第67話 清明井への到着
慎一が清明井に到着した時、そこには既に多くの者が集まっていた。
あかねと美咲の姉妹。
香織と、氷から解放されかけている朝日。
深海医師と、彼の実験体たち。
白石ゆりと伊織神官。
そして、井戸の中から立ち昇る、渟の神の気配。
すべての登場人物が、この瞬間に集結していた。
「来たか、若き語り部よ」
渟の神の声が、井戸から響いた。
「千年ぶりだ。自らの意志で、我が下に来る者は」
慎一の水の体が、井戸の縁に近づいた。
『私は来た。しかし、従うためではない』
『真実を知り、語り継ぐために』
渟の神が笑った。
千年ぶりの、心からの笑い。
「面白い。では、すべてを見せてやろう」
「千年の真実を」
「そして、お前がそれに耐えられるかどうかを」
清明井の水が、渦を巻き始めた。
慎一の選択が、すべての運命を決める。
明日の満月まで、あと数時間。
最後の戦いが、始まろうとしていた。
しかし、それは戦いというより、究極の物語の始まりだった。
永遠の語り部が生まれる、瞬間の物語。
慎一の水の体が、ゆっくりと清明井へと流れ込んでいく。
しかし、それは単純な落下ではなかった。
まず、指先が水面に触れた瞬間、全身に電撃のような衝撃が走った。
自分の体を構成していた水の分子が、一つ一つ引き剥がされていく感覚。それは、生きたまま皮を剥がれるような激痛を伴った。
『痛い』と叫ぼうとしても、もう声帯はない。
代わりに、水泡が浮かび上がる。その一つ一つに、断末魔の叫びが込められている。
井戸の水と混ざり合う過程で、慎一は自分の輪郭を失っていく。
右手は、もう自分のものか分からない。
左足は、いつの間にか千年前の漁師のものと入れ替わっている。
心臓は——もう、心臓というものが何だったか思い出せない。
最も恐ろしかったのは、この苦痛に慣れていく自分を感じることだった。
痛みは消えない。しかし、それが「正常」だと認識し始めている。
慎一の意識は、完全に断片化していた。
しかし、不思議なことに、それぞれの断片が独立した意識を持っていた。
——一つの断片は、まだ大学の研究室にいる。あかねと普通に会話し、論文を書いている。これが現実だと信じている。
——別の断片は、七歳の井戸の中で永遠に溺れ続けている。助けを求める声は、もう枯れ果てた。
——また別の断片は、千年前の巫女と同化し、恋人への憎悪に燃えている。この感情が自分のものでないと、もう思い出せない。
——さらに別の断片は、未来の八雲島で、新たな犠牲者を待っている。その犠牲者が過去の自分だと知りながら。
これらすべてが、同時に「慎一」だった。
どれが本当の自分なのか?
その問い自体が、もはや意味を持たない。
すべてが本当で、すべてが幻。
水の中では、そんな区別は溶けて消える。
慎一は、自分が語り部になることを選んだ。
しかし、その選択の真の意味を、今になって理解し始めていた。
語り継ぐということは、すべての苦痛を自分の中に保存し続けるということ。
千年分の死を、千年分の絶望を、千年分の狂気を、すべて鮮明に記憶し、それを正確に伝え続ける。
しかも、ただ記憶するのではない。
追体験し続けるのだ。
語るたびに、死に、狂い、絶望する。
それを、永遠に繰り返す。
『これが、お前の選んだ道だ』
集合意識が、冷たく告げた。
『美しい選択だと思ったか?』『高潔な自己犠牲だと?』『違う。これは、最も残酷な永遠だ』
慎一は、しかし、後悔しなかった。
いや、後悔する「慎一」は、もうどこにもいなかった。




