表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

風の中へ消えた君と、すれ違っただけの令嬢

作者: 入多麗夜
掲載日:2025/05/29

すれ違った二人の話です。

 王都レヴァレンスの城下町は、朝からにぎわいを見せていた。


 石畳の広場には野菜や布地を並べた露店が立ち並び、焼きたてのパンの香ばしさが風に乗って流れていく。


 そんな人々の喧騒のなか、一人の少女が顔を伏せるようにして歩いていた。


 アリス・ロザリンド。

 ロザリンド伯爵家の令嬢にして、王宮に名を連ねる名門の娘。


 だがその日は、控えめな麻のドレスに身を包み、顔も帽子の陰に隠していた。


 貴族らしい絹のリボンも、香水の香りもない。誰の目にも、よくある商家の娘にしか見えない姿。


「……意外と、うるさくはないのね」


 つぶやきは、まるで自分自身に向けるものだった。

 見上げた空は淡く霞み、城壁の向こうに朝日が差し始めている。

 市場に集まる人々のざわめきは、宮廷で耳にする名士の声よりもずっと生き生きしていた。


 アリスは足元を見つめながら歩く。

 革靴の裏が、石の継ぎ目を確かに踏みしめていた。


 こんなふうに町を歩いたのは、いつ以来だろう。

 それどころか、一人で屋敷の門を出たのも、はじめてのことだったかもしれない。


「……さすがに少し、緊張するわね」


 小声で苦笑し、アリスは手に持った籠を握り直した。

 それは名ばかりの“買い物籠”であり、実のところ中にはまだ何も入っていない。


 ただ、この町に降りてきた証として、それを持っているだけだった。


 なぜ来たのか。


 自分でもはっきりとはわからなかった。


 ただ、あの屋敷の中でもう少し呼吸ができる場所が欲しかった。

 決められた日課、礼儀作法の復習、笑顔の角度まで測られる食卓。

 完璧であれと求められ続けることに、疲れていたのかもしれない。


 もちろん、それが“役目”だということは理解していた。

 ロザリンドの名を継ぐ者として、常に見られ、測られ、選ばれ続けること。

 そうでなければ、あの一族の中で生きることはできない。


 ――それでも今日だけは、ただ“私”でいたい。


 そんな漠然とした思いが、胸の奥で静かに息づいていた。

 言葉にすれば幼くて、わがままに聞こえるものだと、アリス自身が一番よくわかっていた。

 けれど、それでも。


 誰に名を呼ばれるでもなく、家柄を背負うでもなく、

 “自分が何を選び、何を好きだと思うのか”を確かめる時間が欲しかった。


 それが、どれほど叶いがたい願いであるかも知っている。けれど、だからこそ。


 その一日が、どうしても欲しかった。


 誰にも知られず、誰にも命じられず、

 ただ“わたし”として歩ける朝を、心のどこかで待ち望んでいた。


 そして、今日がその日だと決めた。

 誰の許しも得ないまま、自分で決めた初めての“行き先”だった。


 アリスは、指先で帽子の庇をそっと押さえた。

 春の風が髪を揺らし、ほんの少しだけ、顔にかかる。

 控えめな麻のドレスは、屋敷で着る衣装よりずっと軽く、けれど何故か、その重みが懐かしいようにも感じられた。


 ああ、そうだ。


 昔、屋敷の奥庭に出入りしていた洗濯女の娘が、似たような色の服を着ていた。

 あの子が花を編んでくれたあの日のことを、アリスはふと思い出した。


「……なんでもない日の記憶って、ずっと残ってるのね」


 胸の奥で、そんな言葉が芽吹く。

 特別ではない一日。それでも、確かに“生きていた”と感じられる時間。


 それが、きっと本当に欲しかったものなのだろう。


 気がつけば、広場の中央に差しかかっていた。

 露店の間を行き交う人々、積み上げられた果物、風に揺れる布地。


 そこでアリスは、ようやく気づく。


 この町は、誰のためでもない言葉で溢れていた。

 値段の交渉も、冗談も、笑い声も、みな“自分の声”で語られている。


 そのささやかな自由が、眩しくて、羨ましかった。


「……あっ!」


 不意に背中に当たった何かが、アリスの身体をぐらりと揺らした。

 足元はさっき通った噴水脇の水溜まり――滑る石畳。

 踏みとどまろうとして一歩踏み出したその靴裏が、水を跳ね上げた。


 ぱしゃり、と控えめな音。

 アリスの前に立っていた青年の上着に、小さな水飛沫が散った。


「す、すみません……!」


 アリスはすぐに謝罪の声を上げた。

 彼女の足元には、乾いた籠が転がっているだけだった。

 だが、見れば見るほど、青年の服の裾には淡く水跡が残っていた。


 青年は、自分の服に視線を落として、首を傾げる。


「……ああ、大丈夫です。水ですね。怪我じゃないので」


 それでもアリスは落ち着かなかった。

 自分のせいで人の服を汚してしまったことが、どうしても気にかかる。


「でも……拭かせてください。せめて、乾いた布を……それとも、新しい上着を……っ」


 青年がもう一度やんわりと断ろうと口を開くより早く、アリスは少しだけ顔を上げて、続けて話した。


「……お金は、あります。ですから、迷惑をかけた分は……ちゃんと払います。私の責任ですから」


 青年が少しだけ目を見開き、それからふっと微笑んだ。


「いえいえ、これは古着ですから。何度も洗ってくたびれてますし、気にしないでください」


 けれど、アリスは納得しきれず、口元に迷いを浮かべたまま首をかしげる。


「でも……わたしのせいで濡れてしまったのに」


 その声音には、言い訳でも気休めでもない“本心”がにじんでいた。


 青年はしばらく黙っていたが、やがて少しだけ笑って言った。


「……そんなに気にされるなら、こうしましょう」


 アリスが目を上げると、彼は朝の光の中で、少しだけ視線を柔らかくした。


「そこまで深く負い目を感じてるなら、よければ――ご飯でも一緒に行きませんか?」


 思いがけない提案に、アリスは一瞬だけ目を瞬かせる。


「ご飯……?」


「ええ。謝罪の代わりってわけじゃないですが、もし君さえ良ければ。ちょうど僕も、これから朝食にしようと思ってたところですし」


 彼の言葉には、押しつけがましさも、気取りもなかった。

 ただ、ごく自然に――この偶然を少しだけ続けたい、そんな気持ちがにじんでいた。


「……わかりました。では、ご一緒させていただきます」


 アリスはわずかに口元を引き結んで、静かに頷いた。


 人々の流れに逆らうように、青年は通りの奥へと歩き出す。

 アリスは一瞬だけ後ろを振り返り、自分がいた広場を見やった。

 朝の光はすでに上り始め、屋根の影が徐々に短くなっている。


 こんな自由も、長くは続かないだろう。

 けれど、もう少しだけ――素顔のままで歩いてみたい。


 そう思って、アリスは小さな足音で彼のあとを追った。







 案内されたのは、通りを一本抜けた先にある小さな屋台だった。


 木の柱に布屋根を渡しただけの簡素な作りだが、鍋から立ちのぼる湯気が心地よく、香ばしい香りが空腹をくすぐった。


「ここ、安いけど美味しいんです。大きな宿の料理より、僕はこっちの方が好きで」


 青年がそう言いながら、簡素な木の椅子を指さした。

 アリスは少しだけ戸惑いながら、その隣に腰を下ろす。

 座面が傾いでいないか、足元が汚れていないか――そんなことが自然と気になってしまう自分に、内心で苦笑した。


「すみません、お嬢さんには少し粗末だったかもしれませんね」


 ふと、青年が口にした言葉に、アリスの動きが止まる。


「……なんで、そう思ったんですか?」


「いや……なんとなくです。言葉の選び方とか、姿勢とか。あと……座るとき、ちょっと迷ったでしょう」


「……見てたんですね」


「旅が長いと、人の癖に自然と気がつくんですよ」


 アリスは笑わなかった。ただ、黙って前を向いた。

 そうしながらも、屋台の向こうで忙しく立ち回る店主の手さばきに、つい目を奪われる。


 スープをよそい、焼きたてのパンをちぎり、皿に添えるその動き。

 誰も見ていないようでいて、誰かの一日をきちんと支える、あたたかな手。


 やがて、ふたりの前に湯気の立つ木の皿が置かれた。


「お待たせしました。肉と豆のスープです。冷めないうちにどうぞ」


「……ありがとうございます」


 アリスはそう言いながら、スプーンを手に取った。

 金の器でも、磨かれた銀の食器でもない――けれど、指先にしっくりとなじむ質感だった。


 ひとくち、口に含む。


 あたたかさが舌を包み、塩気の奥に広がる野菜の甘みが、ゆっくりと身体を満たしていった。


「……美味しい」


 思わずこぼれた声に、隣の青年が、目を細めて笑った。


 思わずこぼれた声に、隣の青年が、目を細めて笑った。


「でしょ? ここの塩加減は絶妙なんです。干し肉も、自家製らしいですよ」


 アリスは、もう一口スープを口に運びながら、そっと息を吐いた。

 朝のひんやりした空気の中、あたたかさが喉を通っていくのを感じる。

 贅沢ではない。けれど、奇妙な満足感が胸に残った。


「こんなに落ち着く場所が、王都の中にあるなんて思いませんでした」


「ここ、観光客はまず来ないですからね。地元の人と旅人ぐらいですよ。……いや、失礼。君がどちらかはわからないけど」


 そう言って、青年はスープをひとくち啜った。


 アリスはわずかに視線を伏せた。


「……旅人というほどのものではありません。ほんの、気晴らしです」


「気晴らし、か。いいですね。じゃあ、今日は特別な日ってことで」


「ええ、たぶん。私にとっては、少しだけ特別な朝です」


 青年は、しばらく彼女の言葉を噛みしめるように黙ったあと、手元のパンをちぎりながら言った。


「ところで。名前を聞いてもいいですか?」


 アリスは、スプーンの動きを止めた。


「……名前、ですか?」


 ええ。フルネームじゃなくても構いません。呼びかけるときに“そこの人”って言うのも、さすがに不便で」


 少し茶化したような口調に、アリスは肩の力を抜くように小さく笑った。


「じゃあ……“アリス”で」

「アリス。いい名前ですね」


 そう言いながら、青年はパンの欠片を口に運んだ。


「僕は“セス”と呼ばれています。セドリックはちょっと堅いので、旅ではこっちの名を使ってるんです」


「セスさん、ですね」


「“さん”なんてつけなくていいですよ。お互い気楽にいきましょう」


 アリスは軽く頷いて、またスプーンを手に取った。

 たった呼び名に過ぎないはずなのに、空気が少しやわらいだ気がした。


「……旅、なんですか?」


 スープの湯気越しに、アリスがぽつりと尋ねた。

 セスは一口飲み込んでから、うん、と曖昧にうなずいた。


「旅っていうほど格好よくもないんですけどね。あちこち回って、人の話を聞いたり、地図を描いたりしてます」


「地図?」


「ええ。城の中じゃなくて、村と村の間とか。街道じゃない道とか。今は誰も使ってない峠道とか」


「……そういうのを、記録してるんですね」


 アリスは少し驚いたように言った。

 書物で見た“地図を作る仕事”が、実際に目の前の人の手で行われていることが、どこか現実味を伴って響いた。


「でも危なくないですか? 辺鄙なところを通るなら、盗賊とか、獣とか……」


「まあ、危ない目にも何度か遭いましたけど、慣れるもんです。怖いのは獣より人ですね」


 それは冗談とも本音ともつかず、アリスは笑うべきかどうか迷って、結局少しだけ口元を緩めただけにとどめた。


「じゃあ今日は、通りすがりにこの町に?」


「そんなところです。王都の地図はもう大体できてるけど、広場の周りの路地とか、昔の水路跡とか、気になるものが多くて」


「……通りすがりにしては、詳しいですね」


「一度通った道は、けっこう覚えてるんです」


 アリスはスプーンを皿に戻し、木の器の縁を指でなぞった。


「……私は、通りすがりですらありません。今日だけ、抜け出してきただけです」


 セスは驚いた様子も見せず、ただ「そうですか」と相槌を打った。


 それだけの返事が、アリスには不思議と救いに思えた。問い詰めも、詮索もない。続きを話すかどうかを、すべてこちらに委ねる間合いだった。


 少しだけ目を伏せて、アリスは言葉を選ぶように口を開いた。


「生まれた家が……少しだけ、窮屈なんです。良い場所ではあるんですけど、何もかもが決められていて」


 器の縁をなぞっていた指が止まる。


「どんな服を着るか、誰と話すか、何を答えるか――全部“こうであるべき”が先にあって。自分の意志は、いつも後回しです」


 セスは何も言わなかった。けれど、静かに聞いている気配だけは伝わってきた。


「別に、誰かに無理やり閉じ込められているわけじゃないんです。望まれていることを、望まれているようにこなして……。ただ、それがいつの間にか、自分の輪郭をなくしていくみたいで」


 アリスはそっと息を吐いた。

 言葉にしてしまうと、わがままに聞こえるのではないかとどこかで怯えていた。

 けれど、話してしまえば、その重たさは少しだけ胸から抜けていった。


「だから、今日だけは……自分で歩く道を、ほんの少しでも選びたかったんです」


 その言葉に、セスはふっと視線を落とした。

 パンの欠片を指先でつまんで、テーブルの端に軽く転がすようにしてから、ぽつりと口を開いた。


「選ぶって、案外難しいですよね。選べば選ぶほど、何かを失う気がする」


 アリスは目を上げた。

 その横顔には、笑っているような、けれど少し遠くを見るような影が差していた。


「僕も、そういう場所にいたことがあります。全部が決まってて、ただ言われた通りにしていれば、何も困らないはずの場所に」


「……でも、出たんですね」


「出ました。怖くて、勢いだけで。でも……そうするしかなかった」


 彼はそれ以上多くを語らなかった。

 けれど、たったそれだけの言葉に、どれほどの決意が込められていたかは、アリスにもわかる気がした。


「君が今日ここに来たのも、きっと同じようなことなんだろうと思って」


 アリスは小さく頷いた。

 ただの偶然に思えた出会いが、少しだけ意味を持つ気がした。


「……いつか戻らなきゃいけないんですけどね」


「戻る場所があるっていうのも、大事なことです」


 セスは穏やかにそう言って、最後の一口を口に運んだ。


 皿の底に残ったスープの名残が、朝の光にきらめいていた。


 しばらくして、皿の上の湯気も消え、店主が静かに食器を下げていった。

 屋台の喧騒も少しずつ和らぎ、街全体が次の時間へと進もうとしているのがわかった。


「そろそろ、戻らないといけません」


 アリスが静かに立ち上がる。

 セスもそれに倣い、椅子を引いた。


「今日は、ありがとうございました。……本当に」


「こちらこそ。いい朝でした」


 短く交わされた言葉に、取り繕った礼儀も気の利いた言い回しもなかった。

 それでも、互いの胸に残るものは確かだった。


「この先、どこへ行くんですか?」


 アリスが問うと、セスは少し考えるようにして空を見上げた。


「南の街に回ってから、峠を越えるつもりです。まだ地図に載っていない村がいくつかあると聞いて」


「……道中、お気をつけて」


「君も。気晴らしの一日は、もう少し続けてもいいと思いますけどね」


 アリスは笑わなかった。ただ、小さく頷いた。


 ふたりの間に、風が通る。

 春の風だった。冷たさの奥に、芽吹きの匂いが混じっている。


「……ねえ、セス」


 去り際、アリスはほんの少しだけ迷いながら、言った。


「私たち、お互いに肝心なことは話してませんね」


「ええ。でも、それでよかったんじゃないですか?」


 彼はそう答え、にこりと笑った。


「“誰でもない自分”で会えたことの方が、たぶんずっと貴重ですから」


 その言葉に、アリスはようやく口元をゆるめた。

 それ以上は、もう何も言わなかった。


「さようなら、セス」


 風にかき消されそうなその一言に、セスは立ち止まりもせず、振り返りもせず、ただ前を向いたまま手を振って答えた。


「また、君といつか会えますように」


 そしてふたりは、同じ場所から、それぞれ違う方向へ歩き出した。


セドリックは「旅人」と名乗りましたが、本当はアリスと同じ立場の人間です。

家から逃げてきた者同士だからこそ、互いに言葉少なく通じ合えたのだと思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
二人がまたどこかで出会えるかは神のみぞ知る、ですかね…。 簡潔ながら印象に残る面白さでした。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ