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第51話 境界の崩壊

慎一の意識は、もはや肉体に縛られていなかった。


しかし、それは解放ではなく、新たな恐怖の始まりだった。


意識が拡散するにつれて、慎一は「自分」という境界を失っていく。今、考えているこの思考は、本当に羽生慎一のものなのか?それとも、すでに水に溶けた無数の意識の一部なのか?


『私は……誰だ?』


その問いに、千の声が一斉に答えた。


『お前は我々だ』『我々はお前だ』『もう、区別など無意味だ』


慎一は必死に抵抗した。


『違う! 私は羽生慎一だ! 民俗学を学ぶ——』


しかし、「民俗学」という言葉の意味が、突然分からなくなった。それは食べ物か? 場所か? 人の名前か?


記憶が、概念が、言語が、次々と水に溶けていく。


そして、恐ろしいことに、慎一はそれを心地よく感じ始めていた。


水たまりと化した体から、意識だけが浮遊し、宿の天井を通り抜け、空へと昇っていく。いや、昇るという表現は正確ではない。あらゆる方向に同時に拡散していく感覚。


そして、見えてきたのは、島の真の姿だった。


上空から見た八雲島は、巨大な目のような形をしていた。


七つの井戸が瞳孔を取り囲むように配置され、集落は虹彩、海岸線は瞼。そして、その目は、じっと空を見つめている。


何を待っているのか。


何を見ているのか。


慎一の意識が、さらに上昇した時、恐るべき真実が見えた。


空に、もう一つの目があった。


雲の切れ間から覗く、巨大な水の目。それは、島の目と向かい合い、じっと見つめ合っている。


渟の神の、真の姿。


千年間、島を監視し続ける、巨大な水の意識体。


『ようこそ、新しい子よ』


声が、直接慎一の意識に響いてきた。それは、老若男女の声が幾重にも重なった、不協和音のような声。


『長い間、待っていた』


慎一は、その声の正体を理解した。


これは、一人の神の声ではない。千年間に水籠となった、すべての人間たちの集合意識。


最初の巫女を中心に、無数の魂が層をなして重なり合い、一つの巨大な存在を形作っている。


そして、その中心部から、最も古い声が響いてきた。


『助けて』


それは、少女の声だった。


千年前、最初に水籠となった巫女の声。


『お願い……終わらせて……』


慎一は衝撃を受けた。


神として崇められている存在の中心で、最初の巫女は今も苦しみ続けている。永遠の意識の牢獄に囚われ、死ぬことも、狂うこともできずに。

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