第4話 往診の鞄と、アメジストの約束
「往診ですわ」
言い切った自分の声が、まだ耳の奥で硬く響いている。
地下牢の重苦しい鉄の匂いを背に、わたくしはリリアさんに伴われて階段を上がった。
冷え切った石造りの廊下を抜け、自室へと続く赤い絨毯を踏みしめる。
たった数十分の間に、世界の形が作り変えられてしまったような感覚。
戦争という巨大な怪物の足音が、すぐ背後まで迫っていた。
自室の扉を開けると、いつものジャスミンの香りが鼻をくすぐる。
入り口から見て正面に大きな窓、右手に天蓋付きのベッド、左手に書き物机。
見慣れた配置が、今はどこか遠い場所のものに見えた。
わたくしはクローゼットの奥から、使い慣れた革の往診鞄を取り出した。
かつて薬草園で作った乾燥ハーブの小瓶を、一つずつ並べていく。
瓶のガラスが触れ合うたびに、硬質な音が静かな部屋に落ちた。
止血剤、鎮痛薬、そして魔力回復の触媒。
道具を整理する指先に、目に見えない責任の重さが乗る。
わたくしが選ぶこの瓶一つが、誰かの生存率を左右する。
前世のナースセンターで感じていた、あの喉の奥が詰まるような緊張感が蘇る。
「……ママ、これ、もっていく?」
ふわりと浮き上がった聖杯が、棚から降ろしたばかりの魔力銀のメスを指した。
聖杯は黄金の身体を小刻みに揺らし、わたくしの手元を覗き込んでいる。
「ええ。呪いの核を摘出するには、物理的な切除が必要になるかもしれませんから」
「ぼく、魔力、いっぱいくばる。ママ、つかれないように」
聖杯の縁をそっと撫でる。
冷たいはずの金属から、陽だまりのような熱が伝わってきた。
この子がいてくれれば、わたくしの魔力が底を突く時間を遅らせることができる。
聖杯はわたくしの魔力を好むだけでなく、今はわたくしの意志を支えようとしてくれていた。
鞄の隙間に、聖杯が自分からスポッと収まる。
まるでお気に入りの箱を見つけた猫のようだった。
作業を続けていると、背後の扉が静かに開いた。
ノックの音はなかった。
けれど、室温が数度下がったことで、誰が来たのかは分かった。
「……セレス」
ルーカス様の声。
振り返ると、彼は扉の脇に立ち、こちらを見つめていた。
胃の辺りが、キュッと収縮する。
彼の瞳は、夜の湖のように深く、暗い。
ルーカス様がゆっくりと歩み寄り、わたくしの数歩手前で足を止めた。
「本当に、行くつもりなんだな」
ルーカス様の言葉が、心臓を直接撫でていく。
わたくしは一度、深く息を吐いた。
「行かなくてはなりません。あの方は敵ですが、それ以前にわたくしの患者ですわ」
「……あんな呪いを受けた男は、もう人間ですらないかもしれない。君が触れれば、その指ごと腐り落ちるかもしれないんだぞ」
ルーカス様の拳が、白くなるほど強く握りしめられている。
身体が微かに震えているのが分かった。
恐怖。
「氷の王子」と呼ばれた彼が、自分を失うことよりも、わたくしを失うことを恐れている。
その震えが、わたくしの胸の奥を激しく揺さぶった。
以前、彼が魔力暴走を起こした時の、あの氷の檻を思い出す。
孤独の中で、誰の手も届かない場所で凍えていた彼の背中。
今、帝国皇太子が置かれている状況は、あの時の彼と同じかもしれない。
「わたくしの指は、腐りませんわ」
わたくしは一歩踏み出し、ルーカス様の拳を包み込むように握った。
氷のように冷たい。
指先を通して、彼の絶望的なまでの不安が流れ込んでくる。
「殿下が、隣にいてくださるのでしょう? 貴方の氷があれば、腐食を止めることができます。わたくしたち二人なら、治せないものなんてありません」
「……セレス」
「ルーカス様。わたくしを信じてくださいませ」
ルーカス様の視線が、わたくしの髪に落ちた。
彼は震える手で、わたくしのこめかみ辺りに触れる。
そこには、先日彼が街で選んでくれた、アメジストの髪飾りが留まっていた。
「……君は、いつも私に一番難しいことを強いる」
ルーカス様が、自嘲気味に笑った。
けれど、その瞳からは先ほどの暗い影が消え、静かな決意が灯っている。
「信じよう。私の命と、この国の運命を……君のその小さな手に」
彼の手が髪飾りの位置を、愛おしむように直した。
アメジストの紫が、月光を反射してキラリと輝く。
それは、必ず二人で帰ってくるという、言葉にならない契約のようだった。
わたくしは頷き、往診鞄の蓋を閉めた。
パチン、と金具が嵌まる音。
それは、平和な日常の終わりを告げる音であり、新たな戦いの始まりの合図でもあった。
窓の外から、出発を告げる教会の鐘が鳴り響く。
深夜の王都を震わせる、重厚な音。
わたくしは鞄を手に取り、ルーカス様と共に部屋を出た。
長い廊下を歩き、玄関ホールへ。
そこには、リリアさんと親衛隊の面々が、騎士の礼装に身を包んで整列していた。
彼女たちの瞳には、恐怖ではなく、わたくしへの揺るぎない忠誠が宿っている。
「セレスティーナ様、準備は整っております」
リリアさんの声が、ホールに凛と響いた。
わたくしは、彼女の腰に差された剣の鞘に視線を落とす。
かつてドレスを直してあげたあの夜の、彼女の涙を思い出した。
あの時繋いだ絆が、今は大きな力となってわたくしを支えている。
正面の重厚な扉が開かれる。
外には、松明の炎を揺らす馬車と、武装した兵士たちが待機していた。
夜の冷気が、火照った頬を叩く。
一歩、石畳を踏み出す。
この先にあるのは、かつて乙女ゲームの中で描かれた凄惨な戦場。
けれど、わたくしが持っているのは剣ではなく、救うための道具。
わたくしの癒やしは、国境を越えて憎しみの連鎖を断ち切る薬になるでしょうか。
馬車のステップに足をかけ、わたくしは暗い空を見上げた。




