第92話 篠田教授の到着
調査団に遅れて、篠田教授が島に到着した。
老教授は、杖をつきながらも、その目は研究者の輝きを失っていなかった。
「まさか、生きているうちに、このような事象を目撃できるとは」
篠田は、清明井の前で立ち尽くした。
そして、深い感慨と共に言った。
「水野君、君の研究は間違っていなかった」
篠田は、水野教授との思い出を語り始めた。
四十年前、二人で水神信仰の研究をしていた頃のこと。
水野教授が八雲島から帰ってきて、狂気に陥っていく過程。
そして、最後の言葉。
「『水に還ることが恐ろしいのではない。意味もなく還ることが恐ろしいのだ』」
篠田は、今ならその言葉の意味が分かると言った。
「羽生君は、意味を見出した。語り部という、新しい意味を」
その夜、八雲島は深い静寂に包まれていた。
もう、水の民たちの夜の徘徊はない。
代わりに、井戸から静かな語り声が聞こえてくる。
語り部たちが、千年の物語を語り合っている。
時に笑い、時に泣き、時に怒り。
すべての感情を、物語として紡いでいく。
あかねは、清明井のほとりに座っていた。
半分人間、半分水の体で、語り部たちの声に耳を傾ける。
「慎一くん」
あかねが、そっと話しかけた。
「寂しくない?」
『寂しさも、物語の一部』
語り部が答えた。
『でも、君がいる限り、私は孤独ではない』
あかねの目から、涙が零れた。
それは、悲しみの涙ではなかった。
深い愛情と、覚悟の涙。
「私も、いつか」
あかねが言った。
「準備ができたら、語り部になる」
『その時を、待っている』
月が、清明井を照らしていた。
千年ぶりに、呪いから解放された島の夜。
しかし、物語は終わらない。
新たな形で、永遠に続いていく。
人間と水の、新しい物語が。




