第2話 若き研究者
大学三年の春、慎一は民俗学ゼミでもトップクラスの成績を修めていた。特に水に関する伝承の研究では、その異常なまでの執着心が功を奏し、教授からも一目置かれる存在となっていた。
「消えゆく文化を語り継ぐことは、その文化に生きた人々の魂を救うことです」
慎一は、ゼミの発表でよくこの言葉を口にした。それは、指導教授の受け売りではなく、彼自身の信念から生まれた言葉だった。
幼い頃の井戸での体験が、逆説的に彼を民俗学へと導いた。あの水の中で見た無数の顔――彼らは何者だったのか。なぜ、水の中で苦しんでいたのか。その答えを探すうちに、慎一は気づいた。
語り継がれなかった死は、本当の死になる。
名前も、生きた証も、すべてが水の底に沈んで消えてしまう。だからこそ、語り継ぐことが重要なのだ。たとえそれが、恐ろしい伝承であっても。いや、恐ろしい伝承であればあるほど、正確に語り継ぎ、後世に伝えなければならない。
慎一の研究ノートは、すでに十冊を超えていた。日本各地の水にまつわる伝承、儀式、タブー。特に、人身御供や水神への生贄に関する記録は、他の研究者が敬遠するような詳細さで記されていた。
研究室のドアが開き、同じゼミ生の木村が入ってきた。
「また遅くまでやってるな」
木村は慎一の隣に腰を下ろした。彼もまた、民俗学に情熱を注ぐ学生の一人だった。特に、失われゆく祭礼の記録に関心を持っている。
「木村こそ。今日は何を?」
「隠岐の島の水祭りの資料を調べてた。面白いんだ、これが」
木村が広げた資料には、海に供物を捧げる儀式の写真があった。
「水に関する祭礼は、日本中にあるんだな」
慎一が資料を覗き込むと、木村が心配そうな表情を見せた。
「お前、また顔色悪いぞ。水の研究もいいけど、体は大丈夫か?」
木村は、慎一の水に対する恐怖を知る数少ない友人の一人だった。七歳の時の井戸の一件も、酔った勢いで打ち明けたことがある。
「ああ、大丈夫だ」
「無理すんなよ。お前の研究は貴重だけど、それで体を壊したら元も子もない」
木村の言葉には、真の友情がこもっていた。二人は時に深夜まで民俗学談義に花を咲かせ、時に激しく議論を交わす。そんな関係だった。
「ところで、百合川さん、最近様子がおかしくないか?」
木村が声を潜めた。
「ああ……」
「正直、心配だ。何か力になれることがあったら言ってくれ」
慎一は、この友人の存在をありがたく思った。
大学の民俗学研究室は、古い木造校舎の三階にある。もうすぐ沈みそうな西日が、窓から差し込み埃っぽい空気を金色に染めていた。本棚には各地の民話集や古文書の複写が並び、壁には日本各地の祭りの写真が貼られている。慎一は机に向かい、先週末に訪れた秩父の山村で採録した祭礼の記録をノートパソコンに打ち込んでいた。
その時、ふと違和感を覚えた。
振り返ると、研究室の隅で、百合川あかねが水筒を見つめていた。もう三十分は同じ姿勢でいる。水筒の蓋は開いているが、一度も口をつけていない。ステンレスの水筒の表面には、細かい水滴がびっしりとついているが、それは結露ではないように見えた。
慎一は、研究ノートを取り出した。すでに十冊を超えたノートの最新巻。ページを開くと、びっしりと書き込まれた文字が並んでいる。
ふと、指先に違和感を覚えた。ペンを持つ手が、かすかに湿っている。いつからだろう、文字を書く時だけ、手のひらから水が滲むようになったのは。
「記録しなければ」
慎一は呟いた。それは使命感からか、それとも何か別の衝動からか。時折、自分でも分からなくなる。ただ書かずにはいられない。まるで、何かに急かされているかのように。