第98話 終わりと始まり
一週間後、八雲島から最後の住民が去った。
もはや、人の住める島ではなくなったのだ。
語り部の声が強すぎて、普通の人間は長時間耐えられない。
しかし、島は死んだわけではなかった。
新しい形で、生き続けることになった。
聖地として。
警告の地として。
そして、選択の地として。
水の因子を持つ者たちが、自分の運命を選ぶために訪れる場所。
あかねは、その案内人となることを選んだ。
半分人間、半分水の姿のまま。
「私は、橋渡しになります」
あかねが、木村に告げた。
「人間と語り部の間の、永遠の橋渡しに」
木村は、島での記録をまとめ始めた。
学術論文としてではなく、一つの物語として。
『八雲島水籠記 -ある民俗学者の選択-』
それが、タイトルだった。
甚助は、渡海丸の船長を続けることにした。
ただし、もう人を運ぶことはない。
物資と、時折訪れる水の因子保持者だけを運ぶ。
「これも、一つの語り継ぎだ」
甚助が、海を見つめて言った。
「船頭として、この海の物語を語り継ぐ」
木村が島を離れる時、振り返って見た光景は、生涯忘れられないものとなった。
朝靄の中、八雲島は美しく、そして恐ろしく浮かび上がっていた。
七つの井戸から、かすかに虹色の光が立ち昇っている。
その光の中に、無数の人影が見える。
過去の水籠たち、現在の語り部たち、そして——
未来の犠牲者たち。
まだ生まれていない子供たちの顔さえ、そこにはあった。
時間は、水の中では意味を持たない。
すべては、既に決まっており、同時に、これから決まるのだ。
木村は、親友の遺した『生きた記録』を前にして、ペンを取った。
『八雲島水籠記 -ある民俗学者の選択-』
第一章 消えた友人
木村が書き始めた瞬間、奇妙なことが起きた。
文字が、かすかに滲んだのだ。
まるで、紙が湿っているかのように。
いや、それは紙のせいではない。
インクが、普通のインクではなくなっている。
青く、透明で、かすかに脈動する、生きたインク。
木村は震える手で、書き続けた。
これも、慎一の遺志なのかもしれない。
物語は、形を変えて、広がっていく。
本として、記憶として、そして——
水として。
八雲島の物語は、終わらない。
朝日が昇る。
新しい時代の始まり。
人と水が、新しい関係を築いていく時代。
八雲島は、その象徴として、永遠に存在し続ける。
美しくも恐ろしい、警告の島として。
そして、清明井の底では、語り部が今日も語り続けている。
千年の物語を。
そして、これから始まる、新しい千年の物語を。
水は記憶し、風は運び、人は語り継ぐ。
それが、八雲島が世界に残した、最後の教訓だった。
【完】




