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第13話 最初の犠牲者

港が近づくにつれて、生き残った乗客たちの様子がおかしくなっていった。


老人は、ずっと海を見つめていた。涙は枯れ、ただ虚ろな目で水面を見ている。時々、「ばあさん」と呟くが、その声には感情がない。まるで、魂が抜けてしまったかのように。


「もうすぐ……一緒になれる……」


老人の呟きは、次第に恍惚としたものに変わっていった。


中年男性は、また写真を見始めた。しかし、今度は違った。写真に向かって、何かを話しかけている。返事があるかのように、頷いたり、首を振ったり。


「そうか、美香。もうすぐ会えるんだな」


「パパも、水になれば一緒にいられる」


「痛くない? 本当に?」


独り言は次第にエスカレートしていく。そして、男性の目が完全に白濁した。


月島は、必死に正常を保とうとしていた。しかし、その手は止まらずに震え、時々、えづくような仕草をする。口元を押さえて、何かを吐き出すのを堪えているような。


「私は……まだ……人間……」


月島は自分に言い聞かせるように呟いていた。しかし、その声も次第に水音のような響きを帯びてきた。


慎一も、自分の変化を感じていた。


体の奥底で、何かが蠢いている。それは、自分の血液ではない何かが、血管を通って全身を巡っているような感覚。


そして、喉が渇かない。


朝から何も飲んでいないのに、まったく喉の渇きを感じない。むしろ、体の中に水が溜まっていくような感覚がある。


それでも、慎一は記録を続けた。


甚助の三十年の苦悩、乗客たちの変化、そして自分自身の侵食。


すべてを、可能な限り客観的に記録する。


それが、最後まで人間でいるための、唯一の方法かもしれない。


港の桟橋が見えてきた。


小さな木造の桟橋で、朽ちかけているように見える。そして、桟橋の上に人影が立っていた。


いや、人影という表現は正確ではない。


彼らは確かに人の形をしていたが、その立ち姿は異様だった。全員が同じ方向を向き、同じ姿勢で、まるで人形のように直立している。


その中に――


「あかね……」


慎一は息を呑んだ。


あかねがいた。


しかし、もはや大学で見た面影はなかった。


髪は海藻のように波打ち、肌は青白く透き通り、目は魚のように濁っている。着ている服も、体に張り付いて第二の皮膚のようになっている。


船が桟橋に着くと、老人がふらふらと立ち上がった。


「ばあさんが……呼んでる……」


老人は、夢遊病者のような足取りで船を降りた。


中年男性も続いた。写真を胸に抱いて、うつろな笑みを浮かべながら。


月島は、船室で震えていた。


「私は……まだ……」


しかし、彼女の体が勝手に動き始めた。立ち上がり、よろよろと船べりへ。


「いやっ!」


月島は必死に抵抗した。手すりを掴み、船を降りまいとする。


しかし、見えない力が彼女を引っ張っているようだった。


指が一本ずつ手すりから離れていく。


そして――


月島も船を降りた。


桟橋に降りた三人は、待っていた人影たちの中に吸い込まれていった。


そして、全員が同じ方向を向いて、同じ姿勢で立った。


新しい人形が、三体増えた。


「行くか?」


甚助が慎一に聞いた。


「それとも、このまま帰るか?」


甚助の目には、わずかな希望が宿っていた。せめて一人でも、この地獄から救いたいという思い。


しかし、同時に諦めも見えた。三十年間、誰一人救えなかった現実。


慎一は、桟橋に立つあかねを見つめた。


彼女は微動だにしない。ただ、その濁った目だけが、かすかに慎一を見ているような気がした。


助けを求めているのか。


それとも、仲間に引き入れようとしているのか。


「……行きます」


慎一の答えに、甚助は深いため息をついた。


「そうか」


甚助は、懐から小さな袋を取り出した。


「これを持っていけ」


中には、塩が入っていた。


「気休めかもしれんが、昔から塩は邪を払うという。せめて、人間でいられる時間を少しでも延ばせるかもしれん」


慎一は、感謝して塩を受け取った。


そして、船を降りた。


足が桟橋に着いた瞬間、全身に電流が走るような衝撃を受けた。


この島の土地が、水が、空気が、すべてが慎一の体内の「何か」と共鳴している。


そして、頭の中に声が響いた。


『おかえりなさい』


誰の声かは分からない。男とも女ともつかない、老人とも子供ともつかない。あるいは、すべての声が重なっているのかもしれない。


『長い旅路、お疲れ様でした』


『やっと、帰ってきたのね』


『私たちは、ずっと待っていました』


慎一は振り返った。


甚助がエンジンをかけていた。


「三日後の午後二時、ここに迎えに来る。それまでに戻らなければ、俺は帰る」


「三日後? 一週間後じゃなかったんですか」


甚助は首を横に振った。


「状況が変わった。三日後を逃せば、次はいつになるか分からん」


「どういう意味ですか?」


甚助は、空を見上げた。


「嵐が来る。今までにない、大きな嵐が」


確かに、空の端に黒い雲が見えた。しかし、それは普通の雨雲ではないような気がした。


渦を巻き、脈動し、まるで生きているかのような雲。


「それと、もう一つ」


甚助が、真剣な表情で慎一を見た。


「もし、本当に友人を救いたいなら、水に飲まれる前に行動しろ。完全に水籠になってしまったら、もう手遅れだ」


甚助は慌てたように船を出した。


まるで、一秒でも早くこの場を離れたいかのように。


エンジン音が遠ざかっていく。


慎一が振り返ると、人形たちが一斉に動き出した。


ぎこちない動きで、石段を上っていく。


その列の最後尾に、あかねがいた。


彼女だけが、一瞬振り返った。


そして、口を開いた。声は出ない。しかし、唇の動きで分かった。


『逃げて』


次の瞬間、あかねの表情が変わった。


人形のような無表情に戻り、他の人々と同じように歩き始めた。


慎一は、重い足を引きずりながら、その後に続いた。


そして、研究ノートに記した。


『七月十五日 午後三時 八雲島上陸


すでに侵食は始まっている。


しかし、記録は続ける。


最後の一瞬まで。』


八雲島での三日間が、始まろうとしていた。


いや、それは本当に三日で終わるのだろうか。


甚助の船が、もう豆粒のように小さくなっている。


慎一の最後の退路が、白い波しぶきを上げて、遠ざかっていった。


そして、慎一の背後で、桟橋が音を立てて海に沈み始めた。


まるで、もう誰も逃げられないようにするかのように。


慎一は、ペンを握りしめた。


これから起こることを、すべて記録しなければならない。


それが、水と人間の境界に立つ、最後の記録者としての使命だから。


その頃、東京の大学では、木村が慎一の行方を心配していた。


「羽生の奴、昨日から連絡が取れないんだ」


木村は、篠田教授の研究室を訪れていた。


「そういえば、百合川さんも急に休学届けを出したそうですね」


篠田教授が、眼鏡を外して目頭を押さえた。


「二人とも、同じ場所に行ったのかもしれません」


「同じ場所?」


「八雲島……かつて水野君が消息を絶った島です」


木村の顔が青ざめた。


「まさか、羽生も……」


「心配なら、調査団を組織しましょう。私も、四十年前の真相を確かめたい」


木村は決意を固めた。親友を救うために、自分も八雲島へ向かうことを。

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