12 : 助けてと、言えなくて。3
雲一つなく晴れ渡った夜空を眺め、そうして眼下を確認する。
この高さなら、翼を出せば簡単に下りられる。むしろ暗闇に乗じて空を移動したほうが、誰かに見つかることもないかもしれない。
よし行くか、とふだんは消えている翼に呼びかける。ばさり、と背に広がった翼は、髪や瞳の色と同じように灰褐色だ。ところどころ土色の部分があって、なんだか斑で汚い。いや、みすぼらしいと言ったほうが正確か。
「……さっさと変わりゃいいのに」
髪にも瞳にも、過去の名残りはない。もう完全に焼けている。翼だけ焼けずにあるのは、昼間にあまり空を飛ばないからだろう。
空を飛ぶなら夜だ。夜なら、陽射しを気にしなくていい。
さて、と窓縁に足をかけたときだった。
「わあ……っ」
という驚いたような声に、吃驚する。
振り向くとエリクがいた。
「……なにしてんだ、おまえ」
「え? あ、えと……ロザさまこそ」
「見りゃわかんだろ。出てくんだよ」
「えっ? だ、だめです! まだ怪我が」
「関係ねえ」
なにをしに来たのかわからないエリクを無視して、ばさり、と翼を動かした。行こう、と空へ羽ばたこうとしたら、足が床から離れる直前に急な重力を感じた。
「……おい」
ちらりと見れば、エリクにがっしりしがみつかれていた。
「けっかい!」
「は?」
「けっかい、あるって、アッシュさまが」
「……結界?」
「白い魔導師さまに、頼んで、けっかいを……」
「……堅氷か」
ちっ、と思い切り舌打ちする。
エリクが言う白い魔導師とは、おそらくカヤのことだ。途中でロザヴィンの監視をやめたと思ったのだが、結界を張って外に出られなくしてしまえば、そばで監視する必要もない。
腕を思い切り伸ばしてみると、ばちっ、と見えない障壁に攻撃された。
「最悪……対犯罪者用の結界じゃねぇか、これ」
ぴりぴりと残る痛みに、顔が引き攣る。閉じ込める対象を限定した強力な結界を施していったようだ。いつもは自分が施す側だというのに、腹の立つことこのうえない。
「くそっ……外に出せよ!」
苛立ちに怒鳴ったら、まだしがみついていたエリクがびくりと震えた。
「ろ、ロザさま……」
「……離せ」
「でも……」
「この状態で、どこに行けるってんだ」
外に出られない、と苛立ち紛れに雷を障壁に向かって放てば、吃驚したエリクが離れていく。
「怒ら、ないで、ロザさま……だって、アッシュさま、心配して」
「こんな怪我、昔からしょっちゅう作ってる」
「でも、痛いもの」
「痛くねぇよ」
「痛いよ!」
ロザヴィンの怒気に負けず劣らず、エリクが声を荒げた。
「軽くないって、アッシュさま言ったもの! 休ませてあげなくちゃだめだって、言ってたもの!」
「……なんでおまえが怒るんだよ」
「ロザさまが自分のこと粗末にするからでしょ!」
大事にしてよ、とエリクは叫ぶ。その目には涙まで浮かべていて、月夜の光りで藍色の双眸がきらきらしている。
「なんでそんなに自分のこと粗末にするの? どうして? 痛いの、いやでしょ? 我慢したって、しょうがないでしょ?」
「うるせぇな……自分のことだ。どうしようが自分の勝手だろ」
「アッシュさま、心配してる。わたしだって。白い魔導師さまも、ロザさまが怖いって、心配してた。みんなに心配かけてるのに、どうしてそう言えるの!」
矢継ぎ早に怒鳴ったエリクは、ふだんはそれほど怒ることもないのか、肩で息をしていた。そんなに疲れるくらい怒鳴らなくたって、と思う。
けれども。
エリクに投げられた言葉は、ロザヴィンに失笑させる。
「さっさと消えちまえばいいんだ」
「……え?」
「おれなんか、消えちまえばいいんだよ」
「! なんでそんなこと言うの!」
「大っ嫌いだからだよ!」
「え……」
くそ、と悪態つく暇もなく、ロザヴィンは噴き上がってきた苛立ちをそのまま口にする。
晴れた空が嫌いだった。
陽光が嫌いだった。
眩しいものが嫌いだった。
なによりも、それらを拒絶する自分が、大嫌いだった。
「おれなんか放っとけよ! どうでもいいだろ、おれなんか! 生きてる価値もねぇんだから!」
「……ロザさま、なに言ってるの」
「おれは人殺しなんだよ!」
晴れた空も、輝く陽光も、眩しいものも、この身には相応しくない。この身には闇と、影と、暗いものが染みついている。手のひらはいつも赤くて、いくら洗っても流れ落ちない。
魔導師になれば、それが少しは消えるかと思ったけれども。
消えないものなのだ、それは。
「殺せよ……殺せよ! おれが、また人を壊す前に!」
膨れ上がるのはいつも怒り。
どうしても消せないものに対する、悲しみ。
後悔しても遅いのに、いつも後悔する。
だから。
「おれを殺せよ、ロルゥ!」
死にたいのではない。
殺して欲しい。
生きることを、強要されることには、もう疲れた。
生きていても、その罪を贖うことはできないのだ。
「殺してよ…っ…兄さん」
生きていても、苦しめるだけなのだ。
生きていることが、苦しませるのだ。
「……ロザさま」
「生きていたくないんだ……っ」
存在していたくない。
存在そのものが、苦しみを与える。
そんなことは、していたくない。
したくない。
「生きたくない……っ」
こうして呼吸する、そのことも罪で。
求めたくないのに、求めてしまう罪。
だから言ってしまいそうになる。
「いやだ……いやだ、ロザさま」
いつのまにか蹲って想いを吐き出していたロザヴィンに、エリクが両腕を伸ばしてくる。
「いやだよ、ロザさま…っ…ロザさま」
懐に潜り込んできたエリクは、ロザヴィンがいやがろうとも、その華奢な身体でいっぱいに抱きしめてくる。
「やめ…っ…はな、せ」
「いやだ! いやだもの!」
強く腕を回してくるエリクは、ロザヴィンが襟首を引っ張ろうが足掻こうが離れようとせず、ぐいぐいと身体を押しつけてくる。
感じるぬくもりに、なぜだろう、涙がこぼれそうになった。
エリクまで、赤いもので汚してしまうかもしれないのに。
「やめろ……おまえ、なにして」
「ロザさまかっこよかったもの!」
「え……」
「助けてくれたとき、ロザさま、かっこよかった! みんなだって、ロザさますごいって、かっこいいって、笑ってた……っ」
ぎゅうっと、いっそう強く抱きつきながら、エリクは泣いていた。
「みんなを笑顔にしてくれたのはロザさまなのに……どうして、そんな悲しいこと、言うの……いやだよ」
やめてよ、と言うエリクの声が、ずくりと、胸にきた。
「おまえに……おれの、なにが、わかる……っ」
「わかんないよ! でも……でも、わたし、ロザさまが優しいの、知ってるもの。かっこいいって、知ってるもの」
それだけで充分だもの、とエリクは言う。たったそれだけで、ロザヴィンのすべてがわかると、言う。
「……なんだよ、それ」
そんなのは幻想だ。優しくも、かっこよくもない。むしろ情けないだろうと、ロザヴィンは鼻で笑う。
けれども。
エリクは顔をロザヴィンの胸に擦りつけながら、首を左右に振った。
「優しいもの……かっこいいもの」
「だから、そんなのは……」
違うと、言っているのに。
「それがわたしの知ってるロザさま……わたしの……っ」
押しつけられる感情、気持ち、言葉。
押しつけられる想い。
ロザヴィンを温める小さな身体が、ひどく、乱暴に心を揺さぶってくる。
「おまえ……」
なぜだろう。
押し返せない。
「なんで、そんなに……」
たった一度、たまたま通りかかった道で、助けただけ。いや、助けたと言えるほどのことは、していない。おとなの理不尽、子どもにならと許される罪、流される裁きに、腹が立っただけだ。
それなのに、どうしてエリクは。
「好き」
「……は?」
「わたし、ロザさまが好きだもの」
袂から聞こえた言葉に、ロザヴィンは呆けた。
え、展開が早い?
気のせいですよ。
このたびも読んでくださりありがとうございます。