第5話 揺れる馬車と、遠足気分の重武装
夜明け前の冷たい空気が、馬車の窓枠をガタガタと震わせていた。
石畳を蹴る蹄の音と、車輪の軋み。
王都を出発して数時間が経過し、空が白み始めている。
わたくしは流れる景色を見つめながら、膝の上で強く手を握りしめた。
この道の先にあるのは、見慣れた薬草園でも学園の教室でもない。
国境の砦。
そして、死に瀕した帝国皇太子が待つ場所だ。
隣に座るルーカス様の肩が、強張っているのが分かった。
彼は腕組みをしたまま目を閉じているが、その眉間には深い皺が刻まれている。
眠っているのではない。
常に周囲の気配を探り、襲撃に備えているのだ。
わたくしはそっと手を伸ばし、彼の組んだ腕に触れた。
シャツ越しに伝わる筋肉が、岩のように硬い。
「……セレス?」
ルーカス様が目を開ける。
青い瞳が、わたくしを捉えて微かに揺れた。
「眠れないのですか?」
「ああ。……君を乗せていると思うと、気が休まらない」
彼は自嘲気味に口元を歪めた。
その手が、無意識のようにわたくしの髪に触れる。
耳元で揺れるアメジストの髪飾り。
彼がくれた「約束」の証だ。
その冷たい指先が、今は熱を求めているように感じられた。
わたくしは彼の手を取り、両手で包み込むようにして膝の上に乗せた。
「大丈夫ですわ。わたくしたちは一人ではありませんもの」
「そうだな。……だが」
ルーカス様の視線が、窓の外へと向けられる。
「少し、騒がしすぎる気もするが」
馬車の並走音に混じって、勇ましい掛け声が聞こえてくる。
◇
日が昇りきった頃、休憩のために馬車列が停止した。
街道沿いの開けた場所だ。
わたくしがステップを降りると、すぐに元気な声が飛んできた。
「セレスティーナ様! 異常ありません! 道中の害虫はすべて駆除済みです!」
リリアさんが敬礼してくる。
彼女の姿を見て、わたくしは瞬きをした。
いつもの騎士服の上から、見たこともない重装備を身につけている。
背中には巨大なリュックサック、腰には剣だけでなく、投げナイフや水筒、さらには鍋らしきものまでぶら下げていた。
「リリアさん、その格好は……?」
「野営任務における完全装備です! セレスティーナ様がいかなる環境でも快適に過ごせるよう、簡易テントから高級茶葉、携帯用の浴槽まで完備しております!」
彼女の後ろに控える親衛隊の面々も同様だった。
皆、遠足に来たような笑顔だが、持っている装備はどう見ても戦場仕様だ。
携帯食料と一緒に、対魔物用の煙幕弾が詰め込まれているのが見える。
「……頼もしいですわね」
わたくしは苦笑した。
彼女たちは本気だ。
戦争に行くという悲壮感はない。
ただひたすらに「セレスティーナ様をお守りする」という使命感だけで動いている。
その純粋さが、張り詰めていたわたくしの心を少しだけ軽くしてくれた。
ふと、胸元で何かが動いた。
往診鞄から這い出してきた黄金の聖杯だ。
『ママ! ここ、くさい!』
聖杯がブルブルと震え、空中に浮き上がる。
わたくしの肩に隠れるように張り付いてきた。
「臭い? 空気が綺麗だと思いますけど」
『ちがう! あっち! あっちから、ビリビリするにおいがする!』
聖杯がプルプルと震えながら指し示したのは、街道の先。
北の空だ。
わたくしは目を凝らした。
遠く霞む山並みの向こう。
そこにあるはずの空の色が、おかしい。
澄んだ青ではなく、澱んだ紫色の靄がかかっているように見える。
ルーカス様がわたくしの隣に並び立った。
その表情から、先ほどまでの柔らかな色が消え失せている。
氷の王子の顔だ。
「……見えたな」
「はい」
「国境の砦だ。だが、様子がおかしい」
ルーカス様が片手を上げる。
休憩していた騎士たちが、一瞬で戦闘態勢に入った。
リリアさんも笑顔を消し、剣の柄に手をかける。
風が変わった。
鼻をつくような、腐った甘い匂いが漂ってくる。
これは、あの親書から感じたものと同じ気配だ。
「行きましょう。患者が待っています」
わたくしは聖杯を鞄に戻し、再び馬車へと乗り込んだ。
遠足気分はここまでだ。
ここから先は、命のやり取りが待つ現場(オペ室)になる。
車輪が回り出す。
近づくにつれ、紫色の靄は濃くなり、空を覆い隠していく。
砦のシルエットが見えてきた。
堅牢なはずの石壁が、ところどころ黒く変色し、溶け落ちているのが遠目にも分かる。
あれは戦争ではない。
災害だ。
一人の人間から溢れ出した呪いが、周囲のすべてを侵食している。
わたくしは膝の上の手を、白くなるほど強く握りしめた。
ルーカス様の手が、そっと重ねられる。
その体温だけが、冷え切っていくわたくしの指先を繋ぎ止めていた。
癒やし手として、この絶望的な光景にメスを入れる覚悟はあるでしょうか。




