第10話 渡海丸の乗客たち
慎一は、狭い船室を覗いた。
老夫婦は、一番奥の席に寄り添って座っていた。老婆は相変わらず子供服を抱きしめ、時折それに話しかけている。
ふと見ると、老婆の首筋に、かすかな痣のようなものがあった。青みがかった、水に長時間浸かった時にできるような痕。しかし、老婆はまだ船に乗ったばかりのはずだ。
中年男性は、窓際の席で写真の整理をしていた。写真を一枚、また一枚とめくる。その動作は機械的で、リズミカル。まるで、波の音に合わせているかのように、一定の間隔で繰り返される。
孝太、もうすぐよ。もうすぐ会えるから」
老人は、そんな妻を悲しげに見つめていた。彼の手には、幼い男の子の写真が握られている。
中年男性は、窓際の席で写真の整理をしていた。数十枚はあるだろうか、すべて同じ女性の写真。しかし、新しい写真になるほど、被写体の顔が歪んでいる。
「娘なんです」
男が突然口を開いた。慎一と目が合ったわけでもないのに。
「三年前、大学の夏休みに友達とこの島に旅行に行って。それきり……」
男の声は平坦だった。感情が抜け落ちたような。
「警察は自殺として処理しました。でも、遺体は見つかっていない。だから、まだどこかに……」
男は、一番新しい写真を取り出した。そこに写っているのは、もはや人間とは呼べない何かだった。水で膨れ上がった顔、飛び出した目、そして首から生えた海藻のようなもの。
「これが最後に撮れた写真です。島の民宿の人が送ってくれた」
慎一は目を逸らした。
老夫婦も、同じように話し始めた。
「孫です。五歳の男の子」
老婆の声は、枯れていた。
「去年、息子夫婦と一緒に島に行って。息子夫婦は帰ってきましたが、孫だけが……」
「息子夫婦も、何があったか話してくれません。ただ、毎晩うなされて……」
老人が付け加えた。
「昨日の晩、息子が寝言で言ったんです。『ごめん、渡すしかなかった』と」
慎一は、ぞっとした。渡すしかなかった。まるで、孫を生贄として差し出したような言い方だ。
若い女性――月島は、最初は黙っていた。しかし、船が港を出る頃、ぽつりと話し始めた。
「月島といいます。看護師を……していました」
過去形なのが気になった。
「一年前、病院の同僚と四人で、この島に旅行に行きました」
月島は、首筋の絆創膏を無意識に触った。
「きれいな島でした。最初の三日間は、本当に楽しかった」
その声が震え始めた。
「でも、四日目の夜、雨が降って……」
月島は言葉を切った。そして、絆創膏を剥がした。
その下には、恐ろしい傷跡があった。
いや、傷跡というより、えらのような切れ込み。呼吸に合わせて、かすかに開閉している。
「私だけが、帰ってきました。他の三人は……」
月島は涙を流した。しかし、その涙は透明ではなく、かすかに青みがかっていた。
「でも、毎晩夢に見るんです。三人が、海の底から手を振っているのを。『早く来い』って」
慎一は、自分がなぜこの船に乗っているのか、改めて考えた。
あかねを助けるため? それとも、自分も彼らと同じように、水に呼ばれているのか?
いや、違う。
慎一は、研究ノートを取り出した。
自分は語り部だ。この人々の物語を、島の真実を、すべて語り継ぐために来たのだ。
老夫婦の、孫への愛。
中年男性の、娘への執着。
月島の、同僚への罪悪感。
そして、甚助の、妻への永遠の想い。
すべてを記憶し、後世に伝える。それが、民俗学の語り部としての使命だ。
「全員乗ったな」
甚助がエンジンをかけた。古いディーゼルエンジンが、黒い煙を吐き出しながら唸りを上げる。
「じゃあ、出港する。命が惜しい奴は、今のうちに降りろ」
誰も動かなかった。
皆、すでに覚悟を決めている。あるいは、選択の余地がないのか。
船は、ゆっくりと岸壁を離れた。
慎一は、最後に陸地を振り返った。
港には、見送る人は誰もいなかった。
ただ、待合所の窓から、あの老人がこちらを見ていた。
その表情は、まるで葬列を見送るようだった。