episode.01「迷宮の幕開け」
波須町にある県立北橋高校。
その校門の傍らに鎮座する重厚な石造りの時計台は、この町の古い記憶を、まるですべて知っているかのように静かにたたずんでいた。真っ白だっただろうが今はすっかりくすんでいるレンガと、長い年月によって刻まれた風合いは、どこかノスタルジックな空気をまとっている。
その針は、いつのころからか動きをぴたりと止め――いつも七時を示したままで、通り過ぎる生徒たちや、静かに流れる季節を見下ろしている。
朝の登校時には慌ただしく駆け抜ける生徒たちの背中を、夕暮れ時には部活動を終えて家路へと急ぐ若者たちの影を、時計台はただ無言のまま見守り続けてきた。
この時計台を見上げるたびに、私は決まってこの町で過ごしたこれまでの日々を思い出す。
決して劇的なことは起きない、けれど退屈だと思ったこともない、穏やかで緩やかな時間の連続。
風が吹くたびに、レンガの隙間に根付いた小さな草花が揺れ、どこか遠くの記憶を呼び覚ますような匂いを運んでくる。
波須町という土地そのものが、大きな箱庭のなかに閉じ込められているかのような、そんな不思議な安心感があった。
◇
校舎の窓から差し込む午後の光はどこまでも優しく、どこか気だるい初夏の温もりを運んでくる。
初夏特有の、まとわりつくような暑さと、それを吹き飛ばす爽やかな潮騒の気配が混ざり合う季節。
放課前の教室を包む、あの独特のゆるやかな時間は、いつ経験しても胸の奥をくすぐられるような心地よさがあった。太陽の角度が少しずつ傾き始め、床板の木目を黄金色に染め上げていく。
黒板の端には、今日の午前に担任の教師が書き殴った世界史の重要語句がまだうっすらと残っていて、それが妙に生活感を漂わせている。
窓ガラスを一枚隔てた外の世界は、まるで時間が少しだけ緩やかに流れているかのように平和だった。
校舎のスピーカーから、間延びした気だるいチャイムの音が響き渡る。
電子音ではなく、どこか古びたベルの音色を模したようなそのチャイムは、北橋高校の伝統として長年受け継がれてきたものだ。
耳慣れたその響きを聞くたびに、私たちは「あぁ、今日も無事に一日が終わったんだな」という言いようのない安堵感に包まれる。
授業の終わりを告げるその音を合図にしたように、それまで静まり返っていた教室が一気にざわめき始める。
教科書を乱暴に鞄に放り込む音、椅子をギギッと引きずる不快な金属音、今日買ったばかりのファッション雑誌をめくる乾いた音、次にどこへ遊びに行くかという弾んだ話し声。
それぞれの生徒たちが、それぞれの放課後へと動き出していく。
黒髪を揺らしながら机の周りに集まる女子グループの笑い声や、部活のジャージに急いで着替えようとロッカーを漁る男子たちの慌ただしい足音が、静寂だった空間を鮮やかに塗り替えていく。
私は自分の席――窓から三番目、一番景色がよく見える特等席に座ったまま、その賑やかな光景をぼんやりと眺めていた。
グラウンドでは野球部が懸命に白球を追いかけ、砂埃を巻き上げながら外野を走っている。
その隣のサッカーコートでは、鮮やかな緑の芝の上でサッカー部がパス回しの練習に汗を流していた。監督の怒鳴り声や、ボールを蹴り上げる乾いた音が、この3階の教室までかすかに届いてくる。
青春という言葉がそのまま形になったような、眩しすぎるほどの躍動感。
私は3階の3年生の教室からその様子をのんびりと眺めている。
いよいよ私たちも受験を控えた3年生になり、将来のことや進路のこと、現実的なプレッシャーが少しずつ肩に重くのしかかってきているはずなのに、この放課後の教室にいると、そんな現実がすべて遠い世界の出来事のように思えてしまうから不思議だ。
海風がさわやかに吹き込む。
波須町は海に面した小さな町だ。だから、窓を開け放つと、いつだって潮の香りが混じった風が教室を通り抜ける。
それは決してべたつくような不快なものではなく、どこか遠くへ連れ出してくれるような、開放感に満ちた風だった。
夏の始まりを感じさせる、少し湿気を含んだ風が、私の前髪を軽く持ち上げて通り過ぎていく。
私はこの季節が大好きだ。
太陽の光が強くなり、蝉の声が聞こえ始める少し手前の、この初夏の、すべてが新しく始まっていくような気配を纏った空気。
友人たちと過ごす何気ない日常が、この先もずっと変わらず続いていくのだと、あのときの私は本気で信じて疑わなかった。
校門の傍らに立つ時計台がいつまでも七時を指して止まっているように、私たちの時間もまた、この心地よい放課後のなかに永遠に閉じ込められているのだと、どこかで思い込んでいたのだ。
◇
教室のざわめきが少しずつ遠のいていく。
「ねえ、今日このあと、最近できた駅前の喫茶店に行かない?」
振り返ると、きょうが私に向かって満面の笑みを向けていた。
「うん、行こっか」
私たちは椅子から立ち上がり、制服のスカートの裾を軽く払いながら、その誘いに乗る。
あの日――あの呪われた遊園地へと繋がる運命の歯車が回り出した瞬間だとも知らずに。
窓の外では、止まったはずの時計台の影が、夕刻の光の中でほんのわずかに、しかし確実に形を変えて伸びていく。
あたかも、止まっていたはずの時計の針が、密かに進み始めているかのように。




