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第80話 慎一の決断

混沌とした状況の中で、慎一は香織のペンダントを掴んだ。


十字架は、慎一の水の体に激痛を与えた。しかし、同時に、失われかけていた人間性を呼び覚ました。


慎一の意識は、今、究極の選択を迫られていた。


神になって永遠の苦痛を引き受けるか。


すべてを破壊して終わらせるか。


しかし、慎一の中で、第三の選択が形を成し始めていた。


『私は、民俗学を志す者だ』


慎一の内なる声が響く。


『生まれてこの方、消えゆく文化を記録し、語り継ぐことに人生を捧げてきた。なぜか?』


記憶が蘇る。七歳の時、井戸で見た無数の顔。彼らは語り継がれることなく、水の底で永遠に苦しんでいた。


『語り継がれなかった死は、本当の死になる。名前も、生きた証も、すべてが水底に沈んで消えてしまう』


慎一は、自分の使命を再確認した。


『だからこそ、語り継ぐことが重要なのだ。たとえそれが、恐ろしい伝承であっても。いや、恐ろしい伝承であればあるほど、正確に語り継ぎ、後世に伝えなければならない』


水の体が震えた。それは恐怖ではない。確信に満ちた震えだった。


『今、この瞬間も、千年分の物語が失われようとしている。夕日と朝日の真実、水籠たちの苦痛、島民たちの想い。それらすべてが、戦いの中で消えていく』


慎一は、深い理解に達した。


『神になることも、破壊することも、結局は物語を終わらせることだ。しかし、物語は終わらせるものではない。語り継ぐものだ』


そして、慎一は気づいた。


『水は、すべてを記憶する』


深海医師が言っていた言葉。水は記憶の媒体。ならば、自分が水と化した今、究極の語り部になれるのではないか。


『肉体を失っても、意識さえあれば語り継げる。いや、肉体がないからこそ、永遠に語り継げる』


慎一の意識が、急速に明晰になっていく。


『これだ!』


水の体が、歓喜に震えた。


『私は、生きた物語となる。千年の真実を内包し、永遠に語り継ぐ存在となる』


それは、人間としての死を意味する。しかし、語り部としての永遠の生を意味していた。


『苦痛? 確かにあるだろう。しかし、それも含めて物語だ。語り継ぐべき、人間の真実だ』


慎一は、自分の選択に一片の迷いもなかった。


これこそが、民俗学を学ぶ者として辿り着いた、究極の境地。

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