第46話 あかねの出現
「そこまでよ」
声が、背後から聞こえた。
振り返ると、あかねが立っていた。
しかし、それは昼間見たあかねとは、まるで別人だった。
髪は水のように流れ、その一本一本が独立して動いている。まるで、水中の海藻のように、見えない潮流に揺られて。
肌は透明に近く、内部で青い何かが循環しているのが見える。それは血液ではない。もっとゆっくりと、もっと不規則に流れる、生きた水。
そして、最も恐ろしいのは、彼女の影だった。
月光の下、あかねの影は人の形をしていなかった。不定形に広がり、触手のように伸び、まるで別の生き物のように蠢いている。
「あかね……」
慎一が名を呼ぶと、彼女の表情が一瞬、苦痛に歪んだ。
その瞬間、彼女の顔が——
溶けた。
ほんの一瞬、顔の輪郭が崩れ、水のように流れ落ちそうになった。しかし、すぐに元の形を取り戻す。
「来ちゃだめだって、言ったのに」
あかねの声は、複数の音が重なっているようだった。彼女自身の声と、別の誰かの声が。
「でも、もう遅い。私も、もう限界」
あかねの体が、ゆらりと揺れた。
その瞬間、彼女の中から別の声が響いた。
「お姉ちゃん、もうやめて!」
それは、より若い少女の声だった。
3. 美咲の存在
あかねの体が二つに分裂し始めた。
それは、単純な分離ではなかった。
まず、あかねの胸の中心から、別の顔が浮かび上がってきた。皮膚を内側から押し上げ、口が、鼻が、目が、ゆっくりと形作られていく。
「お姉ちゃん、もうやめて!」
美咲の声は、あかねの胸から直接響いてきた。
そして、恐ろしい光景が始まった。
あかねの体が、縦に裂け始めた。しかし、血は流れない。代わりに、透明な粘液が糸を引きながら、二つの体を繋いでいる。
左半身があかね、右半身が美咲という、グロテスクな姿がそこにあった。
「痛い……痛いよお姉ちゃん……」
美咲が泣き叫ぶ。
「我慢して美咲……もう少しで……」
あかねも苦痛に顔を歪めている。
二人の体は、完全に分離しようとしては、また引き戻される。まるで、見えない力が二人を一つに保とうとしているかのように。
そのたびに、ぐちゃり、という湿った音が響く。
「美咲……」
慎一は理解した。あかねの妹、三年前に水籠になったはずの美咲。
「お姉ちゃんは、私を助けようとして……」
美咲の水の姿が、慎一たちに向かって必死に訴えた。
「でも、水籠システムの掟で、家族の誰かが新しい犠牲者を連れてこないと、完全な水籠になれない」
だから、あかねは慎一を……
「違う!」
あかねが叫んだ。
「私は、慎一くんを巻き込みたくなかった。でも、体が、心が、勝手に……」
姉妹の苦悩が、痛いほど伝わってきた。
あかねと美咲の意識が混濁する中、その思考が慎一にも流れ込んできた。
水の因子を通じて、三人の意識が繋がってしまったのだ。
慎一の頭の中に、あかねの記憶が雪崩れ込む。
——小学校の、プールの授業。みんなが楽しそうに泳ぐ中、あかねだけは水から上がれなかった。体が勝手に沈んでいく。助けを求めても、声が出ない。水の中で、何かが足首を掴んでいる——
——中学生の時。美咲が井戸に落ちた日。助けようと手を伸ばしたあかねの腕が、肘から先だけ水になった。美咲を掴めない。透明な水の腕で、妹を抱きしめることもできない——
——高校の修学旅行。お風呂で、あかねの下半身が完全に水と化した。必死で人間の形を保とうとするが、水は水槽に還ろうとする。友達に見つかる恐怖。朝まで、浴槽の中で人の形を保ち続けた——
記憶の奔流が、慎一の自我を押し流そうとする。
誰の記憶なのか、誰の感情なのか、もはや判別できない。




