snow - 302号室 -
灰色のアスファルトに、深々と、牡丹雪が舞い降りる。
マンション三階の外に面した廊下で重い雲を見上げ、小百合(さゆり)は長く息を吐き出した。真っ白なまま落ちていく呼気を見つめ、ブルと身震いする。
首に巻いた大きめのマフラーに鼻まで埋めると、息の温かさで顔が冷えきっていることに気付いた。温めるためにコートのポケットに突っ込んだ手も、かじかんで指先の動きが鈍い。
部屋に入れば良いのだろうが、鍵がないためドアを開けられない。ほとほと困った小百合は手摺に寄りかかり身を縮めた。この部屋の住人が帰ってくるまでの辛抱だと、保温に努めるしかない。
彼女が帰ってきたら、お風呂を沸かして身体の芯まで温め、鍋でも作って食べよう。一緒にビールなんかも飲んで、そして愚痴や世間話で盛り上がるんだ。
嫌なことは、お酒を飲んで寝れば忘れられる。たまに後から思い出して気分が悪くなる時もあるけど、そんなの人間なら一度や二度、いや何度だってあることだ。気に留めなければ良いだけの話で、そうやって何度も乗り越えていけるのが人間の強さだと小百合は思っていた。
ただ、こうして一人でいるのが、今は少し寂しかった。
風が冷たくて、夕方はまだのはずなのに辺りは暗くて、この寒さの中に出る人は殆どいない。時折、マンション前の道路を車が慎重に走っていくのを見かける程度しか、視界に動きはない。
後は降り注ぐ雪と、吐く息が白く揺らめくだけ。
小百合が手摺に載せた腕に突っ伏して目を閉じた時、階段の方から誰かがくしゃみをするのが聞こえた。そちらに顔を向けると、スーツに黒いロングコート姿の一人の女性が現れた。
彼女は目で小百合の姿を捉えた途端、少し怪訝そうに眉を寄せた。
「……なんだ、小百合か。誰かと思った」
「相変わらず目が悪いんだから、コンタクトしたら良いのに」
小百合は苦笑を浮かべ、身体を起こした。
「コンタクト怖いんだもん」と言って肩をすくめる彼女は、梨生(りお)と言って高校の時からの小百合の親友である。
梨生が大学進学のために上京したのに合わせ、小百合も一緒にくっついてきた。小百合は進学するつもりはなかったが、どうせ就職するなら都会が良いという安易な考えで上京した。目的も何もない状態だった。しかし、何故か梨生がルームシェアを提案したので、それ以来七年間、二人は共に暮らしていた。
「帰ってきたってことは、今度も駄目だったってことね」
「うっ」
梨生が痛い所を鋭く突いたため、小百合は大袈裟に胸を押さえて見せた。やれやれと呆れたようにため息を吐き、梨生は鞄から鍵を取り出した。
「私ずっと言ってるでしょ。男について行くなら、あんたの部屋はなくなる覚悟でね、って。もう何度目?」
ドアに鍵を差し込む梨生の横で、小百合は視線を落とし小声で謝った。
彼氏が出来る度に、小百合は梨生の下を離れて──鍵も置いて──彼氏の家に居座った。運命の人だと勝手に思い込んで男について行っても、暫く暮らす内に何故かすぐ不仲になる。だから大概がケンカ別れだった。そして梨生の所に戻ってきた。
梨生が怒り、呆れるのも当然のことだと小百合には分かっているのだが、もうその行動が今回で五度目に及んでいる。流石に見放されてもおかしくない状況だ。
小百合が無言でマフラーをいじっていると、梨生は急に何かを思い付いたかのようにポツリと呟いた。
「まあ、そろそろ帰ってくる頃かなとは思ってたけど。おかえり」
小百合は顔を上げ、表情を明るくした。それに目も向けず梨生は部屋に入っていった。小百合も慌てて後に続き、ドアを閉めた。部屋の中もそれなりに寒かったが、外に比べれば天と地ほどの差があった。
小百合はブーツを脱ぎながら梨生の背に話しかけた。
「梨生、しばらくは私が家事するからね」
「オッケー、一ヶ月だよ」
「えっ、に、二週間にまけて」
梨生の返事に、小百合は交渉し返す。少し考えてから梨生が口を開いた。
「三週間」
「二週間と四日!」
「……出てく?」
振り返って背後のドアを指さした梨生の顔は、有無を言わせない凄味のある笑顔だった。小百合はガクリとうなだれた。
「三週間働かせていただきます……」
「よろしい。トイレ掃除とお風呂掃除もしっかりね」
満足気に頷き、梨生は自室に入っていった。彼女を見送りながら、小百合は苦笑した。
こんなフラフラした自分でも受け入れてくれるのは、高校の時から梨生だけだった。そっけない返事や態度でも、梨生はいつも優しい。
自分は何度も彼女に救われてきた。逆に自分が彼女を救った記憶は皆無に等しいが、いつかそんな時がくるかもしれない。梨生が辛い時は絶対自分が助けてあげるんだと、小百合はこっそり心に誓っている。また彼氏ができても、結婚しても、梨生だけは大切にする、と。
──でも全然守れてない気がするなぁ。
そう一人笑いして、小百合はマフラーを外し、コートを脱いだ。
「まずはお風呂掃除からだね」
腕捲りをしながら呟き、小百合は風呂場へと向かった。
おわり
毎日寒いです。
読んで下さりありがとうございました。