第89話 深海医師の遺産
深海医師の研究室は、戦いの余波で半壊していた。
しかし、最深部の部屋だけは、奇跡的に無事だった。
そこには、深海が生涯をかけて集めた資料があった。
水籠化のメカニズム、症例記録、そして治療法の研究。
狂気の実験の数々も、今となっては貴重なデータだった。
『これらも、すべて記録する』
語り部の声が、研究室に響いた。
『深海玄道の功罪も含めて』
資料の中に、一枚の写真があった。
若き日の深海医師と、一人の少女。
裏には、かすれた文字で「娘、深海澪 享年七歳 水籠となる」と記されていた。
深海医師の狂気の原点。
娘を水籠で失い、それを取り戻そうとした一人の父親の、歪んだ愛情。
『これも、人間の物語』
語り部が、すべてを記憶に刻んでいく。
潮待庵は、奇跡的に無事だった。
キヨは、静かに後片付けをしていた。
もう、宿泊客は来ないだろう。
しかし、それでよかった。
「やっと、終わったのね」
キヨが、誰にともなくつぶやいた。
キヨの記憶が、走馬灯のように蘇る。
三百年前、まだ少女だった頃。
初めて水籠になった時の恐怖。
しかし、不思議なことに、キヨは完全な水籠にはならなかった。
昼は人間、夜は水という、半端な状態で生き続けることになった。
それは呪いだったが、同時に祝福でもあった。
人間の心を保ちながら、水籠たちの苦しみも理解できる。
だから、宿を営み、訪れる者たちを見守ってきた。
時には水籠へと導き、時には逃がし。
すべては、この日のため。
呪いが解ける日のため。
「慎一さん、ありがとう」
キヨが、清明井の方を向いて手を合わせた。
「やっと、本当の意味で、人間に戻れます」
キヨの体から、少しずつ水の要素が抜けていく。
三百年の呪縛から、ついに解放される。




