第3話 黒幕の正体と、荒ぶる聖杯
心臓が、喉の奥まで跳ね上がった。
カチリ、と小さな音がして、窓の鍵が開けられた。
深夜の冷たい風がカーテンを押し上げ、部屋の中に流れ込んでくる。
月光を背負った黒い影が、音もなく床に降り立った。
わたくしは声が出なかった。
叫ぼうとしても、喉が固く絞まったように動かない。
胃の底が冷え冷えとし、手足の先から血の気が引いていくのが分かる。
黒い装束の男は、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
手には、あの紫色の煙が渦巻く小瓶。
布越しでも分かる、歪んだ口角。
男の瞳は、狂気に染まった濁った色をしていた。
「……ようやく二人きりになれたな、聖女様」
男の声は、擦り切れた布のようにカサついていた。
聞き覚えがある。
貧民街の路地裏で、トミー君の母親に毒を撒いていた不審者。
そして――。
(……その声、まさか)
わたくしは震える手で、ベッドの端を握りしめた。
視線を男の腰元に向ける。
使い込まれた剣の鞘。
そこには、削り取られたような跡がある。
けれど、その輪郭はかつてわたくしを「役立たず」と嘲笑っていた、第一王子派の近衛騎士団の紋章に酷似していた。
「貴方は……学園の判定の儀で、わたくしを蔑んでいた方ですわね?」
「……ふん。よく覚えているな。そうだ。あの日、お前が『無能』であったなら、俺の人生が狂うこともなかった」
男が布を剥ぎ取った。
そこには、かつての栄光を失い、復讐心だけで繋ぎ止められた痩せこけた男の顔があった。
「第一王子殿下は幽閉され、俺たち騎士団は解体された。全ては、あの氷の化け物と、お前のせいだ。……だが、今日で全てが変わる」
男が小瓶を突き出す。
中の煙が、わたくしの魔力に反応するように激しく蠢いた。
「帝国皇太子は、死にかけている。お前が浄化したあの聖杯と同じ、呪いの核が身体を食い破ろうとしているんだ。……お前を帝国へ差し出せば、俺は向こうで閣下の座を用意される。この国もろとも、あの第二王子を戦火で焼き尽くすための案内人としてな」
バイオテロの犯人は、帝国の指示ではなかった。
この男が、自分の「価値」を帝国に売り込むための、凄惨な手土産だったのだ。
井戸に毒を撒き、王都を混乱させ、その「特効薬」となるわたくしを拉致する。
吐き気がした。
ただ、自分の地位を取り戻すために。
あの子を、リリアさんを、この街の人々を犠牲にしたというのか。
「……お断り、ですわ」
「何だと?」
「わたくしはモノではありません。ましてや、貴方のような人非人の復讐道具になるつもりもありませんわ」
恐怖よりも、冷たい怒りが勝った。
わたくしはベッドから立ち上がり、男を真っ向から見据えた。
「――ヒール」
指先を男に向ける。
治癒魔法だ。
けれど、それは回復のためではない。
彼の持っている小瓶の中の「呪い」の波長に、わたくしの魔力を強制的に同期させる。
「ぬ……っ、何をする!?」
「消毒ですわ! その汚らわしい瓶ごと、わたくしの前から消えなさい!」
その時だった。
サイドテーブルの上に置かれた『聖杯』が、ガタガタと激しく震え出した。
『……ママ……いじめる……やつ……ゆるさない!』
頭の中に、これまでにない怒号が響く。
黄金の杯が爆発的な光を放ち、自ら宙に浮いた。
聖杯は、怯える男に向かって弾丸のような速度で突撃した。
「ぎゃあああッ!?」
男の胸元で、光が炸裂した。
物理的な衝撃波が部屋を揺らす。
男は窓の外へ吹き飛ばされそうになり、壁に背中を強打して崩れ落ちた。
小瓶が床に落ち、粉々に砕ける。
「な、なんだこの魔道具は……っ!」
「魔道具ではありませんわ。わたくしの……家族です!」
聖杯はわたくしの前に陣取り、全身を赤く発光させて男を威嚇している。
まるで、主を守る番犬のようだ。
異変を察知し、廊下から激しい足音が近づいてくる。
「セレスティーナ様ッ!」
バァァァン! と扉が蹴り破られた。
真っ先に飛び込んできたのは、抜身の剣を構えたリリアさんだった。
その後ろには、武装した親衛隊の面々がずらりと並んでいる。
「……そこまでです、裏切り者の騎士。セレスティーナ様に指一本触れさせません」
リリアさんの声は、冷徹な騎士のそれだった。
彼女の剣が、男の喉元に突きつけられる。
男はもはや、逃げる気力も残っていないようだった。
聖杯の一撃で、魔力回路が一時的に焼き切れている。
◇
数分後。
王宮の地下にある取調室。
ルーカス様が到着するまでの間、わたくしはリリアさんと共に、鎖で繋がれた男と対峙していた。
男は、もはや全てを諦めたように笑っていた。
「……もう遅い。帝国皇太子の中にある『核』は、俺が特別に育てたものだ。お前らがここでのんびり尋問をしている間にも、あの方の臓腑は腐り果てているだろう」
「……治せますわ」
わたくしは静かに答えた。
男が目を剥く。
「馬鹿を言え! あれは聖遺物の怨念だ。ただの治癒魔法でどうこうできるレベルじゃない!」
「聖杯を直したわたくしが言っているのです。不可能なことではありません」
わたくしは膝の上に置いた手を、強く握りしめた。
男の話が本当なら、帝国皇太子は「患者」だ。
しかも、この男によって意図的に悪化させられた、最大の被害者。
彼が死ねば、帝国は暴走する。
悲しみと怒りに任せて、この国を焼き尽くすだろう。
(……それが、この男の狙い。戦争を引き起こして、ルーカス様を破滅させること)
ゾッとするような悪意の連鎖。
平和に生きたいと願うわたくしにとって、これは見過ごせない事態だ。
患者を救い、戦争を止める。
それが、わたくしの選ぶべき「平和」への道。
ガチャリ、と取調室の扉が開いた。
入ってきたルーカス様の顔は、これまで見たこともないほど冷え切っていた。
彼が纏う空気だけで、部屋の壁が白く凍りついていく。
「……セレス。部屋に戻れと言ったはずだ。この虫けらの掃除は、私がやる」
「いいえ、ルーカス様。聞かなければならないことがあります」
わたくしは立ち上がり、彼を真っ向から見つめた。
「帝国皇太子を、治しに行きましょう。戦争が始まる前に」
「何を言っているんだ。敵陣に飛び込んで、首を差し出せというのか?」
「いいえ、往診ですわ」
ルーカス様の碧眼が、驚愕に揺れる。
わたくしは一歩も引かなかった。
「あの方は、この男が植え付けた呪いの被害者です。彼を救うことが、この国を守る最短ルートだと確信しています」
ルーカス様はしばらく沈黙し、それから震える手でわたくしの肩を掴んだ。
抱きしめられる。
彼の心臓の音が、異常なほど速い。
「……行かせたくない。君をあんな、野蛮な男たちの前に出したくないんだ」
「わたくし一人が行くのではありませんわ。……貴方が、ついてきてくださるのでしょう?」
わたくしは彼の胸に顔を埋め、囁いた。
ルーカス様は深い、深いため息をついた。
その体温が、少しずつ戻ってくるのを感じる。
「……分かった。だが、条件がある。リリアと親衛隊、そして私の私兵全てを同行させる。……一瞬でも君を危ない目に遭わせたら、その場で帝国軍ごと氷漬けにする。いいな?」
「ふふ、過保護ですわね」
こうして、悪役令嬢による「前代未聞の敵陣往診」が決定した。
三日後。
国境の砦で待っているのは、血の雨か、それとも虹か。
わたくしの平穏な生活を取り戻すための、最後の戦いが幕を開けようとしていた。




