2 無関心少女の孤独
「はぁ……」
我が家に帰るなり直様階段を駆け上がり、一番奥の自室に身を隠した。
私はひとりっ子で、父も母も朝から夜までギッチリと仕事を詰め込んだ生活をしている、つまり根っからの”仕事人間”だった。小さい頃から家に帰っても、「おかえり」を言ってくれる存在なんて無かったし、それが当たり前すぎて寂しいと思うこともなかった。欲を言えば、少しは家族の団らんというものを経験してみたかった。しかし私には常に冷めた食事と一枚の言伝が残されているだけだった。
「”今日は遅くなります”? 今日も、でしょ」
ため息とともに、家族に対する信頼も、思い出も、皆するすると吐き出ていってしまう。もう何度目のため息だろう。
静まりかえった空虚な部屋にぽつりと残されている自分は、嫌でも「ああ、独りなんだな」と気づかされてしまう。耳にこびりつく雑音が、いつにもまして大きく嗤いかけてくる。耳を塞いでも、目を瞑っても、それは一向に鳴り止まない。
私は振り切るように制服のままベッドに飛び込み、布団を被る。
そしてまた、学校での出来事を思い返してみるのだった。
「あれは一体なんだったの」
黒い物体を潰した親指と人差し指を、もう一度こすり合わせてみる。確かに私はこの手でそれをつまんでみたのに。
そしてそれが指から忽然と消えた後の、彼女の豹変。
「何か関係があるの……?」
例えばあれに名前をつけるとしたら。私は。
「蟲ケラ」
思えばそう、唱えていた。
◇◆◇
人間は脆い。
だからこそ人間は安堵を求める。
蟲ケラはそれを見逃さない。
「救う」と見せかけて、「巣食う」。無数の蟲ケラは、そうして自分の居場所を見出すのだ。
◇◆◇
ここにきて、私は少しだけ気づいたことがある。といってもそれが本当に正しいかなんて、私しかわからないことだから知る由もない。ただなんとなく、呆然とそんな風に思っている。
それが、『蟲ケラは、人の心に潜む潜在的な何か』なのだということ。
そんな一言で納得してもらえるほど簡単なことだとは到底思ってはいない。しかし、これは少なくとも的を得ているはずだ。
分かりやすく言おう。
人間の「蟲」が具現化したものである、ってこと。
……まだわからない?それならそれでいい。だって私には、
「関係ないことだから」
別に同意を求めようなんて、そんな浅はかな考えだなどと勘違いしないで欲しい。ただ、興味深そうにしていたから少しだけ教えてあげようと思っただけ。
どうせ読者たちには見えないんでしょう?
どうせ同級生らにも見えないんだから。
◇◆◇
いつものように、教室の扉の前に立ち、軽く深呼吸をする。この部屋に入ったら、空気なんて吸えたもんじゃない。
長年使われ薄汚れた扉は、私の前で「そちらに行くな」とでも言っているかのようにどっしりと構えている。
しばらく扉を睨めつけて、諦め半分に指先を伸ばす。
逃げたってしょうがない。飛び込むしかないの。
少しずつ開かれた隙間から、教室内で話を弾ませるクラスメートの声がこぼれてくる。半分まで開け、顔を覗かせる。特に反応はない。皆、目の前の会話に夢中のようだ。
ほっとして、足音を立てないように扉の間をすり抜けて静かに扉をしめる。
自分の席に向かう途中も、なんとなく息を止めてしまった。
私には蟲ケラはついていないのだし、平然としていれば良いのだろうけれど、ここまで周囲が自らのペットのように蟲ケラを携えていては流石に肩身が狭い思いだ。
だからこそ、”彼”に蟲ケラが見えていることは驚いた。
◇◆◇
「……佐伯?」
「え、ああ神無か、……何?」
「何してるの」
そう問いかけてみて、これは愚問だったと気づくまで一秒もかからなかった。
佐伯は男にしては大きく潤んだ瞳を暫しぱちくりとさせ、やがて中途半端に伸ばしかけた腕を引っ込めた。
「別に……関の肩のゴミとってやろうかなって思っただけだよ」
私はその言葉に、私にか見えていないと思っていたそれが、他人にも見えるものなのだという純粋な驚きで言葉を失った。
「神無?」
私の不自然な問いかけに佐伯は困惑しているようだった。
仲間がいることに少しだけ高揚感をおぼえた私は、しかしそれを見破られまいとわざと淡々と、いたずらをした子供を窘めるように言った。
「放っときなよ。そうじゃないと……知らないよ」
「え? どういうこと?」
「無知の人間が、手を出していいことじゃないから」
「言ってる意味が全然わからないんだけど……」
私は佐伯の言葉を無視して視線を蟲ケラに向けた。そいつはやけに大きかった。黒くてどろついた瞳孔をぎゅるぎゅると動かしている様は、この地球上で一番気持ちの悪いもののような気がした。
「佐伯はこれが見えているの?」
「は? 見えてる……っていうか、うん、なんかゴミが……」
「眼は? 脚は? どんな風に見えている?」
佐伯は流石に不審に思ったらしい。私の問いかけに眉をピンと跳ね上げ、私の言葉をそのまま繰り返した。
「一つ教えてあげる。”これ”はね、蟲なの。人間の心の最下層に巣食う蟲。簡単に殺すことは出来るわ。でもその反動は保障しない。関を、不登校になった中村さんみたいにしたくなかったら、放っておいて」
人と言葉を交わすのは、得意ではない。だから私がこんなに饒舌になったのも珍しいことだった。
きっと仲間が出来たから、その安心感が私の中であったのかもしれない。ほんの少しだけ、構いたくなったのかもしれない。
「中村が不登校になったことと、このゴミが関係あるのか?」
佐伯が食いついてきたと同時に、自分の両側で繰り広げられる謎の会話に関は目を白黒させて割り込んできた。
「ちょっと待て待て、佐伯も神無も、さっきから何言ってんの? なんか俺に付いてんの?」
「付いてるよ。……ううん。憑いてるよ、ずっと前から。関には”お邪魔虫”が」
「お邪魔虫ィ? ひっでーこと言うな、神無は」
私はふふっと愛想笑いし、その場から離れる。去り際に佐伯の耳元で「佐伯には”弱虫”が、ね」と呟くと、彼は絶句してその黒瞳を見開いた。
そのまま彼らには見向きもせず私は教室を出る。どこに行ったって蟲ケラから離れられるわけではなかったが、教室のように蟲ケラまみれの圧縮された空気を吸い続けるよりはマシだった。
「……ちょっと介入しすぎちゃったかなぁ」
独り言のように呟いて、私らしくないと笑いが込み上げてきた。
他の人のことなんてどうでもいい。私に関係ないことだ。もう金輪際佐伯に話しかけることもないだろう。今日のは少し、魔が差しただけだ。
「それにしても」
私は誰もいない屋上で、空を見上げる。
「中村さんの”腹の虫”、私が殺しちゃったんだなぁ」
その事実が、私のか弱い二本の足に乗しかかってなかなか次の一歩を踏み出せない。
次話は明日16時更新予定。