第10話 夜明けの和解と、高額な治療費
瓦礫の隙間から差し込む朝日の眩しさに、わたくしはゆっくりと瞬きをした。
崩落しかけた天井は、ルーカス様の氷柱によって仮止めされ、辛うじて崩壊を免れている。
嵐のような魔力の奔流が消え去った玉座の間は、奇妙なほど静かだった。
頬に触れる空気は冷たいけれど、そこにはもう、あの腐った甘い死臭は混じっていない。
「……気がついたか」
ルーカス様の低い声が頭上から降ってくる。
彼に支えられていた身体を起こすと、肩にかけていた往診鞄のベルトが微かに鳴った。
その重みが、まだここが仕事場(オペ室)であることを思い出させる。
目の前では、リリアさんたち親衛隊によって簡易的な寝台に運ばれた帝国皇太子が、ぼんやりと虚空を見つめていた。
肌の色はまだ青白いが、黒い泥のような汚れは落ち、人間の顔色を取り戻している。
彼はゆっくりと視線を巡らせ、わたくしとルーカス様で止まった。
「……貴公らが、私を救ったのか」
掠れた、けれど理知的な声だった。
つい先ほどまで獣のように咆哮していた姿とは別人のようだ。
彼は震える手で自身の胸元に触れる。
そこにはもう、あの忌まわしい赤黒い核はない。
「救った覚えはありませんわ。ただ、治療しただけです」
わたくしは淡々と答え、彼のそばに歩み寄った。
聴診器を当てる。
心音は安定している。
これなら、もう暴走の心配はない。
「……すまなかった」
皇太子が、寝台の上で深く頭を下げた。
その肩が小刻みに震えている。
「痛みと恐怖で、理性が焼き切れていた。あの男……黒い服の騎士に『聖女の血肉だけが呪いを解く』と唆され、私は藁にもすがる思いで軍を動かした。……自国の兵をも犠牲にし、貴国を脅迫してまで」
悔恨の涙が、彼の頬を伝う。
遺跡調査中の事故で呪いを受けたという彼は、死の恐怖に長い間晒され続けていたのだろう。
その極限状態につけ込まれたのだとしても、行った事実は消えない。
「許しは請わん。私の首一つで済むなら、今すぐここで――」
「馬鹿なことを言うな」
ルーカス様が冷ややかに言い放った。
彼はわたくしの隣に立ち、皇太子を見下ろしている。
その手は、無意識なのか、わたくしの腰をしっかりと抱き寄せたままだ。
「貴様が死んで誰が国をまとめる。混乱した帝国軍が暴走すれば、それこそ戦争だ。……生きて、償え」
「……ルーカス殿下」
皇太子が顔を上げる。
その瞳が、ルーカス様からわたくしへと移った。
そして、ふわりと熱を帯びたような色に変わる。
「ああ……それにしても、美しい。これが噂の聖女か。私の呪いを解いたその光、まるで女神のようだ……」
彼がふらりと手を伸ばしてくる。
わたくしの頬に触れようとする指先。
熱っぽい視線に、背筋がゾワリとした。
感謝なのだろうが、距離感が近すぎる。
パキィッ!
乾いた音が響き、皇太子の目の前に氷の壁が出現した。
伸ばされた手が強制的に遮られる。
「……私の婚約者だと言ったはずだが?」
ルーカス様の声が、絶対零度まで下がった。
眼鏡の奥の青い瞳は、先ほどの共闘時の熱さとは打って変わって、ゴミを見るような冷たさを放っている。
背後から凄まじい殺気が立ち昇り、部屋の気温が一気に下がった気がした。
「命を救われた恩人に手を出すなら、今度は私がその手を切り落とすぞ」
「ひっ……じょ、冗談だ! ただの感謝の印だ!」
皇太子が慌てて手を引っ込める。
わたくしは苦笑しながら、ルーカス様の腕を軽く叩いた。
過保護なのは相変わらずだ。
「殿下、患者を脅さないでくださいませ。……それより、皇太子殿下」
わたくしは鞄から羊皮紙とインクを取り出した。
戦場に似つかわしくない事務用品。
リリアさんが持ってきてくれた「遠足セット」の中に紛れ込んでいたものだ。
サラサラとペンを走らせる。
「償ってくださるのですよね?」
「あ、ああ。もちろんだ。金か? 領土か? なんでも言え」
「では、こちらにサインを」
書き上げた羊皮紙を、彼の前に突き出す。
そこには簡潔に、しかし抜け穴のない文章でこう記していた。
『ガルディア帝国およびアーデルハイト王国は、恒久的な不可侵条約を締結する。また、今回の件に関する一切の賠償責任は帝国側にあるものとし、国境付近の復興支援を約束する』
「……これは」
「治療費ですわ。かなりの難手術でしたので、特別料金になっております」
にっこりと微笑む。
皇太子は目を丸くし、それから吹き出すように笑った。
「はは……参ったな。命の恩人に加えて、国を守る賢女でもあるとは。……ルーカス殿下、貴国には過ぎた宝だ」
「知っている」
ルーカス様が短く答え、わたくしの髪飾りに触れた。
その仕草だけで、彼がどれほどわたくしを誇りに思っているかが伝わってくる。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
皇太子は迷うことなくペンを取り、サインをした。
インクが紙に染み込んでいく。
それは、戦争の回避と、平和な未来が確定した瞬間だった。
「契約成立ですわね」
羊皮紙を巻き取り、鞄にしまう。
その動作一つで、肩に乗っていた重荷がすっと消えていくようだった。
「さあ、帰りましょう。ルーカス様」
わたくしは彼を見上げた。
窓の外では、完全に昇りきった太陽が、溶け落ちた砦の跡地を照らし出している。
リリアさんたちが、手を振って待っているのが見えた。
「ああ。……帰ろう、私たちの家へ」
ルーカス様がわたくしの手を取り、優しく口づけを落とす。
その手の温もりを感じながら、わたくしは大きく息を吸い込んだ。
腐った臭いのしない、清々しい朝の空気を。
インクが乾くその瞬間に、わたくしたちが守り抜いた平和が確かな形になります。




