。
ほら、また、無数の眼が私を。
息が詰まる。
見ないで。見ないで。見ないで!
「”こういう時”ばっかり、”構わない”でよ!」
そう言い残して、私は足早に教室を出る。
今まで誰も、私のことなんて見向きもしなかったくせに。友達なんて一人もいない。家族にさえ私の存在なんて無いかのように扱われて。
だから誰にも邪魔されないように、私だけで生きられるように。そうやって過ごしてきたのに。
こういう時ばっかり、私を見るのはやめてよ。
◇◆◇
私がいなくなった後の教室は、数秒間ほど時が止まったように静まり返り、そして何事もなかったかのように日常が戻った。
「神無……」
「ほら、佐伯ー。俺らも帰るぞ」
「関。でも、神無が」
「神無?──誰だよ、それ?」
「……は?」
◇◆◇
私は皆とは違う。
皆みたいに楽しく人と話すことなんて出来ないし、ましてあんな蟲ケラを引っ付けてなんて歩けない。
あの子もあの子もあいつらも。様々な蟲ケラとともに生活している。
金食い虫。泣き虫。ああ、あの子には、本の虫が。
でも気づいていないんでしょう。それでいいのならいいの。
私には関係ないんだから。
なぜって?
私は皆とは違うから。
皆と違う私は、誰からも相手になんかされない。今までだってそうだった。だから。
私は蟲ケラを無視し続ける。
◇◆◇
気づけば私はいつの間にか家の扉の前に立っていた。全力疾走してきた身体は、息があがり、肩が激しく上下する。鍵を取りだし差し込んで回してみる。普段と同じことを繰り返しているだけなのに、今日は何やら妙に抵抗感がない。
「もう開いてる……?」
理由もなくざわつく心臓。キリキリと体内が締め上がるこの感じ。
私はゆっくりと、扉に手をかけた。
玄関には、きちんと揃えられた見慣れない靴が礼儀正しく佇んでいた。
「ただいま。……母さん」
部屋の奥で小さく返事が帰って来る。
「おかえりなさい。真央」
◇◆◇
「久しぶりね。こうやって顔を合わせるのは。変わりない?」
「うん」
「そう。ならいいけど。お茶飲む?お湯を沸かすわ」
「うん」
母と会話したのはいつぶりだろう。久しぶりすぎて、どんな顔をしていいのかわからず、うつむいてぼんやり返事をする。
本音を言うと嬉しかった。
この時間は私にとって珍しいことで、唯一母が私を見てくれる瞬間だったから。
そこではっと瞠目する。この蟲ケラのこと、母になら相談が出来るかもしれない。母だけは、私の話を理解してくれるかもしれない。
鼓動が一層早くなり、肺いっぱいに息を吸うことが出来ない。けれど、打ち明ければ、何かが変わる気がした。
変な子だって思われるかもしれない。それでもいい。母が私を見てくれるなら。
「ね……母さん、私、話が」
「私も話があるの。だからこの時間に帰ってきたのよ」
え、と、まるで予想していなかった返事に顔を上げる。その時の母の顔は、私の母の顔ではなかった。
いつからそんなに痩せたの。シワも増えて。背も低くなった気がする。髪も白っぽくなってきた。
私の知らないところで、母は確実に変わってしまった。
衝撃で言葉に詰まる。
なんて返事をしてよいのかわからない。耳元で砂嵐のような雑音が始終鳴り響いている。うるさいうるさい。黙ってて。
私の様子を伺いながら、母は小さく続けた。
「母さんと父さんね、離婚することになったの」
今まであんなにうるさかった雑音が、今度はピタリと止んだ。まるで聞き逃すなよと言わんばかりに。
「それでね、母さん、今新しい男性とお付き合いしているの。今度はその人と結婚するつもりでいるわ」
ああ、そういうこと。
火にかけていたやかんが沸騰を知らせる。
母は火を止め、私の目を見ないように背中を向けた。以前はあんなに大きかった背中が、今はひどく小さく見えた。
「いい人よ。あの人とは大違い。真央はどうする? 母さんと一緒に来る?」
その言葉の裏に、来ないで欲しいという本心が見え隠れしている気がした。私は邪魔者なんだと、痛感した。
それと同時に、私の中で何かが吹っ切れた。
「そっか、うん、そういうこと。母さんは仕事行ってるんだと思ってた。だから我慢してた。一人でもいいって、寂しくないんだってそう思い続けてきた」
「真央……?」
「でも違った。私が信じていたその間、母さんは、……」
真央、と心配そうに私の顔を覗き込む母の顔は、もはや知らない女の顔つきになっていた。
「虫がいい話よね。子供放ってさ。悪い虫がつかないように、もっとちゃんと甘えておけばよかった」
彼女は驚いた顔を向ける。
強がって発した言葉と同時に頬に流れる熱いものが、とめどなく意思に反して零れて止まらない。
母さんや父さんがいなくても平気だった。私は辛くなかった。
───でもちょっと、一緒にいたかった。本当は、寂しかった。
「さよなら」
一言そう吐き捨てて、私はまた逃げ出すように家を飛び出した。
家に入る前の、あの胸のざわつきは、きっと虫の知らせってやつだったんだ。
私にはもう行き場なんてないんだ。視界が滲んでうまく走れない。
次話は明日16時更新予定。