第1話 水を飲まない少女
羽生慎一が初めて百合川あかねの異変に気づいたのは、梅雨入り前の蒸し暑い午後のことだった。
ただ、今思えば、もっと前から予兆はあったのかもしれない。彼女が飲み物を口にする時の、一瞬の躊躇い。雨の日に見せる、説明のつかない怯え。そして、鏡に映る彼女の姿が、時折、実物より少しだけ透けて見えたような——いや、それは記憶の改竄かもしれない。人は後になって、見落としていた兆候を「見ていた」と思い込むものだから。
しかし、本当の始まりは、もっと前――慎一が七歳の時の、ある夏の出来事に遡る。
祖父の家の井戸に落ちたのだ。深い、底の見えない古井戸。真夏の昼下がり、誰もいない庭で、慎一は井戸を覗き込んでいた。石組みの縁に手をかけ、暗い穴の奥を見つめていた。そして、誤って柵を越え、落ちた。
冷たい水が全身を包んだ。息ができない。暗闇の中で、慎一は必死にもがいた。水は想像以上に冷たく、七歳の小さな体から急速に体温を奪っていく。その時、水の中で何かを見た。
無数の顔だった。老若男女、様々な時代の人々の顔が、水の中で苦悶の表情を浮かべていた。そして、その顔たちが一斉にこちらを見て、口を開いた。『仲間……新しい仲間……』
だが、最も恐ろしかったのは、その顔の中に、大人になった自分自身の顔があったような気がしたことだ。水に歪んで定かではなかったが、あの絶望的な表情は——
幸い、慎一はすぐに救出された。意識を失っていたのは、ほんの数分。庭仕事をしていた祖母が、水音に気づいて駆けつけたのだ。しかし、その記憶は、トラウマとなって慎一の中に刻まれた。
医者は「一時的な酸欠による幻覚」と診断したが、慎一には分かっていた。あれは幻覚などではない。確かに、水の中に「何か」がいたのだ。
以来、慎一は水を恐れるようになった。風呂も短時間で済ませ、プールの授業は見学。海や川には近づかない。ペットボトルの水でさえ、飲む時には一瞬躊躇してしまう。
そんな慎一が民俗学を選んだのは、皮肉にも、その恐怖を理解したかったからだった。なぜ、日本には水にまつわる恐ろしい伝承が多いのか。水神への生贄、河童、人魚、入水――水にまつわる怪異や死の物語は、枚挙にいとまがない。