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海に棲むもの

作者: 桜井和翔

海に棲むもの


【起】

 私達夫婦は月に二度のペースで海へ潜りに行く。三十路を迎える夫婦のささやかなそして贅沢な楽しみだ。

 ファンダイビングの主流はライセンスを海外で取り、美しい熱帯魚や珊瑚礁の海を何度も満喫する事だろう。しかし私達はタンクを担いだダイビングから一旦卒業し、休日に車で二時間ほど走れば着く東伊豆「綾曽根」でシュノーケリングを楽しんでいる。

 綾曽根は内海の遠浅で比較的安全なダイビングスポットだ。その代わりファンダイブとしては面白みがない。夏休み前の日曜日は講習中の学生ダイバーや、私達のような二、三人のプライベートダイバーが散見される程度なのでゆったり海を楽しめる。

 しかもほとんどのダイバーは〝タンク背負い〟そしてボートダイブが主流なので、おかからエントリーして浅瀬をシュノーケリングするのは私達くらいだ。初夏の綾曽根ならウエットスーツで十分。ちょっとしたプライベートビーチ気分を味わえる。

 ダイビングの基本はバディと共に行動だ。もちろん私達も最初は組みになって潜っていた。しかしシュノーケリングという気楽さと綾曽根の安全な地形に慣れ、最近は私も美春も相手の位置を確認する程度になり、海上で互いを探し何か見つけたか報告し合う。もちろんエキジットは一緒に行う。

 浅瀬だ遠浅だといっても海水浴場のそれとは全く違う。腰まで浸かってフィンを蹴るとすぐ水深は三メートルほどになり、ボート乗り場辺りまで泳ぐと十メートル以上の深さになる。水深十メートル、この深さへの挑戦がシュノーケリングの醍醐味だ。

 まずは目視五、六メートルから潜行を始める。海上で力を抜きシュノーケル越しに息を整える。目指すポイントを決め上半身を一気に曲げ、下半身をタイミング良く立てる。ジャックナイフダイブだ。きれいに決まると飛び込み選手のように静かに潜れる。フィンが確実に水中に入ってからキックを始めるのがコツだ。フィンを蹴りながら私は身体を回転させる。この動作に意味は全くない。遊泳気分が少し増すという私の好みだ。

 頭を起点とした水深三メートル程度から最初の耳抜きをする。逆立ちしながらの耳抜きは苦手だが、今日は調子がいいようだ。二度目の耳抜きで海底に辿り着き、岩場にしがみつく。ここから岩場の散策だ。しかし二枚貝がまばらにあるくらいでウツボも見つからない。なまこがやたらと多いが、魚を探すのは一苦労だ。

 綾曽根の海は色彩がない。透明度が低く目立った生き物もいない。でも私はこれで満足だ。美しい熱帯魚もきらびやかな珊瑚も――あるに越したことはないが――二次的なもので、海中に漂うことが私の目的だ。しかも器具に頼らず自身の力で成すことに意味がある。外資系企業の法人営業部で始終ストレスを溜めている私には最高の憂さ晴らしだ。

 妻の美春はさぞかし退屈ではないかと思ったが、

「月に二回も海に潜れてしかも安上がり、素敵じゃない」

 と言ってくれた。実際美春も楽しんでくれているようだ。

 ジャックナイフダイブでの潜行を何度か行い、六メートル前後の潜行にだいぶ慣れてきた。海上に頭を出している美春に手を振る。美春は私の行動パターンを知っているし、私も美春が潜水する場所を大体把握している。私はもう少し沖合にフィンを蹴った。

 目視十メートル。今日の初挑戦だ。海面に漂いながら危険だとされているハイパーベンチレーション――過呼吸――を敢えて行う。大きく深呼吸をすることにより肺の中の二酸化炭素分圧を下げる呼吸法だ。初心者の教科書では禁止されているが、十メートルダイブには欠かせない。三回深呼吸して潜行する。無駄な動きは出来ないので回転もせずフィンもゆっくり大きく蹴る。耳抜きが大きく体力を、酸素を使う。耳抜き二回目、三回目、海底はまだ先だ。焦りのせいか早くも息苦しくなってきた。肺の空気を一泡二泡抜いて二酸化炭素分圧を下げる。もう少しで到達する。しかし駄目だ。浮上時に陥るブラックアウトの恐怖が襲う。撤退だ。私は息を吐きながら急浮上する。海面に到達しクジラのように水抜きをする。

 呼吸が大きく乱れている。今日は無理かもな。ジャック・マイヨールへの道は険しい。シュノーケルを外し仰向けになって息を整える。今日も綾曽根の内海はべた凪だ。波に身を任せるのが心地いい。目視を誤って十メートル以深を目指してしまったのか。単に体調が悪いのか。どちらにせよこのポイントでは不可能だ。シュノーケルをくわえ直しフィンを蹴り、もう少し浅い岩場を探す。

「高志!」

 美春が呼んでいる。二人とも手を振りフィンを蹴って相手に近づく。

 海面なので会話は肩を組みながらになる。

「何かあったか」

「これっくらい、五センチくらいのね、ハコフグがわたしのマスクの前をちょろちょろちょろって、泳いでいったわ」

 美春がジェスチャーを交え目を寄せて表現した。お互い笑いあう。美春が潜るのは精々四メートル前後の岩場だ。海底にいる時間が長い分、小魚に出会う確率も多いだろう。

「一度陸に上がる?」

「いや、もう二、三度挑戦したい」

「じゃあ、わたしは海面で見物してるわ」

「悪いな」

 私達は綾曽根の西側、ボートの対岸へと進む。特に意識はしていなかったが、この辺りを潜るのは久し振りだ。珍しい生き物でも見つけて美春に報告したいが。

 それを発見したのは美春だった。美春は私の肩を叩き立ち泳ぎの姿勢でシュノーケルをはずす。

「なんか右側になんか変なものがあるわ」

 なんかなんか変なものか、私は苦笑いし美春が指差す方向へ向かう。

 ――なんだあれは?

 確かに岩場だらけの海中にはそぐわないものが沈んでいる。四角く細長くて銀色の箱。表面は蛇腹状になっている。かなりの大きさだ。まさか。

「あれ、コンテナか?」

 シュノーケルを外しつぶやく。美春はシュノーケルをくわえたまま大きく頷く。

 コンテナを左側面から眺める。長さは十メートル以上ある。相当な体積だ。電車のコンテナとは思えない、海上コンテナか。いつからあったのだろう。どこから運んできてどうやって沈めたか、見当もつかない。

「高志、あっちにも」

 海底の岩場にもう一つ茶色い何か沈んでいる。

「まずコンテナの様子を見てくる」

「無理しないでね」

「ふぁふぁっふぇふ」

 最後の〝わかってる〟という返事はシュノーケルでくぐもってしまった。

 身体を海面と水平にして俯瞰する。発見したときはその大きさで距離感が掴めなかったが、真上からみるとかなり深い。目視で深度十二メートルか……コンテナ下部はもっとある。いけるところまで潜ってみよう。

 ハイパーベンチレーションを三度行い潜水する。耳抜きの調子はいい。流されることなくコンテナへ真っ直ぐ近づく。

 コンテナの角を掴んだ。ここで八メートル位だろう、思ったより浅かった。しかしこの物体自体が大きいので、最下部はやはり十メートル以上ありそうだ。

 コンテナをなぞってみるがグローブからは何も伝わらない。軽く叩いてみると音はわずかに響いた。周囲を回ったが特に大きな発見はない。一旦浮上する。

「今度はあっちに沈んでるのを見てくる」

「あ、あそこならわたしも潜れそうだから一緒に行く」

 美春と一緒に泳いで一緒に潜水する。これは板だ。長い板。コンテナの一面だろうか。幅、高さ共に同じくらいのサイズだ。おそらく天井か床か壁だと想像出来る。そして先ほどのコンテナは三面そろっていた。つまり。

 一緒に浮上して水抜きももどかしくシュノーケルを外す。

「あっちのコンテナはさ」

「底が抜けてるわね」

 先に言われてしまった。

 コンテナに戻って再度潜る。美春は海面で待機だ。先ほどと同じコンテナの角を掴んで最深部の様子を見る。岩場の起伏が大きい部分に隙間を発見した。もしかするとあの隙間はコンテナの空洞と繋がっているかも知れない。期待に胸が躍った。隙間の広さを確かめるためコンテナに伝ってもう少し潜る。

 その時だった。

 ――ある生き物が海底を歩くように隙間へ潜り込んだ。

 どこから現れたのかわからない。かなりの大きさだった。灰色の影が何かを抱えカニ歩きで隙間に入っていった。

私は驚愕のあまり硬直してしまった。しばらく苦しさも忘れて隙間に釘付けになり、慌てて浮上する。

「美春! 美春!」

 数メートル離れた美春が寄ってきた。

「見たか? 今の見たか?」

「あ、ごめん。わたしはコンテナの反対側を見てたから。何か見つけたの?」

 私はマスクを取って美春の肩を掴む。

「サルがいたんだ」

「さる?」

「猿だ」

「サアルゥ!」

 美春もマスクを取る。

「冗談でしょ?」

「冗談だったらもうちょっと気の利いたこと言うよ。ウミガメとか、ダイオウイカとか」

「だって、ちょ。猿が何してたの?」

「海底を歩いてコンテナの中に潜り込んだ」

 美春は目を見張っている。電池の切れたロボットみたいに固まってしまった。私は美春が落ち着くのを辛抱強く待つ。

「だっ、えっ、だって、猿だったら浮いちゃうでしょ。海ん中なんだから」

 再起動した美春は至極もっともなことを言う。

 私は美春の肩を強く握り、見た通りのことをゆっくりと伝える。

「猿がな、片手に岩を持って、それをお腹に抱えて、横歩きしていたんだ」

「猿がウエイト持って海底を歩いてたあ!」

 美春は驚きを通り越して大爆笑する。あはは、あは、あはははは。そして海水を思い切り飲み込んでしまい、咳き込む。げほほ、げほ、げほほほほ。私は(あまり効果はないが)美春の背をさすってやる。

「もう、馬鹿な事言うから溺れるところだったじゃない」

 美春は涙目で言う。

「本当に見たんだ。俺はお前とは反対で、心肺停止するかと思ったよ」

 綾曽根の内海は海流が緩やかなので、海面でお喋りしている最中でも流されることなくコンテナの真上に留まっていた。私達はマスクとシュノーケルを付け直しコンテナを眺める。

 その後二、三度潜行したがそれ以上の手がかりは見つからなかった。

「よし、来週はスキューバであのコンテナを探検しよう」

「うん、わたしも海猿ちゃん見たい」

「どっかで聞いたことあるな、それ」

 私達の刺激的なシュノーケリングは取り敢えず終了した。


【承】

「その猿って、ニホンザルだった?」

 夕食を食べながら美春が聞く。

「え、ん、ああ、ニホンザルだ、たぶんね」

 大事なことを伝え忘れていたなと思う。

「ふーん」

 美春は意味深に唸る。

「何か引っかかるか?」

「ううん、外来種だったらその可能性もあるかなって」

 外来種の猿? 海に生息する猿? 聞いたことがない。だがいないと言い切れるほど猿に詳しいわけでもない。美春は話を続ける。

「わたしも猿は詳しくないからわからないけどね。ただニホンザルは」

「世界最北端に棲む猿で温泉につかる珍しい猿」

 美春はにっこり笑う。お互い、知識の程度は同じくらいだ。

「でもニホンザルだったら、ちょうど保護色だね」

 保護色。これも私の考えにはなかった。綾曽根のような色彩のない岩場とニホンザルの毛はよく似ている。間近に突然現れたのは保護色で遠目では気づかなかったからかも知れない。これは偶然か必然か。

「ま、来週行けばなんかわかるじゃん」

 美春はご飯を口に入れながら楽しそうに笑った。


 翌週の日曜日。私達は再び綾曽根の海にいた。自宅にある機材は経年劣化が心配で、かつメンテナンスを待つ時間もなかった。なのでBCジャケットやレギュレーター、もちろんタンクも全て一式地元のダイビングショップでレンタルする事にした。ショップとしては有り難い客らしくセッティングまで行ってくれた。水中ライトや会話用ボード、ナイフは持参してある。あとは背負ってくわえて潜るだけだ。

 スキューバセット一式纏って歩くのはかなり体力がいる。波打ち際まで歩くだけで、早くも美春の息は切れていた。私はゆっくりでいいよと伝え、腰まで浸かる辺りまで先行して待つ。しばらくすると美春は私の横に座った。彼女の肩を抱き唇を左耳に押し当てる。うん、無理はしていない。私達はマスクを付けレギュレーターをくわえ波に向かってザンと身を任せた。

 数秒お腹に浜に当てているような違和感を覚えるが、すぐにそれが浮遊感へと変わる。美春を横から覗くが問題なさそうだ。私達は綾曽根の西にあるコンテナへと向かう。

 海上での移動はシュノーケルを使っても良さそうだが、大分スキューバから遠ざかって久しい私達には、最初からレキュレーターを使った方が勘を取り戻しやすい。それにたかだか十五メートル程度のダイブ。エアを気にする深度ではない。

 目指していたコンテナが見えてきた。翌週確かめると霧のように消えていました、というつまらないオチも考えていたが、やはり存在していた。私達はコンテナの真上で止まった。

 潜行は二人同時に行う。私は美春に合図し、頷くのを確認して潜行する。

 スキューバダイビングの潜行は想像以上に恐ろしい。人間は浮力があり、ウエットスーツの場合体重の十分の一のウエイトを腰に巻いても自然には沈めない。潜行するにはBCジャケットのエアを抜きかつ「肺の空気を排出」をしなければならない。息を吐いて吐いて吐きまくって堪えろと言われるようなものだ。美春は果たしてその感覚を覚えているだろうか。

 私の心配をよそに美春はするするっと簡単に潜行できた。マスクから見える彼女の顔はどんなもんだい、と言っているようだ。私は美春を軽くハグする。

 私達が立っているのは先週私が手がかりにしたコンテナの角付近だ。コンテナの最深部をのぞき見るとやはり岩場に隙間がある。もちろん辺りに猿はいない。美春に合図し私は隙間へと向かった。

 隙間は真上から見るよりかなり広かった。水深計を見ると十一メートル。思ったより浅かった。BCのエアを出し入れして浮力調整する。一番の心配はタンクを背負ってくぐれるか、だったがこの広さなら大丈夫だろう。

 私は身体を仰向けにして隙間の中を覗く。最初は上半身だけで止め様子を伺うが、やはり中は真っ暗だ。水中ライトを手に持ち点ける。

 暗闇でのライトは想像以上に照明効果がなく、演劇幕前のスポットライト程度だ。光が壁に当たり反射した部分しか見えない。慎重に内部を窺う。ライトの光が気持ち屈折しているようにも見える。やはりエアがありそうだ。別に自力でも脱出できるが、約束なのでコンテナの壁をコンコンと二回叩いた。美春は私の脚を掴み引っ張り、引き出した勢いで水中をくるくる回っている。美春はこれをやりたかったらしい。久々のスキューバではしゃいでる。自転する美春をよそに私は水中ボードにメッセージを書く。

《はいってみる》

 回り飽きた美春に見せるとさすがに緊張したようで、

《きをつけて》

 と書き足してくれた。私は頷く。

 隙間は十分な広さだ、その隙間から美春がライトを照らしてくれるので出口は見誤らない、危険物はない、すぐ脱出できる。大丈夫だ、大丈夫だ。よし。

 進入した。

 取り敢えず上昇してみる。

 ざばん。

(えっ?)

 呆気なくエアのある空間に出た。肩から下は水の中だ。ウワーンと耳鳴りのような反響が響く。予想はしていたが、それ以上にコンテナの空間はエアで満たされていた。ライトで上下左右をみまわす。おおよそだが半分くらいがエアの空間だ。よく浮いてしまわないなと不思議に思う。出口を確認する。美春のライトが点り、そしてコンテナ外の海の明かりもわずかに見える。ライトを持って待機していなくても脱出出来るだろう。コンテナ内に響く反響音はかなり耳に付いた。マスクとレギュレーターで鼻をつまんでいる状態だから臭いは感じない。レギュレーターは外さない、外せない。此処にどんなガスが充満しているかわからない。それに潜行現場でのエア補給は厳禁だ。肺の過膨張障害になる危険がある。

 美春がじれているだろう、一旦コンテナから出る。美春と顔を合わすと彼女は私からボードを引ったくり、

《やくそくいはん!》

 と殴り書きした。そうだった。無事である証明に一定間隔でコンテナを叩く約束だった。コンテナ内の予想外な状況に飲まれて忘れていた。私は水中で土下座した。腕を組んで立腹を表している美春に、

《二人で入れそうだ》

 というボードを見せると今度は水中で小躍りした。機嫌が直って何よりだ。

 私はボード越しに、コンテナ内はエアが充満していること、しかしコンテナ内のエアは絶対吸わずレギュレーターを外さないこと、反響音がキツいから気分悪くなったら伝えること、そしてつないだ手は滅多に離さないことをボードで時間をかけて指示した。美春は一つ一つに親指と人差し指で輪を作りOKサインを出す。互いの残圧計を確認する。回ったり踊ったりした分美春のエアが減っているが、それでもまだ三十分はいけそうだ。だが慎重を期して二十分を目安にする。

 私から先に入り、招き入れるように美春に手を伸ばした。二人で上昇する。

 ざばん。

 ぐわっ。

 美春のレギュレーターから声が漏れた。事前に知らされていても、浮上の呆気なさに驚いたようだ。やはり閉塞感を増す反響音が聞こえる。私はライトを自分に当て耳を差す。美春は大丈夫、とOKサインをくれた。

 肩から上を空洞に突きだし、二人身を寄せながら真っ暗な闇にライトを照らす。

 ぐわっ! ぐわっ! と美春が騒ぐ。美春が当てているライトの先に自分のライトを重ねた。

 ――そこに、猿がいた。身を寄せるように三匹も。


【転】

 淡水性の亀を飼育する容器を見たことがある。飼育容器に水を入れ所々に岩場を作る。私達の状況はその容器と酷似していた。コンテナが容器。猿達が岩場に身を潜め、私達は水から間抜け面を肩まで出して浮いている。ジオラマが作れそうだ。

 私達と猿の距離は八メートル程か。出口を確認するとコンテナ外の明かりが薄青くみえる。大丈夫だ。フィンを揺らせながらゆっくり、ゆっくりと猿に近寄る。岩場につっかえたらそれ以上進むのは止めよう。飛びかかられては勝ち目がない。猿はこちらのライトを迷惑そうにまぶしがっている。ダース・ベイダーに囲まれて恐れているような表情だ、実際似たようなものだが。エアがあるので会話は出来る。此処のエアを吸い込まないように美春の耳元に囁く。

「直接顔に光を当てるな」

 美春はレギュレーターをくわえたまま頷く。五メートルを切るぐらいの距離まで近づけた。

 灰色の毛を持つ猿。だが思ったより毛は少なかった。いや短いと行った方が正しい。生まれたての猿をそのまま大きくしたような感じで、人間の小児にも似ていた。頬がこけ身体もやつれひどく貧相にみえる。背筋が伸びていて手足が長く人間的な体つきだ。ニホンザルは訂正、全く似ていない。

 美春がボードを手に取り、

《けっこうかわいいね》

 と書いた。全く女って奴は。

 食事はどうしているのだろう。猿が座り込んでいる足下にライトを向ける。光の加減でよくみえないがナニカが散らばっている。もう少し近寄りたい。猿は興奮している様には見えない、大丈夫だろう。足下にあるのは貝殻の破片か? 綾曽根の内海で食べられるものといったら二枚貝くらいだろう。もう少しだけ、と近づいたら腰に岩場が当たった。これ以上は進めない、進まない方がいいだろう。猿が身を寄せ合っている壁の左右を確認すると、右側にも貝殻の破片があった。今いる場所より量が多い。「貝塚」そんな言葉が頭をよぎった。貝殻だけで生きていけるのか。たまには小魚も食べているかも知れない。どう漁をするのか検討もつかないが。排便はもちろん海の中だろう。

 顔に光を当てなくなったせいか、猿達も我々のことを品定めする余裕が出来たようだ。三匹とも村一番の長老といった風情で透き通るような瞳をしている。このまま人差し指を伸ばしたら猿も指を伸ばしてくれるかな、などとくだらない想像をする。

 犬や猫のようにアイコンタクトが出来そうだ。試しに真ん中の猿の瞳をじっとみて、ぱっと視線を左下に切ってみた。三匹がそろって同じ場所に視線をくれる。私の視線を追った! 些細なことだがすごい重要なことを発見した気持ちになる。

 美春が猿達に手を伸ばした。(おい、止めろ)と止めたいが好奇心が勝った。三匹の猿は美春の掌を覗き込んだ。しばらく不思議そうに眺めていたが、一匹の猿が好奇心を持ったのか手を近づけてきた。

「うー!」

 私は悲鳴を上げフィンをかき後じさった。陸だったら三回転ぐらいひっくり返っていただろう。猿も私の反応に驚いた様子だ。手をつないでいる美春も釣られて後退するが、何に驚いたのかわかっていない。

――指に水かきがある!

 指の第二関節辺りまで水鳥のような水かきがある! これはニホンザルじゃない、いや猿じゃない!

 呼吸に気をつけ美春に囁く。

「指に水かきがある」

 美春は目をむいた。恐る恐る猿もどき達に近寄り(私も近寄り)掌を観察する。

 私は足先を見た。手ほど目立たないがやはり水かきがある。美春は私のライトに気づき足も観察した。一緒に後退し、美春はこくりと頷いた。発見者第二号だ。私達は猿もどき達から距離をおき、しばらく放心した。


ざばん! と唐突に波がしぶきを上げた、悲鳴を上げた美春のレギュレーターが取れないように力尽くで抑える。音を上げた物体はコンテナの中を左回りに泳ぎ歩き「仲間」に合流した。四匹目……。

 戻ってきた猿はお腹にかなり重そうな岩を抱えていた。やはりウエイトをつけて潜っているのだ。右手には二枚貝を何個か握っている。やはり主食は貝か。猿達はキューンキューンと甲高い声で鳴く(これには美春も笑ってしまった)。たまに歯ぎしりのようにカチカチと歯を鳴らす。三匹がねぎらい、一匹がやれやれという表情をしている、ような気がする。


 猿は森林に住む動物だ。いざとなれば泳ぎもするだろうが、常に泳いでいる必要はない。木を渡り枝を渡る猿に水かきは邪魔なだけだ。

 ヒトは猿から進化した、という通説に疑問を投げかける俗説があるのを思い出した。人間の指にある《水かきのような跡》だ。親指と人差し指の間には肉厚の、他の指の間には数ミリほどの薄皮がある。猿にはない。これは進化の過程で不必要なもの。ご先祖の猿にないものが、その末裔であるヒトにあるのは不自然だ。よってヒトの先祖はモンキーなどでは決してない、という理屈だ。面白い屁理屈もあったものだと思っていたが。

 ここにその生き証人がいる。四匹も。見れば見るほど人間に似ている様な気がする。

 コンテナに進入して十五分経った、自分と美春の残圧計を確認する。思ったよりエアを消費していた。私はここにいるのが恐ろしくなってきた。環境ではなく未知の生物に遭遇した恐ろしさを感じた。

「出よう」

 美春に耳打ちした。美春はボードに、

《かわいいのに》

と未練がましく書いたが。私は時計を示し腕でバッテンマークを作った。

 レギュレーターのくわえ心地を再確認し出口に向かって潜行する。美春は未練がましく振り向いた。私も振り向いたがライトが当たっていないコンテナの中には漆黒の闇しかなかった。


【結】

 臭いものにされていた蓋を偶然開けてしまった気分だ。コンテナは明らかに人為的に隠蔽されたものに感じる。見てはいけないものを見てしまった。

 帰り道は尾行されているのではないかとバックミラーで後続車を頻繁に確認した。もちろん追跡する車などいない。私はナイーブになっていた。

「Xファイルだね」

 会話の弾まない帰りの車で美春が突然つぶやいた。何のことだかすぐにはわからなかったが、子供の頃流行った海外ドラマのことを言っているらしい。全くだ。あのコンテナと猿もどきは私達の手に負えない。助けてくれよモルダー捜査官。


 翌週の日曜日は美春に用事があるので綾曽根には行けない。それでなくても三週続けてはさすがにキツいし、何より行きたくなかった。

 水かきを持つ猿。ネットで調べるとやはり「人間の祖先は森から降りた猿ではない」という俗説があった。「水生類人猿説」というらしい。しかし生物学界からは黙殺されタブー視扱いされている。この説は主に非科学者の著名人が提唱しているらしい。

 私はどうすればいいのだろう。

 もしあの猿もどきを白日の下にさららしたらどうなるのか。いやそもそも否定派が猿もどきを隠匿する為にコンテナに入れて投棄したのだろうか。やはり有り得ない。隠蔽するのならさっさと殺せばいい。秘密裏に研究するのであれば、あんな中途半端な海に投棄しないだろう。しかし底辺を外しエアを残したコンテナの状態は、偶然としては出来すぎだ。考えれば考えるほど謎が深くなっていく。


 日曜日。朝早く美春が出掛けた家で私は久し振りに怠惰な一日を送った。買ってはいたが積ん読本になっていた小説を手に取り読みふけった。読み終えた頃には夕方になり、私は初めて今日の新聞を読んでいないことに気づいた。家人がいないとこうも生活リズムが狂うものか。私は新聞を取りに行った。所在なくパラパラめくったが、ホリデーダイバーとしてはやはり天気予報が気になる。

《未明に発生した台風七号、関東上陸の可能性有り》

 私が天井を仰ぐのと、「ただいま」と元気よく玄関を開ける美春の声が聞こえたのはほぼ同時だった。


 今週の美春との話題は政治でもスポーツでもなく、台風七号の状況及びその進路に終始した。綾曽根の海を台風が襲う。台風七号でどれだけ海水が攪拌されコンテナにどう影響するか、想像だにできなかった。木曜日から金曜日がヤマのようだ。次の日曜日には何事もなかったようなベタ海になっているだろう。しかしそれは予報でしかない。台風七号が停滞すれば日曜日も海は大時化オオシケ。翌週まで待たなければならない。私達はショップに連絡した。日曜日の機材予約を申し込み、海の状態によってはキャンセルの申し入れをした。ダイビングショップの店主は「そういう連絡してくれるだけでも有り難いよ、大島さんは」とお義理で答えてくれた。

 台風は金曜日に私達のマンションを襲い、土曜日朝は台風一過だった。もう一度ダイビングショップに連絡を入れた。

「こちらはもう凪いでます。内海なら問題ないでしょう」

 よし。明日はスキューバ借りてコンテナの捜索だ。

 美春の鼻息が荒い。

「あんな台風で負けちゃうような海猿ちゃんじゃない!」

 と興奮気味、しかし問題はコンテナの方だよ、という突っ込みは止めておいた。


 結果は最悪だった。コンテナもその破片もな綺麗になくなっていた。

 場所を間違えたのか、少しずれてしまったのか、なるべく広域を探したがやはりない。消えてしまった。

「綾曽根の海全域を探す!」

 一旦海面に浮上した美春は息巻いた。そんなこと不可能に決まっている。内海だけでも大変な広さ、外海まで転がってしまえば我々の潜れる限界深度を超えてしまう。でも、でも、それでもと諦めのつかない彼女の肩を掴み、幾分厳しい言い方をした。

「お前はコンテナを見に来たのか! コンテナが見つかったからどうだというんだ!」

 一面が取れてコの字になったエアに満ちたコンテナ。私達が覗いた時の状態が奇跡的だ。また同じ状態でエアを溜めて転がっている可能性は薄い。

 美春は俯いて、

「そうだね、本当にそうだね」

 とゴーグル越しに泣いていた。

 私達はコンテがあった場所を丹念に捜索した。何か見つかるかも知れない。何もかも台風がさらって行ってしまっただろうが。

 美春がコンコンとタンクを叩いた。指差す場所を見る。岩場の中の小さな穴。よくウツボが身を潜めているような穴だ。覗いてみると貝の欠片だった。自然に割れた感じではない。しかも量が多い。貝塚。私は貝塚を連想した。台風が来てほとんどが流されてしまったが、穴の奥にあった貝は残ったのだろう。私はレギュレーターを外し内緒話するように美春の耳に掌で輪を作った。この状態なら短いメッセージを送れる。

(連中の貝塚だね)

 美春は嬉しそうに三度頷いた。


 見つかったのはそれだけだった。美春は貝塚の貝を持って帰りたいと言った。漁業権に抵触しないよな、死んだ貝の破片だし少量なら勘弁してくれると思いOKした。

 私達は貝塚があったであろう場所に戻った。

 ぽわっ。美春がダイヤモンドリングを作った。肺の空気が輪になって上昇する。美春はこれが得意で滅多に失敗しない。私は滅多に成功しない。

 ぽわっ。ぽわっ。美春は連続でリングを作る。

 私は岩場で仰向けになり、ダイヤモンドリングが徐々に大きくなっていく様を眺めながら、未知の生物の行方を想った。



 もちろん彼らはそこに居た。ボート乗り場の東側。死角で誰も興味を示さない岸壁の底。水深一.五メートル、岸壁手抜工事跡、そこに小さな穴が有り奥に空洞がある。

 別荘が突然現れ、そして消えただけだ。彼らに元の日常が戻っただけだ。彼らはもともとここに棲み、これからも棲み続ける。


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