17 : 逢いたくても、逢えなくて。1
今日は仕事も休みなのか、昼ものんびりとしていたロザヴィンは、しかし唐突に長椅子を離れるとエリクの腕を掴んだ。
「ロザさま?」
「出かける」
「あ、そうなんですか……いってらっしゃいませ」
「おまえも行くんだよ」
「わたしも?」
「ああ」
ほら行くぞ、とエリクの腕を引っ張って、ロザヴィンはなんの準備もなく歩き出す。出かけるならそれなりの用意を、とエリクは言ったのだが、必要ないと言われてしまった。
「なら、せめて、ロザさまの外套を!」
「あ? ああ、そうか……晴れてやがるか」
長いこと陽光を避けているせいか、ロザヴィンはどこに行こうとも日陰にいることが多い。それはもう意識的なものではなく、家の中にいるときは窓際に近づかない。廊下も、陽が入るところは絶対に歩かない。それが面倒なときは、家の中でも外套を羽織っている。その外套は友人だという王弟殿下から賜ったそうで、陽光に含まれる害を完全に遮断するのだという。そんな便利なものがあると、脱がずにいるのも頷けるというものだ。
ロザヴィンは外套を取りに一度部屋に戻ったが、やはりエリクにはなんの準備もさせず、どこへ行くのかも言わなかった。
「エリク、治療院にはわたしがひとりで……あら、お出かけするの?」
午後はいつものように治療院へと出かけるアッシュが、ロザヴィンに引っ張られているエリクを見つけて目を丸くする。
「あの、ロザさまと、出かけます。治療院へは……」
「いいのよ。もともと今日は休ませようと思っていたから。ローザ、エリクに無理をさせては駄目よ。あなたのせいで身体がつらいのだから」
「母さまっ」
確かに歩くのは少しつらいけれども、休まなければならないほどひどくはない。その原因にエリクは真っ赤になったが、ロザヴィンは飄々と「ああ」と頷く。
「夕食はどうするの?」
「帰れたら帰る」
「そう。シャンティンに、よろしく伝えてね」
「……なんでわかんだよ」
「顔に書いてあるもの。兄さまになんて言おう、って」
「ほっとけ!」
ふん、とロザヴィンはアッシュから視線を逸らし、すたすたと歩き始める。エリクは慌てて「行ってきます」と、手を振った。
外に出る直前、ばさりとロザヴィンが外套を羽織る。
「掴まれ」
「え?」
「飛ぶ」
「飛ぶって……、ひゃあぁあ!」
ぐん、と上からの圧力と足許の浮遊感に驚いた一瞬、エリクはロザヴィンに抱えられて空へと、飛んでいた。
「ろっ、ろざさまぁ!」
「落としゃしねぇよ」
ちゃんと掴まれ、と言われて、エリクは全身でロザヴィンにしがみつく。
空を飛ぶなんて、初めてだ。
ふと、ロザヴィンとエリクを空に運ぶ、ロザヴィンの翼が目に入る。
一対の翼は灰色で、空の自由を得た鳥の翼とは違う形をしている。
「ロザさまの翼……」
「あ? ああ……斑で、汚ねぇだろ」
「ううん。すごく、きれい……」
「はあ?」
手を伸ばして、そろりと、触れてみる。柔らかそうに見えたのだが、けっこう硬い。
「ぅひ!」
「ひゃあ!」
がくん、と身体が揺れて、慌ててロザヴィンにしがみつき直す。
「お、おま、いきなり触んなよ!」
「え? わ、わたし?」
「変なとこ触んな! ぞわっとした……っ」
どうやらエリクが触れた部分は、ロザヴィンにとってくすぐったい場所であったらしい。ふだんは消えていて、使うときにしか表に出てこない翼なのに、ちゃんと感触があるようだ。
「触ったの、わかるんだ……」
「こういう感じだよ」
「え? ひゃああっ」
つつっと背骨を真っ直ぐ上から下へとなぞられて、吃驚する。
「ぞ、ぞわっと、ぞわっとしたっ」
「飛んでるときに触んな。わかったか」
「はいっ」
飛んでいるときに触れるのは危険だとわかった。
それにしても、その衝動を抑えるには、ロザヴィンの翼は綺麗だ。斑で汚いと本人は言うが、そんなことはない。
「……そんなに触ってみてぇなら、飛んでねぇときにしろ」
「え……」
「言えば出してやる」
ああこの人は、どうして、わかるのだろう。欲しいと思う言葉はたくさんあるし、それを言ってくれないときのほうが多いけれども、言わなくても伝わってくるものがある。
「わたし、ロザさま好き」
「聞き飽きた」
「好きだもの」
「はいはい」
ああ好きだなぁと、エリクはつくづく思う。どうしてこんなに好きなのか、それがわからないくらいロザヴィンが好きだ。
「ロザさま」
「なんだよ」
「好き」
「……あんまり言うな。腹にくる」
「ごめんなさい。でも、好きなんだもの」
ぎゅうっとしがみつけば、それ以上の力でロザヴィンは抱きしめてくれる。
エリクのことが好きなのか、そうでないのか、そんなのはどうでもいい。今確かに感じるこの腕の中が、とても幸せだ。
「すぐ着く。もう降下すっから、しっかり掴まってろよ」
「はい」
ふわふわとした気持ちは、風を切る音に少しだけ緊張する。宙にいるという不安感はロザヴィンのおかげで薄れているが、それでも初めての飛行はエリクにはちょっとした恐怖だ。
足が土を踏んだとき、心底ほっとする。
「離れるな」
と、足が地面にあるのに引き寄せられて、ロザヴィンの外套の中に包まれた。
「ロザさま?」
「少し黙っとけ」
静かにするようロザヴィンに言われたとき、数人の足音が乱雑に聞こえた。それはこちらに向かっていて、近くにきたと思ったらその足音が止む。
「なに者だ!」
という言葉に、驚いた。ロザヴィンが言ったのではない。言われたのだ。
「外套が違うだけで、わかんねぇのかよ?」
陽光の下なのに、ロザヴィンが目深に被っていた頭巾を取り払ってしまう。
「だめ、ロザさま!」
「心配ねぇよ。ここには結界がある」
「結界が……?」
ロザヴィンを陽光の害から護る結界が、ある。それはロザヴィンの行動範囲内には必ずあるものだが、万能なわけではない。ここはどこなのだろう。
「灰色……雷雲の魔導師どのでしたか」
「ああ。シャンテはいるか?」
「王佐どのでしたら中に。ご案内します」
「いや、呼んでくれ。中には入りたくねぇんだ」
「……わかりました。少々お待ちください」
足音が遠ざかっていく。エリクは顔を上げ、ロザヴィンに頭巾を被るよう促した。
「結界があっても、油断しちゃだめって、母さまが」
「なんともねぇよ」
「わたしがいやだもの」
「……ったく」
「ここはどこですか?」
頭巾を被り直したロザヴィンは、エリクの問いに、端的に「城」と答えた。
「王城?」
なぜそんなところに。
そういえば誰かを呼んでもらっていた気が、と思ったとき、再び足音がした。
「おまえがここに来るなんて珍しい」
その声は、ロザヴィンに少し似ていて。
エリクはそっと、隙間から顔を覗かせる。
「ん? 誰か連れているのか?」
顔を覗かせたエリクを、ロザヴィンは止めなかった。むしろ見せるように、少し外套をずらしてくれる。
「あ……シャンティンさま」
ロザヴィンの兄、シャンテと呼ばれている王佐がいた。
「エリクじゃないか。兄さまと呼べと、言っておいただろう」
そうだった、と思い出して、改めて「兄さま」と呼ぶ。ロザヴィンがいやそうな顔をした。
「エリクを連れてここに来るなんて、ますます珍しい。どうした、ロザ?」
「……とーさん」
「父上? たぶんいると思うが……なんだ、漸く逢う気になったのか」
「どこにいるって?」
「知っているくせに、横着するな。中に入りなさい」
「いやだ」
「ロザ……」
シャンテに呆れられたロザヴィンは、しかし一歩も動かない。
「翼をしまえ。そしてわたしについて来い。でないと、父上を呼ばない」
「ぐ……」
「父上に逢う気があるなら、逃げるな」
なんとロザヴィンは父親に逢うべくして、エリクも連れてきたらしい。そういえばエリクは、兄のシャンテには逢っていても、父親には逢っていない。その機会がなかった。仕事で忙しいと聞いていたし、ロザヴィンは父親のことを一言も口にしなかったのだ。エリクは、シャンテから「いつか逢ってやって欲しい」としか、言われたことがなかった。
「ロザさま。わたし、義父さまに逢いたいです」
「うるさい、黙ってろ」
「逢って、きちんと挨拶したいです。ロザさま」
ロザヴィンが逢おうと思ってくれたなら、きちんと逢って、話がしたい。ロザヴィンのお嫁さんになりたいのだと、そう伝えたい。
「兄さま、わたし、ロザさまのお嫁さんになりたいです」
「エコ!」
「ロザさま黙って」
ロザヴィンの口許を手のひらで覆い、その口を封じて、エリクはもう一度シャンテに伝える。
「わたし、ロザさまのお嫁さんになりたいです。それを、義父さまに伝えたいです」
「……いい心構えだ、エリク」
にこ、と微笑んでくれたシャンテは、「だが」と口を開いた。
「父上は手強いぞ」
「え?」
「逢えばわかる。おいで、エリク。せっかくだから、きみだけでも父上に逢わせよう」
おいでおいで、とシャンテの手に誘われて、エリクはロザヴィンの腕から抜ける。しかし、素直にシャンテのところへ行くことはできなかった。
「ここに呼べ!」
と、ロザヴィンが邪魔したからだ。
「そういう命令は、魔導師の官服を着てから、言うものだ。言っておくが、衛兵がおまえの言うことを聞いてわたしをここへ呼んだのは、おまえが雷雲の魔導師だからだ」
「だからなんだよ」
「わたしはおまえの兄さんだよ、ロザ?」
誰が言うことを聞くものか、とシャンテの顔には書いてある。それはエリクにもわかるほど、明確なものだった。
くそ、とロザヴィンが舌打ちして、離れかけたエリクを再び腕の中にしまい込む。エリクにとってロザのそれは嬉しい抱擁だが、今は別だ。
「ロザさま」
「おれは行きたくねぇんだよ」
「逢いたくないんですか?」
「そうじゃねぇけど……」
逢いたくないわけではないが、逢いたいと強く思っているわけでもないようで、ロザヴィンはもごもごと言葉を濁す。
そのときだった。
「シャンくん! ローザくんがやっと来たって聞いたんだけど!」
空から人が降って来た。
いや、翼のある翼種族の文官が、窓から落ちてきた。
「あ…っ…ローザくん!」
げ、とロザヴィンが顔を歪めた。