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【完結】悪役令嬢ですが、回復魔法しか使えないので平和に生きます!  作者: 九葉(くずは)
最終章

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第6話 溶解する砦と、氷の架け橋

 鼻孔にこびりついた腐った甘い匂いが、馬車を降りた瞬間、暴力的な濃度となって襲ってきた。


 国境の砦。

 本来なら堅牢な石積みであるはずの外壁は、飴細工のようにドロドロと溶け落ち、地面に黒い水たまりを作っている。

 そこから立ち昇る紫色の煙が、空をどす黒く染め上げていた。


「ひ、ひぃぃッ!」

「助けてくれ! あれは人間じゃねえ!」


 砦の門から、我先にと帝国兵たちが逃げ出してくる。

 彼らは武器を捨て、兜も被らず、ただ恐怖に顔を引きつらせていた。

 その光景は、侵略軍の威厳など欠片もない。

 まるで、火事場から逃げ惑う被災者の群れだ。


 ルーカス様が一人の兵士の襟首を掴み、引き止めた。


「何があった。中で何が起きている」

「あ、悪魔だ……! 殿下が、皇太子殿下が溶けて……触れたもの全部を腐らせて……!」


 兵士は錯乱し、ルーカス様の手を振り払って走り去っていった。

 わたくしは、その背中を見送ることしかできない。

 胃の底が冷たくなる。

 やはり、恐れていた通りだ。

 皇太子の中にある「呪いの核」が暴走し、彼自身の肉体と周囲を無差別に捕食し始めている。


 わたくしは肩に掛けた往診鞄のベルトを、指が白くなるほど強く握りしめた。

 この重みだけが、今のわたくしを「怯える少女」ではなく「医療従事者」として繋ぎ止めている。

 これは戦争ではない。

 大規模なバイオハザードだ。


「……セレス」


 ルーカス様が、低い声で呼んだ。

 彼は砦の入り口を見据えたまま、剣の柄に手をかけている。


「地面を見ろ。普通の靴では歩けんぞ」


 彼の視線の先。

 砦へと続く道は、黒いヘドロのような粘液で覆われていた。

 石畳が溶かされ、ジュウジュウと泡を吹いている。

 あそこに足を踏み入れれば、靴底どころか足首まで一瞬で炭化するだろう。


「リリア、君たちはここで避難誘導を頼む。逃げてくる兵士たちを保護し、これ以上被害を広げるな」

「し、しかし殿下! お二人だけで行かれるのですか!?」

「私たちでなければ、あの泥の上には立てない」


 ルーカス様が右手を掲げた。

 瞬間、周囲の大気が凍りつき、ピキピキと高い音が響く。


「行くぞ、セレス。私の背中から離れるな」

「はい!」


 わたくしは彼の背中に飛びつくようにして、そのコートの裾を掴んだ。


「――氷結」


 ルーカス様が地面を踏みしめる。

 足元から爆発的な冷気が噴き出し、黒いヘドロを一瞬で凍結させた。

 白く輝く氷の道が、地獄のような泥沼の上に一本の橋となって伸びていく。


 わたくしたちは、その氷の上を駆けた。


 靴の裏越しに、氷の下で蠢く腐食の魔力の振動が伝わってくる。

 氷は常に溶かされ続けているが、それ以上の速度でルーカス様が凍らせているのだ。

 凄まじい魔力消費。

 けれど、彼の背中は微塵も揺らがない。


 砦の回廊に入ると、空気はさらに重くなった。

 壁も天井も、元の形を留めていない。

 生き物の内臓の中を歩いているような錯覚に陥る。

 垂れ下がった粘液が、ルーカス様の張った氷の結界に弾かれ、ジューッと音を立てて蒸発した。


「……ひどい」


 わたくしは口元を覆った。

 ここまでする必要があるのか。

 たった一つの復讐心、たった一つの悪意が、これほどまでに世界を汚染してしまうなんて。


『ママ、だいじょうぶ?』


 鞄の中で、聖杯が小刻みに震えているのが背中に伝わる。

 恐怖ではない。

 怒りだ。

 かつて自分を汚していたものと同じ気配に、聖杯もまた戦っている。


「平気よ。……必ず、終わらせるわ」


 自分に言い聞かせるように呟き、わたくしは懐からマスクを取り出した。

 耳にかけるゴムの感触。

 そのささやかな圧迫感が、わたくしのスイッチを切り替える。

 ここから先は、感情に流されてはいけない。

 冷静に、的確に、患部を切除するだけだ。


 長い回廊の突き当たり。

 かつては豪華な装飾が施されていたであろう、巨大な両開きの扉が見えてきた。

 玉座の間。

 この砦の中心であり、呪いの発生源だ。


 扉の隙間からは、視界を遮るほどの濃密な紫煙が噴き出している。

 中から聞こえるのは、風の音ではない。

 獣の唸り声のような、あるいは泣き叫ぶような、絶望的な咆哮。


 ルーカス様が足を止めた。

 氷の道が、扉の前で途切れる。


「……この中にいる」


 彼が振り返る。

 眼鏡の奥の瞳は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、そして痛いほどに優しい光を宿していた。


「開ければ、もう後戻りはできない。……覚悟はいいか?」


 問われるまでもない。

 わたくしは一度だけ、こめかみのアメジストに触れた。

 硬くて冷たい宝石の感触。

 それが、わたくしの震えを止めてくれる。


「もちろんですわ。患者様をお待たせするのは、ナースの流儀に反しますもの」


 強がって見せると、ルーカス様は微かに口角を上げて笑った。


「君なら、そう言うと思った」


 彼が剣を抜き、切っ先を扉に向ける。

 わたくしは往診鞄を抱え直し、その隣に並び立った。


 さあ、扉を開けましょう。

 その向こうにいるのが、殺すべき怪物なのか、それとも救いを求める患者なのか。

 わたくしの目で、確かめるために。

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