第20話 最初の夜
夕食後、慎一は自室に戻った。
窓を開けると、涼しい夜風が入ってきた。虫の声が聞こえ、遠くで波の音が響いている。
月明かりに照らされた海は、昼間とはまた違った美しさを見せていた。銀色に輝く海面が、静かに波打っている。
慎一は、今日一日を振り返った。
恐怖と緊張の中で島に着いたが、実際に上陸してみると、そこは美しく平和な場所だった。
人々は親切で、食事は美味しく、自然は豊か。
あかねも元気そうで、本当に体調が回復したように見える。
「考えすぎだったのかもしれない」
慎一は、そう自分に言い聞かせた。
確かに、大学でのあかねの様子は異常だった。しかし、都会の生活が合わない人もいる。特に、こんなに美しい島で育った人なら、東京の環境はストレスだっただろう。
慎一は、ベッドに入った。
布団は、太陽の匂いがして心地よかった。
そういえば、一つ気になることがあった。
机の上に置かれた水差し。
中には、透明な水が入っている。
慎一は、コップに水を注いで飲んでみた。
「……美味しい」
驚くほど美味しい水だった。
まろやかで、かすかに甘みがあり、喉を通った後も爽やかな余韻が残る。都会の水道水とは、まったく違う。
これが、島の水か。
確かに、こんな美味しい水を飲んで育ったら、都会の水は飲めなくなるかもしれない。
窓の外を見ると、集落のあちこちに井戸が見えた。
月明かりに照らされた井戸は、神秘的に見える。
明日は、あの七つの井戸を巡るのか。
慎一は、少しわくわくしていた。
民俗学者として、古い井戸や言い伝えには興味がある。きっと、貴重な資料が得られるだろう。
ふと、視線を感じて窓の外を見た。
向かいの家の二階から、誰かがこちらを見ているような気がした。
しかし、目を凝らしても、人影は見えない。
気のせいか。
慎一は、カーテンを閉めた。
そして、電気を消して布団に入った。
波の音が、子守歌のように響いている。
慎一は、いつの間にか深い眠りに落ちていった。
夢も見ないほど、深い眠りに。
しかし、慎一は気づいていなかった。
水差しの水が、月光を受けてかすかに青く光っていることに。
そして、その光が、ゆっくりと脈動していることに。
まるで、生きているかのように。
そして、もう一つ。
慎一が眠った後、部屋の外の廊下に、濡れた足跡が点々と続いていたことにも。
その足跡は、慎一の部屋の前で止まり、しばらくそこに留まった後、再び階段を降りて消えていった。
まるで、誰かが慎一の様子を確認しに来たかのように。
しかし、慎一は何も知らない。
深い眠りの中で、島の美しさだけを夢見ていた。
それが、嵐の前の静けさだということも知らずに。




