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第58話 民俗学徒の矜持
宿の部屋では、慎一の肉体がさらに変化を遂げていた。
もはや人間の形は完全に失われ、部屋の床一面に広がる水溜まりと化している。しかし、その水は普通の水ではなかった。
意識を持った水。
思考する液体。
そして、語り継ぐ意志を持った存在。
キヨが様子を見に来ても、もう驚かなかった。
「いよいよね、羽生さん」
老婆は、水溜まりに向かって話しかけた。
「もうすぐ、完全な水籠になる。そうしたら、井戸にお連れするから」
しかし、キヨは気づいていなかった。
水溜まりの一部が、密かに部屋の隙間から流れ出していることに。
慎一は、自分の体を分散させていた。
一部は部屋に残し、一部は廊下を伝い、一部は壁の隙間を通って、島中に自分を拡散させていく。
それは、水籠として与えられた能力の、想定外の使い方だった。
そして、慎一の意識の中で、ある考えが形を成していった。
『語り部は、一箇所に留まる必要はない』
『物語は、風のように、水のように、広がっていくもの』
『ならば、私も……』




