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第65話 最後の人間性
慎一の水の体は、ゆっくりと部屋から流れ出した。
廊下を伝い、階段を降り、宿の外へ。
夜の闇の中を、一筋の水が清明井へと向かっていく。
その途中で、慎一は自分の中に残る最後の人間性と対話した。
『本当に、これでいいのか?』
人間としての慎一が問いかける。
『もう、恋をすることも、美味しいものを食べることも、友と語らうこともできない』
水の語り部となった慎一が答える。
『でも、千年の恋を語り継げる』
『すべての味を記憶できる』
『永遠に、人々と物語を通じて繋がれる』
それは、失うものと得るものの、究極の天秤だった。
そして、慎一は微笑んだ。
水の体では表情は作れない。
しかし、意識は確かに微笑んでいた。
『これが、私の選んだ道』
『民俗学の語り部として、最高の結末かもしれない』




